雑念があってもなくても瞑想にはさほど影響はない

2021-03-04 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

以前は雑念を止めるなりマントラを唱えるなりして意識を一定の方向に集めることは瞑想において有効でした。

今は、雑念があっても瞑想にさほど影響はなくなっていますので、なんとなく雑念があってもそのままほおっておいています。

この雑念の扱い方は流派によって違いがあって、雑念を消そうとする流派や打ち消そうとする流派あるいはマントラなどに意識を合わせる流派、はたまた、体などの感覚に意識を合わせる流派や、雑念はほおっておく、という流派もあったりします。

そして、時にそれらの流派ごとに意見が対立したりするわけですけれども、その対立も、単に初心者が相手のことを理解できずに自分たちの流派が最高だと思いこんでいる場合もあれば、その一方で、対立のように傍目からは見えたからとしてもお互いに相手のやり方を理解したかっただけだった、なんてこともあります。

そのような意見が様々に異なる雑念に対する対処方法ですけど、個人的には、ステップを踏んで対処していくのがいいと思っています。

1.雑念が悪い影響を与える段階。対処としては、強制的に止める。強烈な力を込めて雑念を止めるか、何か、仕事なり工作なり何かの行動に集中する。仕事に熱心になるのも有効。
2.何か1点に集中できるようになった状態。雑念が出てきて囚われることがあったとしてもその1点に突破することで集中ができる状態。雑念の悪い影響が減ってきた段階。
3.雑念の影響が減ってきた状態。1点への集中から次第に広範囲への意識の広がり、観察に移行する時期。仕事においても1点集中から視野が広がる。雑念の悪い影響はまだあるが最初より減ってきた段階。
4.観察状態がそれなりに安定するが、雑念はあるよりない方が良い状態。雑念に左右されないというところまでは行かないが雑念の影響がかなり減ってきた段階。
5.観察状態が定着して、雑念が瞑想にほとんど影響を与えなくなる段階。雑念をありのままに受け入れられる状態。雑念とはエネルギーの現れであり、何もないところから出てきて何もないところに返ってゆくだけのものであることを理解し、雑念が出てきてもほっておけば消えてゆき、雑念に対する諸行無常の感覚および雑念には果てがなく延々と繰り返されるさまを、その雑念の外側から観察状態にてありのままに受け入れつつ雑念に巻き込まれず意識は別に存在していて雑念を見ている状態。

ですから、最初から雑念の扱いを決めてしまうのではなく、自分自身の段階に沿った対処方法をするのが大切だと思っています。

これは流派に入っているとその流派のやり方に従うことになったりもしますしできないこともあるかもしれませんけど、瞑想のやり方は固定されたものではなく人に合わせて行うのが必要だと私は思っています。これはその人の考え方次第ですから流派のやり方が良いと思えば好きにすればいいとは思います。それもまた自身の選択であるわけですし。

流派で「雑念はほおっておけば消えてゆく」なんて教えられたとしても実際に瞑想をしてみれば最初からそのようになることはなくて、逆に、雑念をほおっておくとそれに囚われて更にその雑念を強化してしまってどんどんと膨らんでゆくのが特に最初でありますから、最初から「観察」なんてことは考えずに、特に最初は「集中」から始めるのがいいと思っています。

それも、べつに座った瞑想に特に最初はこだわる必要はなくて、集中できるような仕事をすることも有効であると思うわけです。昔なら職人とか、今ならコンピュータのプログラミングとか、芸術とか、作品を作る仕事とか、いろいろありますよね。そのようなところでも瞑想の感覚は磨けるとおもうわけです。