ヴィパッサナー瞑想が心を引き裂く可能性

2021-03-16 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

しっかりとした指導を受ければそうではないのだろうとは思いますが、本を読んだり少し教わっただけですとヴィパッサナー瞑想が心を引き裂いて不安定にする可能性があると思います。

ですから先生から定期的な指導を受けることが必要というお話にはなるのですが、そうは言いましても、先生がいなかったり、あるいは、最近では本もよく出回っていますので瞑想でこうした不幸な結果になることもあるように思います。

瞑想の流派によっては危険はないと言っているところもありますが瞑想は色々な流派がありますし、勘違いもあったりするわけです。

とある流派のヴィパッサナー瞑想において、体の観察ですとか体の感覚の実況中継ということを行いますが、単に集中するのではなく観察という言葉で説明されてしまうと、心がどこに行って良いのかわからなくなって心が引き裂かれてしまう可能性があります。

これはどういうことかと言うと、特に「集中瞑想を否定」している流派にありがちなことで、「集中ではない。観察だ」と教えているだけならまだしも、集中が良くない、とか、集中瞑想に対して嫌悪感のある流派が意外にもそれなりにあったりするわけです。

そのようなところで「集中」を否定されてしまうと、体の観察ですとか体の感覚の実況中継をしようとしたときにその観察の対象へと心を向けることに対して無意識的にブレーキをかけてしまい、心が対象へと向かう力が働くと同時に心が対象へと向かわないようにする力とが同時に発生し、心に対する相反する力がぶつかって打ち消し合うかのようにしながらかろうじて心が対象に向かう、という不健康な心の状態になってしまいます。

こういうことを言うと「そんなことはない!」と否定する声も聞こえてきそうですけど、実際、私がとある流派のセンターに行ってヴィパッサナー瞑想を教えてもらったり、あるいは他のところで話を聞いたりした時に、何かそこのヴィパッサナー瞑想をしている人たちの心が「分断気味」だったことに違和感をずっと感じていました。

これは主観ですのでこの言葉が正しいのかどうかは微妙ですけど、心というものは対象に向かってまっすぐ向かう性質があるもので、それが普通なわけで、例えば武道がわかりやすいけれども目的に対して正しい方向に体だけでなく心も向けることで型というものが正しく体現できるわけです。

ですが、このようなヴィパッサナー瞑想ですと心が対象に向かう時に同時にブレーキもかけてしまい、心が何かに対して集中して正しい型を行うことができなくなってしまいます。そのような状態を「心が分断している」とここでは表現しているわけですけれども、それは特に、集中瞑想を否定しがちな流派にこの傾向があるように思います。

それほど集中瞑想を否定していなくても、集中瞑想は「ある程度は必要」みたいに中途半端な態度を取っているところも似たようなもので、心というものが対象に向かって真っ直ぐ進むことが正しく理解できていないから「ある程度」なんて曖昧な理解になってしまっているのですよね。

実際のところ、サマーディの状態においては心がどのような状態であるのかは関係なくて、サマーディとしての観察状態は心の本性であるいわゆるリクパが現れてきている状態で、その時、心が集中していようがいまいが関係ないわけです。

ですから、心が集中しているかどうかは全く関係なくて、集中している状態と集中していない状態、そのどちらも観察しているのが心の本性であるいわゆるリクパが働いている状態でありますから、流派としてのヴィパッサナー瞑想のやり方として「観察」とか言っているお話とサマーディ状態としてのリクパによる観察とは全く異なる状態なわけです。

心は対象に向かって対象を観察するという機能しかありませんから、対象に向かうことが集中で、対象に達すればそれは観察されるわけです。その両者が必要なのであって、対象に向かう時は素早く向かうべきだし、観察もまたしっかりと観察すべきであるのです。その観察の方だけをピックアップして集中して素早く的確に目的に向かうというところを否定したり軽視したりする必要は全くなくて、むしろどちらもかなり重要で、特に仕事のできる人であれば目的に対して素早く行動して対象をしっかりと見極めて観察し、それ故に物事もありのままを見れて適切に判断できるわけです。

なんでそんなことになったのかはよくわかりませんけどヴィパッサナー瞑想の流派によっては集中の部分を軽視しがちで、集中を嫌悪しているところもあって、そうなりますと、目的に対して素早く集中するというところが否定されてしまいますから、目的に対して心を向けようとした時に同時にブレーキを無意識的あるいは意識的にかけてしまい、心が引き裂かれてしまうわけです。

上にも書きましたように、実際の瞑想における観察状態というのはそれらの心の動きのお話ではなくて心の奥にある心の本性であるリクパによる観察のお話ですから、心というものは目的に対して真っ直ぐ向かうという性質があってそれ以上のものではなく、ここで混乱があるかもしれないですけどどちらも一応は心という言葉を使ってはいますが意思としてマインドとしての心と、それらを観察している心としてのいわゆるリクパが階層のように別々にあるということです。

行動して対象を観察するというマインドとしての心にも集中という面と観察という面もあります。ですから、一般的な心としてのマインドとしての心に対する集中と観察を否定しているわけでもないのは注意が必要です。一般的な心の観察を否定しているわけではなくて、何か五感としての入力あるいは心の動き、思考などが湧き上がったときにそれに対して心を向ける動きとしての集中およびその内容をはっきりと確かめるということの観察はそれぞれ存在しています。

それとは別に・・・、その奥に、心の本性としてのリクパがあって、それらの心の動きの全体を観察しているところがあるわけです。

実際のところ、最初はリクパは深い雲に覆われていて隠されていてなかなか出てこなくて、リクパが現れてくるための修行というものがあるわけです。

ですけど、リクパが出てきていない状態であるのにも関わらずサマーディの真似事をしてしまったりもするわけで、そのような時、集中を否定してしまうような誤解が生じるのだと思います。

本当のサマーディの状態は心の動きの全てを観察していますので集中を否定しませんし観察も否定しません。それは階層(レイヤー)が違う動きなわけです。

サマーディ以前であれば、むしろ、瞑想というよりも自分の仕事をしっかりと集中して行う方がよほど精神的な成長があるかもしれないほどです。正しい瞑想を行えるのであればそれはそれで有益ですが、間違った理解の瞑想で心を引き裂いてしまうよりは仕事を集中してしっかりと行う方がまだマシであると言えます。