人生を楽しむことは瞑想に必要か

2021-08-24 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

よくスピリチュアルでは「人生を楽しみましょう」みたいなことを言いますけど、それは実際のところ瞑想にどのように役に立つかと言いますと、サマーディ以前であれば混乱の元で欲望の元で俗世に縛り付けるための鎖のようなものですが、サマーディがそれなりに確固になった後であればそれは良い人生の経験となり、文字通り楽しむことができるようになります。

スピリチュアルを誤解している人は人生を楽しむための言い訳としてそのようなことを言いますけど、スピリチュアル初心者であれば大抵の場合は単なる言い訳でしかないわけです。もちろん、それなりにスピリチュアルな成長ができている人であれば人生を楽しむということは素晴らしいことになりますけど、人生を楽しむつもりがその楽しみに執着したりして欲望を肥大させるのだとしたらその楽しみは慎むべきものであるわけです。

楽しみにもいろいろあって、人の心を穏やかにさせる楽しみ(サットヴァな楽しみ)と活動的にさせる楽しみ(ラジャスな楽しみ)と落ち込ませるような楽しみ(タマスな楽しみ)とがあって、サットヴァであればそれなりに有益ですけどラジャスやタマスの場合は執着と欲望を肥大させることになりかねません。

実際にはこのあたりは、タマスで落ち込んでいる人はラジャスの活動的な生活をまず目指して、ラジャスな人はサットヴァな落ち着いた生活を目指すという順番にはなるのですけど、ここで言っている、人生を楽しむことができる、というのはサットヴァをも超えたサマーディの状態における楽しみのお話ですので、3つのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)の楽しみのお話ではないのですよね。

サマーディ状態においては基本的にはありのままの状態を楽しみますけど、それほどサマーディが強くない状態においてはサットヴァの楽しみを意図的に行うことで人生を楽しみます。そして、たまにラジャスやタマスの楽しみを意図的に行うことで修行の一環にします。

サマーディ以前の場合の楽しみは渇望によって突き動かされる衝動的なもので、それはサットヴァだろうとラジャスだろうとタマスだろうと基本的には同じで、衝動的に行う本能による欲望による楽しみがサマーディ以前ですけど、サマーディ以降の場合は意図的に行うようになります。サマーディ以降であればもともと大して渇望とかはないのですけど、思考や理由、あるいは環境などにより意図的に何かを行うことを選び、そして意図的に行った行動の結果として楽しみます。実際のところ、行動そのものを楽しみますので結果はどちらでもよく、うまくいってもいかなくてもありのままを楽しむわけです。

サマーディ以前の渇望の場合は何か明確なゴールがあってそれに突き進みますから、失敗すると落ち込んだり自己嫌悪に陥ったり再度挑戦するような新たな渇望になったりしますけど、サマーディ以降であればなんであれありのままに受け入れますので、成功するにしても失敗するにしてもそのままを理解するだけになります。実際にはサマーディ状態では完全なる失敗というのはなくて、単に期待していた結果にならなかったというだけのことで、それすらも学びにしてしまえるわけです。サマーディ状態では新たな渇望というものは生み出さず、自らの行った結果を楽しくも淡々としたエネルギーに溢れた状態で受け入れるわけです。

このようなサマーディ状態が人生を楽しむということであって、スピリチュアルでそう言っているからと言って自らの欲望を自己正当化することではないわけです。実際のところ、自分の欲望を正当化するための言い訳としてスピリチュアルのお話を持ち出すスピリチュアル初心者もそれなりにいて、実際のところそれはそう悪いことではなくて、初心者にありがちな罠で、割と誰しもが陥るお話ですからそれほど悪者扱いする必要はなくて、それを超えて次の理解に達すればいいわけです。