貧困を単に解決しただけでは更に生きにくい世界になる

2023-12-24公開 (2023-10-15 記載)
トピック:スピリチュアル: 歴史

<期間限定公開中>


以前の記事からの続き

単にお金に不自由しない社会とは生きにくい世界であり、単にご飯を食べるだけでも相手にかなり気を使ってペコペコしたりおべっかを使って食堂で食べさせてもらうような、息の詰まる社会であるわけです。これは想像というよりも、私が記憶している別のタイムラインにおける日本の太平洋沿岸の共栄圏における記憶から言っているわけで、今の社会は、その、衣食住に不自由しない社会よりも、かなり希望のある世界なわけです。

確かに、多くの人が生きるためだけに仕事をしていてお金もなくて苦しい、というのはわかりますけど、お金に不自由しない共栄圏においては多くの人が尊大になってしまい、面づらは良くても相手の態度がなっていないと急にキレて怒鳴って叱りつけるという、勘違いで頭の悪いような人にかなりの財産が集中してしまう社会だったわけです。そこかしこに怒りの沸点が低い人がいて、急に怒鳴ってヒステリーになる、ということが散見された社会でした。ですから、単に衣食住に困らない社会になっても、違った形で、悩みは続くわけです。

人々は、満たされたい、という希望をそれぞれ持って暮らしていて、その、満たされたいという希望を相手からもらえないとヒステリーになるわけです。

例えば、食堂は基本的には無償あるいはお金は一応払いたければ払う、という程度のものになっていましたから、食事をする時にもお客は「どきどき」「どぎまぎ」しながら主人の顔色を伺って、「食事を頂きたいのですが・・・・」と低姿勢でお願いして、「いいよ」と言われたら食事を「静か」に食べて、食べ終わると、これまた低姿勢で「どきどき」しつつ「ありがとうございました・・・」と深々と頭を下げて、そのまま出て行く場合もあれば、人によっては「お代を払いたいのですが・・・」というと主人は「ん? あぁ、そこらに置いておいて」というくらいのものだったり、お店によっては一応はきちんと受け取っていたりもしました。どちらにせよ、お金の価値はとても低く、それ以外の面で、サービスを受けられるかどうかが決まったのです。

食堂以外にも、反物や、宿にしても、お客の方が「分相応」をわきまえてお願いすることが基本で、分相応をわきまえない客にはお店は相応に扱ったものでした。

身分不相応な服装を着ていると周囲から睨みつけられるような社会で、特に公的なルールがあるわけでもないのですが、同調圧力により、身分に相応な格好をしていることがそれぞれに求められる社会でした。

今の社会において、ベーシックインカムだとか、エネルギー革命が起きてお金に不自由しなくなるだとか、様々なことが言われていますけど、そういう社会が成り立つのは日本くらいのもので、とは言いましても日本ですら今は怪しい状況で、共栄圏は日本の価値観をベースとしていましたから成り立ったのですが、今の世の中でお金に不自由しなくなったら皆が仕事を辞めてしまってインフラが回らなくなり、結果、ケインズの均衡の理論に戻ってしまって、元の、お金のない、お金の足りない社会に逆戻りすることになります。

お金が有り余っていても人々が義務を遂行するのならば、お金にそこまで不自由しない社会に移行します。一方、人々が単に楽をしたいだけの、怠け者の社会を希望しているのならば、再度、お金が足りなくて不自由する社会に逆戻りすることになります。

あるいは、衣食住に困らなくなった結果、何かをしようとしてもお金以外のものが問われるようになって、単にお金があるだけでは希少価値のあるものを手に入れることができない、サービスを受けられないようになり、サービスを「与える側」の恣意的な判断が増え、サービスを与える側が「(与える)相手を見て」どのくらいのモノやサービスを提供するか判断するようになります。誰しもがお金を十分にも持っているのですからお金があるからと言ってどんどんとサービスやモノを与えられるわけもなく、お金という「制限」がなくなったのであれば他の基準で制限するしかなく、一つの可能性として人々の(個人的な)恣意的な判断によりサービス提供やモノ提供の限度が設けられる、というようになるかもしれないわけです。これは共栄圏の記憶から言って、十分にあり得ることであります。

