集中もある程度瞑想に必要

2021-08-23 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

語弊がありそうですので私自身はそれほどこの表現を今まで使ってきませんでしたが、これはサマーディ以降であれば正しいと言えます。

流派によっては集中瞑想を否定しているか、あるいは「ある程度は集中も必要」としていたりしますが、そう言えるのはサマーディ(三昧)以降のお話で、それ以前には集中しかないわけです。このお話は何度かしたと思います。

ですけど、流派によっては最初から「集中もある程度必要」とか「集中は不要」とか言われたりします。でも、瞑想を始めてすぐにそう言われても「なんのこっちゃ」となるのも当然かなと思います。

と、言いますのも、サマーディ以前の場合の観察というのは五感の観察のことですからサマーディ的な観察とは違うからです。五感の観察であればそれは単なる感覚の入力であって、瞑想を始めたばかりのころは観察は五感でしかないわけです。

ですから、五感の観察であれば誰にでもありますから、「集中もある程度必要」とかいわれても、なんのこっちゃ、となるわけです。

サマーディであれば努力は不要で観察し続けますから上記は正しいと言えますけど、それ以前の、特に瞑想初心者であれば努力と集中が必要なわけです。

ですけど、この基本がなかなか理解されにくくて、結局、集中することは必要なのかどうか、という堂々巡りのお話が瞑想者によって延々となされているのが現実だと思います。

答えはいつも言っていますけど集中が基本で、観察が付随してくる属性のようなものです。瞑想は集中と観察の両方から成り立っています。

悩ませる点として、「集中もある程度必要」と言っている流派があることです。

自分の流派だけを勉強して実践していればそういう悩みもないのかもしれないですけどこのご時世においてはいろいろな情報が入ってきますから悩んでしまったりするわけですね。

この、「集中はある程度は必要」というのは、サマーディ状態において集中をある程度保ったまま気付きを自動的に行う、という状態がそれに相当したりするのですけど、瞑想の流派によっては一番最初の段階で瞑想初心者に対して同じことを言いますから混乱してしまうわけです。同様のアドバイスは中級者以上のサマーディ状態であればそれは正しくて、私からしても、自分の状態を時々「集中はある程度必要だ」と自覚していたりしますので、この言葉はそのままサマーディ状態については正しいのですけど、瞑想初心者に向けた説明としては不適切なのかなと思うわけです。

また同様に、「集中は不要」というのもサマーディに慣れてくればそれもまた正しいと言えますけど、そうでなければ努力は必要ですよね。

瞑想初心者には集中しかないです。ある程度、みたいな曖昧な集中ではなくがっつりとした集中が特に最初は必要です。

かと言って、間違った集中をしてもいけないのですけどそれは個人的な指導で師匠などから教わるかあるいは失敗を繰り返して学んでゆくことで、ここで言葉で説明してもよくわからないでしょうから今は書きませんけど、確かに、失敗に導く集中というのもあるにはあります。

ですから、瞑想指導者から「集中もある程度必要」とか言われたからといって、割とスルーしておけばいいのかな、と個人的には思います。「ある程度」とか言っている時点で判断は瞑想実践者の方に委ねられているわけですし、あまり気にすることはないと思います。

そもそも、私が観察するところによると、そのように「集中もある程度必要」とか言っている瞑想手法はがっつり集中が必要なものだったりしますので、それを言葉上で「観察」と言っているだけだったりします。特に最初は瞑想は集中でしかありませんから、言葉で「観察」とか言ったとしても特に最初は観察になっていることはなくて集中ですから、観察と言ったところでサマーディ的な観察にはなっていないわけです。顕在意識の五感での観察ということであれば触覚や視覚などで観察することは常にしているわけですけれども、瞑想的な観察は五感のことではないですから、五感の観察をしていたとしても瞑想的な観察ではないわけです。

そのように説明をしている瞑想手法を分析してみますと、まず五感の入力をトリガーとしていてそれに反応する心の動きがあって、心の動きを観察するためにある程度の集中が必要です、みたいなお話になっているかと思います。ですけど、心の動きを観察、みたいなのは初心者にとって現実的ではなくて、顕在意識というのは1つしか心に描くことができませんから、実際には、観察ではなくて心の動きに集中する、ということになるわけです。観察というものがあるわけではなくて心の動きを操作する、あるいは、心が勝手に動いた時に「その後になるべく早く気づく」ということになるわけです。それは観察ということもできるのかもしれませんけど、心の動きを追いかけたり「実況中継」したりするような瞑想の仕方は結局は集中でしかないと思うわけです。顕在意識の心の観察は誰しも持っていますから、心の声を聞くことを観察と言っているのかもしれませんけど、それは観察というより心の声に集中することで実況中継や気づきを深める、という手法のように思います。それを観察という流派がいるのであればそれはそれでコンテキスト次第で成り立つとは思いますけど、そうした瞑想手法はサマーディの観察とは全く別物であるわけです。

と、こうして書いていてまた混乱をさせてしまったかもしれないですけど、要は、五感の観察を使った瞑想手法というものがあって、一方、サマーディの観察というものもあるわけで、瞑想で観察というとサマーディ的な観察がメインなわけで、とはいいましても、流派によっては五感の観察をもってして観察瞑想(ヴィパッサナー瞑想)と言っていたりするわけです。

ですから、瞑想のお話で「観察」と聞いた時、それが五感に関するものなのか、サマーディに関するものなのかコンテキストで見分ける必要があるわけです。