お金に不自由しない社会とNPOは構造的に似ていて同じ問題を内包している

2023-10-09 記載
トピック:スピリチュアル: 回想録

長々とNPOの構造的問題を話してきたのは実のところ伏線でもあって、NPOは多くの人には関係のないお話のように見えて実は将来的に関係があるかもしれなくて、NPOに関わっている人々が生活費を他で賄いつつ無償でボランティアをしている状況は、実は、昨今騒がれているベーシックインカムや、エネルギー革命が起こってお金に不自由しなくなる社会が実現した時の姿を垣間見ていると言えます。そのように思えます。

生活に必要なお金を何某か他のところで賄いつつ無性の活動をする、という点において構造が似ているように思うのです。

ですから、「お金に不自由しない社会」を皆が盲目的に求めた結果、実は、とても息苦しい、生きにくい世界になるかもしれなくて、そのことにもっと自覚的であるべきであるように思うのです。

お金に不自由しない社会というのはは一見すると良いことのように見えるかもしれませんが私が思うにそうでもなく、そのように、(何がしかによって)お金に不自由しなくなる社会というのは「行動」が正当化されやすく、「行ったもの勝ち」になり、行動に制約がなくなり、「資金が切れたから事業を畳む」という機会が極端に減って事業継続がゾンビのように無気力に続きやすくなる結果、「お金によって学ぶ」という機会が失われ、(例えば公務員によるお殿様商売のように)サービスレベルが低下し、「意識」が下がり、(昔の高速道路のサービスエリアのように)改善がほとんど見られない組織が延々と存続し、勘違いが増長しやすくなり、「自己正当化が極大化する社会」であり、それは、そこまで理想的とは言えないように思うのです。今まではお金という明らかなところでストレスになっていつつもそれが制約になって「廃業(事業継続が不可能になる)」が適切に行われていたがために全体として良い社会の方向に向かう可能性があったところが、今度は、NPOのように損益分岐点が遥かに低くなることによって、より解決が困難なストレスを永続的に抱えてしまう社会へと変わってしまうことになります。

これには一応は根拠らしきものがあって、私が夢や幽体離脱で見た共栄圏において、人々が生活に不自由しない状況であるのにも関わらず同様のストレスを強く感じて生活していたのを覚えているからです。人々が勘違いをして、自己正当化してエゴが拡大しても歯止めが存在せず、他人が少しでも不快な行動や発言をすればすぐにキレて怒鳴りつける、という、怒りの沸点の低い人たちが大量増殖したのが共栄圏における「衣食住に困らない世界」の現状でありました。それは理想に程遠い、息の詰まる社会だったのです。

殿様のような偉い身分の人が(共栄圏は武士の社会ですから、文字通り)殿様商売をしていらぬお世話をしてあれこれしてあげた場合、その国に住んでいる人は嫌な顔をできずにニコニコ作り笑顔で「ありがとうございます」と、(心の中では迷惑と思いつつも)引きつった笑顔でサービスを受ける、という日々だったわけです。食堂などに行っても人々は気が休まらず、静かに食事をして、終わったら感謝の気持ちを主の人に伝えることが常で、その世界にもお金は一応ありますがそこまで必要ではなくて、一応、お金はそこら辺に置いておけばよい、というくらいのものでしたから、お金よりも、主人の機嫌を損ねないことが大切だったわけです。

そのように、NPOの閉鎖的社会・特殊な人間関係というのは世間がお金に不自由しない社会になるとどうなるのかを私たちに見せてくれているということでもあります。実のところ、この一般の世の中でお金に不自由な方が人々が「良い人」になる素地があるわけで、このまま、お金に不自由な状態が続いた方が人々の学びのためになると思います。それは程度問題で、食事などは今でも最低限は食べられますから既に日本では基本的生活に不自由がないと言えます。それでいて、お金という制約がありますから学ぶことができるわけです。

実のところ、お金に困らない社会になるとお金を持っているだけでは尊敬を受けなくなって、家柄や、仕事の種類、役割のポジション、お供についている人の数、などでその人の価値というものが図られることになりますから、いくらお金を出してもいい宿のいい部屋に泊まることはできなくなり、宿の主人に家柄や人格を認められて初めていい部屋やいい食事を提供される、という恣意的な状況になるように思います。それは共栄圏での経験から言えることです。

多くの人々が「お金に不自由しない社会を目指す」と言っていますが、私が共栄圏の姿でそのような社会を見てきた結果わかったのは、単にお金に不自由しなくなるだけでは生き辛い社会になるだけのことで、それよりも、人々が「お金」という共通した価値観の元で平等にサービスを享受できて、いまお金がなくてもお金を稼ぎさえすれば生活が上昇できる余地がある今の社会の方が共栄圏よりも将来性があるように思えます。

とは言いましてもこれは程度問題、そして、人々の意識の問題であり、いつしかも書きましたけど、お金が十分に人々に行き届くようになった時に人々が仕事を辞めてしまうとケインズの価格均衡の法則に従ってインフレになり、常に「足りない」という状況になり、今の社会が継続します。

一方、人々がお金に不自由しなくなっても仕事を辞めずに続けるのであれば理想的な社会が実現します。それは、共栄圏のような極端な状況でもなく、今のようにお金優位の社会でもなく、お金は一応あるけれども基本的なところは分かち合い、という、良いとこどりの社会になります。

今は、どちらの社会に行くのかの分岐の時期かと思います。

これは主に日本での状況であって、アメリカですと全く希望がなくて路上生活という場合もありますから、どの程度まで衣食住を社会がサポートするべきかは程度問題ではあります。日本ですと生活保護もありますし基本的な衣食住は一応はできますので、その上で、お金というものが重なっているという2重構造になっており、割と今の日本の社会は神様の望む方向に向かっていると言えると思います。