実際、共栄圏の経験に基づくと、共栄圏における息の詰まるような閉鎖的な社会よりも今の社会の方が健全なのです。今の時代はお金さえ持っていれば食堂に行っても誰にも気兼ねせずに食事ができますし、カフェもそうですし、他人との関わり合いにおいても、よほど、今の社会の方が気軽で楽しく生きられる状況だと思います。

今のお金というシステムは、それを手に入れるために(ある程度は)不自由だからこそ、人がそこから学べて、「いい人」になれる希望があると言えます。お金に不自由しない社会とはエゴが自由気ままに尊大に振る舞う社会であり、一部の田舎の閉鎖社会などのように変な人が権力を持って永久にそれに振り回され続ける社会であると言えます。少なくとも「お金」という制約があればやがては没落して権力を失い、そうしてまた、お金のない状況で「学ぶ」ことができるわけです。

今の状況でお金が溢れるようになっても、一部のずる賢い人が富むだけです。「土地」だとか「サービス」の面で市場を独占する財閥のようなものができて、一般大衆の参入は限りなく難しくなり、モノやサービスの提供が一見すると平等のように見えて実は制限があって、良いサービスやモノというものが一般大衆からほぼ完全に「隠される」ようになって、一般大衆には良いものが存在しているということすら認識できないようになり、それゆえに、表面上は平等で全てが分かち合いという体を取っていつつも、実は、そもそも最初から住む世界が分けられているので、お互いにお互いの生活やモノ・サービスを認識できない、という世界になります。

それはうまくいけば一見すると理想的な社会とも言えるものになるかもしれませんが、失敗すると、田舎の図々しい地主、性格の悪い地主のような人が幅を利かせて、とても生きにくい世界になります。共栄圏では、その両者が混在していたように思うのです。そして、時代が進むにつれ、次第に、人々の中にストレスが溜まっていきました。ある面ではとても理想的で、しかし、時折、それなりの割合で変な人がいて、そういう変な人がモノや土地やサービスで幅を利かせていて、何かサービスを受ける時、例えば食堂で食事をしたとして、お礼にその主人に対して深々と頭を下げて上半身が地面と平行になって腰が90度になるくらいの状態で丁寧に(お世辞でも)美味しかったです、ありがとうございますとお礼を言って、それに対して主人が「ほほう。そうかそうか。またおいで」とニコニコ笑顔で喜ぶわけですけど、これは一見すると理想的な社会のように見えるのですが、お店の主人によってはちょっとでも来客の態度が悪いとヒステリーになったりするので、お客の方が主人に対してとても気を遣う状態になっており、とても息が詰まる社会だったわけです。今でもこの種のお話はもちろんあるわけで、サービスを受ける場合でもそれなりにお店の人との交流というのはあるのは当然ではありますけど、共栄圏ではその比重が行き過ぎていて、あまりにもお店に気を使わないといけない社会になっていて、人々が強いストレスを常に感じていたわけです。

スピリチュアルな人のうち、幾分かの割合で「お金に不自由しない社会」を目指していたりして、フリーエネルギーだとか、お金の仕組みの革命だとか、いろいろなことを言っている人がいますけど、私は共栄圏での生きにくい社会を知っていますので、むしろ、今の資本主義社会の方がよほど人々が幸せに生きているように思います。

そして、資本主義が動くためにはエネルギーなり住居なり食事なりモノにせよ何某かが「足りていない」状態になっている必要があるわけですから、資本主義が神の意思としての選択だとすると、それを存続させるために神様は様々な手を打って「足りていない」状態を存続させようとしているように思うのです。

実のところ、陰謀論として「フリーエネルギー(のようなもの)を潰す動きなどがエネルギー産業の闇」として方々で語られることがありますが、基本的な原則で言いますと、例えそのような動きがあったとしても、人間の立場での陰謀である場合には「すべて」を潰すのは普通の人間では不可能で、今まで、ことごとく、「すべて」が潰されてきた、というのは、神の意思があった、と思う方が自然なのです。確かに表面上はそのような陰謀として片付けられるような事項であったとしても、世間は広く、神の意思がなければ、世界のどこかでフリーエネルギー(のようなもの)が活用されるのが普通なのです。ですから、フリーエネルギーの「すべて」が潰されているのは、エネルギー革命が起こって人々が自由に活動できる社会になると社会が更に悪くなるため、わざわざ「不自由」な状況に留めおくことで人々を「良い人」に導くことができるようにと神が意図しているのだと思うわけです。個人的に私はそう解釈しています。

むしろ、今のフリーエネルギー推進派のエゴを見ると、そこは個人的な欲望、自由気ままに暮らしたいという自分勝手な意思が見え隠れしていて、決して、エネルギー的に自由になったとしても人が幸せにはなれない、ということがわかるわけです。現在のフリーエネルギー推進派は自分達が楽して貴族のような暮らしをしたいという願望が根底にある、ということは、この世のシステムの基礎を泥臭く動かす人たちは奴隷として強制的に働かされてその社会を支えることになるのです。このような「貴族と奴隷」の構造による中世のようなヒエラルキー社会は神が一番望んでいないことです。その方向でフリーエネルギー推進派が進んでいる以上、フリーエネルギーはことごとく「すべて」神様に潰されるでしょう。奴隷のある社会と比べたら、現在のように、足りていない状態の資本主義社会の方がよほど人々が幸せに暮らせるのです。

一方、人々が(お金が十分に行き渡っている状態で)義務を遂行するような、共栄圏に似た状態に移行する可能性もありますが、それにしても、共栄圏であったような葛藤が再現される可能性があります。

実のところ、過渡期があって、最初こそ人々はお金の不自由がなくなって自由を謳歌するかもしれませんが、「お金に不自由しない」社会になりますとサービスでもモノでも何にせよお金で「図々しく」要求している人に「お金だけ」を理由にサービスやものを与える、ということはしなくなり、「相手を見て、相手が本当に必要な場合にサービスやものを与える」という恣意的な社会に必ず移行します。それは、図々しい人が一定数いるからそうせざるを得ないわけですけど、そうなると、お金があるからと言って自由気ままに過ごすことはできなくなり、共栄圏のように、相手の顔色を伺うようになって、生き辛い社会になるわけです。

最初の数十年かそこらは自由を謳歌するかもしれませんが、そのうち、もっと煩わしい社会になるわけです。その先鋭として世界各地でのオーバーツーリズム問題が出てきて、旅行をするにせよお金があるだけでは十分なサービスを受けられなくなる、という状況は今後の社会がどのような方向に進むのかの一つの姿として見ることができます。普通の生活においてあのように人々がそこらに溢れて自由な時間を謳歌するようになった場合、それでも一定は「サービスを提供する側」というのはいるわけですけど、遊んでばかりいる図々しい人にはサービス提供を制限する、という風潮になったとしても全く不思議ではありません。そのような恣意的な判断が共栄圏では「当たり前」の常識となっていました。

そして、今でもあるように、そもそも看板を掲げずに、紹介のみ、知り合いのみで商売をする、と言うこともどんどん増えてゆくでしょう。そこまで稼がなくても生活できるようになった時、気が知れていて客層の良い人だけ受け入れるようになる、と言うのはごく自然なことです。その一方で、大衆向けのサービスは継続して、しばらくは、その「見えない壁」に気が付かないでしょう。しかし、そのうち、そのような、超えられない壁、見えない壁が認知されるようになって、階層がくっきりと分かれてきます。

そして、最初こそ貴族のような人が出現したとしても、それ相応に人格が伴っていなければそれなりの待遇しか受けられなくなります。最初こそ貴族のように何もしないでも暮らせる社会と地位についたと思っている人であっても、やがて、相応の仕事をしなければ尊敬を受けられなくなります。それは顔や雰囲気、人柄全てに出ますから、人格と不相応な地位についてしまった人はそれなりに苦労をするわけです。何事も相応が一番なわけです。ただ、最初の世代は不相応であったとしても、次の世代は生まれながらにして不自由ない暮らしをするのであればそこで魂が入れ替わりますから、世代が変わると相応しい教育を受けた人たちがそれに応じた地位の職につくようになり、このシステムは安定します。

フリーエネルギーになることで、一見すると交通革命が起こって自由にどこにでも行けるようになると思うかもしれませんし、世界旅行したいと思われる人もいるかもしれませんけど、実のところ、共栄圏では宿に泊まる時ですら相手の素性を事細かに確認されて、しっかりとした仕事について役割を持っていない人はいい宿には泊めてもらえませんでしたし、周りに他の宿がない場合は分不相応の宿であっても(泊まれなければその人が困るという理由で)一応は泊めてもらえたりもしましたけど提供される料理に明らかに差があったりしました。料理の選択は宿泊者側にはなくて、宿の側がお客を見た上で相応と思われるものを提供していましたので、それなりに良い格好をして素性がはっきりしていてお供の者を何人も連れて行って初めてまともなサービスを受けられたわけです。お金やエネルギーが有り余る社会において自由に移動して旅行というのは実はしにくくなるのであって、それよりは、お金さえあればサービスが受けられる今の社会の方がよほど自由であると言えます。

この、より良い世界である現代を手放して、より不自由で息苦しい社会に移行しようというフリーエネルギー推進派やお金のシステムの革命を目指している人たちが成功することはおそらく当分の間はなくて、そうしてできる社会というのが欲望と図々しさに塗れた社会ということであれば、共栄圏での息苦しさを(魂のレベルで)記憶している人々にとってトラウマ級の悩みと嫌悪の対象ですらあって、気軽に生きられるお金に支えられた社会の方が良いと思うのは当然であると言えます。もしかしたら、そのような記憶を持っている人がフリーエネルギーに対して敏感に危険を感じて本能的に闇に葬る、ということをしているかもしれないのです。

ですから、本質的に分かち合い社会を知っている人は二の足を踏む一方で、フリーエネルギーや分かち合い社会を標榜することで自分が利益を得たい人、自分が権力者になって国を牛耳りたい人にとっては良いスローガンになって、そのような人によって今後推進される可能性があります。その場合、最初は、フリーエネルギーやら自由やらを標榜する活動は、詐欺的な結果に終わるでしょう。今現在、平等を声高に謳っている人は、(本質的に分かち合い社会を知っている人によってではなく)、実のところ共産主義のような「中央にいる人に権力が集中する社会」そして一般大衆は平等と言う名の「奴隷」である社会を目指していることを隠しながら平等を謳う、という詐欺的な宣伝によって自分の利益を得ようとしている場合が多いからで、そういう狡い人によって運動が乗っ取られ、詐欺的な結果に終わる可能性があります。たとえ最初は健全な人によって活動が行われていたとしても、多くの健全な人が関わったとしても、(最初からあるいは途中から)ずる賢い人が良い顔して入ってきて、いつの間にか団体や活動を乗っ取られて詐欺的な結果に終わる可能性がそれなりにあるでしょう。結果、フリーエネルギーになったとしても人々の暮らしは苦しいまま、何も変わらず、支配者だけが変わったというフランス革命のような状態に終わるでしょう。エネルギーが変わったとしてもシステムが変わらなければ支配構造はそのままだからです。今から、そのような不幸な社会になる可能性が30%ほどはあります。ですが、そうなったとしても、それが第一段階です。それによりエネルギー革命が起こって、システム上は不自由な状態に押さえつけられているものの、人々が気付きさえすればエネルギー的には自由になれるような状態になります。その時、権力者は「人々が気づかないように」色々と宣伝をして分かち合い社会になるのを防ごうとします。と言いますのも、貴族のような生活を続けたい権力者がそこにいるからです。これは中間的な状態として、1世代は続くように思います。そして、次の世代になるともはやその貴族のような人の子供たちは生まれながらの貴族(のようなもの)ですから、そこから平等社会へと移行する筋道ができるわけです。その頃までには「所有」が固定化されるようになり、特に不動産は代々引き継がれることが多くなり、人々は「安定した土地」に基づいた、しっかりとした基盤の上に生きるようになります。そうして自らの生活の基盤が確保されて保証されると、特に世代が変わった時に顕著なのですが、それまでは大衆に宣伝をして洗脳して押さえつけていたものが、いつの間にか変わって、「そんなに働かなくてもいいじゃない」「分かち合えば良いじゃない」と言うコンセンサスが(特に次の世代の人たちに)生まれるようになります。こうして、すぐに分かち合い社会が実現しなくても、世代を経ることで、分かち合い社会の基礎ができるわけです。ですが、そうなるとしてもまだ先の話で、当面は資本主義社会が続きます。何故なら、その方が人々が幸せである筈だからです。

ただ、おそらくは、基本(70%確率)は、そのような詐欺的社会にはならず、単純に、分かち合い社会へとソフトランディングするのではないかと思うのです。上記のような詐欺的社会は遠回りで社会的な損失でもありますので、そのような詐欺者に社会を乗っ取られないよう、人々が気をつけて監視をする必要はあるかと思います。

こういうことを言うと「そうやって良くない現実を引き寄せるな」とか「ネガティブな人だ」みたいな評価を下されて、過去の幾つものスピリチュアルな運動のように悪いイメージを植え付けて、このような危険性から目を逸らさせようと画策(あるいは無意識に)する人が一定数います。まず、このような、運動を乗っ取ろうとする人たちはごく一部ですので、一部の人の思想では「集合意識による現実化」は起きません。ですから、現実化してしまうという心配は無用なのです。しかしながら、そのような一部の人によって運動が乗っ取られることにより、大衆が望まない現実の世界になってしまう危険性があります。ですから、このような良くない世界が来ないように人々が注意して、ずるい人を見抜いて排除しなくてはならないのです。そのために監視する必要はあるとしても、それ以上、特別に心配する必要はないわけです。もちろん、前提条件として、見抜く目はなくてはならないですが。

神様の意図としてはこの資本主義社会が終わりではなくて、実のところ、衣食住に不自由しない社会が良いと思っています。共栄圏においては衣食住が不自由しなくなったら人々が傲慢になって息苦しさを感じる社会になってしまったので、そのような状況を避けつつ、「衣食住が不自由しない上に人々が楽しく暮らせる社会」こそが神様の望む社会なわけです。

その社会は資本主義社会からも移行することができて、衣食住に困らない社会に少しづつ移行しつつも、人々が自分の義務を果たすような状況になれば、人々が楽しく暮らせるようになるわけです。

そのためには、まず人々が裕福になり、お金に不自由しなくなくなり、お金が十分にあるけれども義務は果たす、という段階を経る必要があります。ここで、お金が十分にあるので仕事を辞めてしまうのであればケインズの均衡の理論によって物価が上昇し、お金が足りない状態で均衡します。一方、お金が十分にあっても人々が義務としての仕事を続けるのならば、お金が有り余っていつつも贅沢せず、傲慢にもならず、図々しく色々なものを要求しない、という状況になり、神様の望むような理想的な社会が実現するわけです。

ある程度まで、大きな潮流としては、割と、なし崩し的に最後は「お金の価値が低い世界」に、どっと(最後は)流れ込むようにして変革が起こるでしょう。そして、それまで、大きな潮流ができる前までに新しい世界の基礎となる価値観を築いておく必要があるわけで、価値観の基礎があればうまくソフトランディングしますが、資本主義社会どっぷりの人ほどショックが大きくなるでしょう。欧米ではもしかしたら、単に経済破綻という形を取って混乱した社会になり、「分かち合い社会」は、うまく機能しないかもしれません。

次第に人々が裕福になり、お金が有り余るようになり、欧米の人が「安い日本」目掛けて押し寄せることでオーバーツーリズム状態になりつつありますが、何ヶ月も「安い日本」に滞在する人が増える一方では、「分かち合い社会」は機能しないでしょう。分かち合い社会においては、その土地に長く留まるのであれば、その土地の仕事を何がしか手伝う、ということが基本になるからです。そうでなければ、やがて、厄介者扱いされて宿を追い出されます。時代の変革の最初こそ自由を謳歌するかも知れませんが、誰しもがお金を十分に持っている世界になったなら、ある程度の「お客の選定」が起こります。お金が十分にある世界においては、宿が足りないからと言って誰かが商売を始める、ということも少なくなります。今でこそ外国人が商売のために日本に多くホテルを開業したりしていますけど、お金を稼いでもメリットがさほどない状態になれば、ホテルを作ることで貢献する、あるいは、代々続いてきた家業だからこそ続ける、というところが生き残るようになります。共栄圏では、新しい商売を始める、ということが減っていって代々の土地や家業を守ることが基本になっていました。安定した社会になると「起業」が減って、仕事や社会は代々受け継がれるものになります。これは良い面もあれば、新しいもの好きの人にとっては退屈な世界でもあります。ですから、共栄圏のシステムが必ずしも良いわけではなく、資本主義の方が新規事業が次々と起こって、人々が楽しめる、という面もあるのです。そうは言っても、そこはバランスです。基本が資本主義にあって、日本の価値観をもとに「分かち合い」が起こる、その融合のダイナミズムがこれからの時代の見どころであると思います。

共栄圏においてはあまりにも職業が固定化されてしまい、生活に困らなくなる一方で、変化に乏しい、とても息の詰まる社会になっていました。

一方、今の社会は資本主義で、それが生きすぎた欧米は自己の利益の追求を第一として、それでも、うまくいった人は尊厳と利益を得ることができますので、誰でも幸せになれる可能性があるのです。そのように、チャンスに恵まれているのが資本主義の良いところだと思います。

神様はそのどちらも極端であると考えており、資本主義と共栄圏のミックスの融合が生まれると良い、と考えているようです。

世界を見て、それが可能なのは、国としては日本くらいだろうと思います。そこに、希望があるわけです。先住民など一部の人たちは日本のように分かち合いと義務を果たすという考えを持っていたとしても、国としてそれが可能なのは日本くらいだろうと思うわけです。日本においても必ずしも一枚岩ではないですが、このようなことが理解できる素地はあるわけです。

他国のように、お金があれば良いという考えが主流であってはケインズの均衡によって永久に「お金が足りない」状況になります。永遠とも思える長い時間を「お金」という不自由による学びを続けることになるわけですが、実際、一部の人たちにとってはその学びが必要で、それゆえに「いい人」になることができるわけです。

それはそれで、その人たちにとっては必要な学びなのでしょうけど、それなりの数の人々が、その学びから卒業する時期に来ていると思います。

かつては、日本人であってさえも共栄圏において不自由で行き辛い状況を経験しておりましたので、一旦は日本人であってもお金による「いい人」の学びを経験した方が良かった、ということなのだろうと思います。例えば、日本であっても「傲慢な公務員、役人」の問題は過去にありましたけど民間化することによりサービスが向上した例は数多くあるのは皆さんご存知の通りかと思います。例えばJRも昔は国鉄の職員が横暴でしたけど今はサービスが良くなりましたし、高速道路のサービスエリアも昔は酷いものでした。役所も昔は酷かったですが、公務員のままでもサービスが以前より向上しているように思います。そのように、ここ100年前後で一通り、その学びはある程度は通り過ぎたのかなと思います。これ以上続けてしまうと海外のようなお金本位のおかしな考え方が日本に入ってきてしまいますので、この辺りが潮時かと思います。

日本が、共栄圏の経験に基づいて先駆者として新しい社会システムを構築できる余地があるわけですから、できればここで日本が新システムに移行して、そして次は日本以外の各国においても日本の学びを踏まえて追いついてくるのが理想なわけです。



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とあるパラレルワールドにおいて、一つの理想形としての「分かち合い」社会がどのようなもので、どのように破滅したのかの流れを大まかに追っていきたいと思います。その世界では日本を中心として太平洋沿岸の地域を包括した共栄圏が存在しており、分かち合いが実現されていて、人々は幸せに暮らしていました。共栄圏がどのような経緯で生まれ、そして、やがては凍結状態になるに至ったのか、その経緯を見ていきたいと思います。