サマーディ(三昧)の水晶の例えの解釈

2024-01-11公開 (2023-09-02 記載)
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

確かに、水晶と言えばそうですが、古来から言われている水晶とサマーディの説明は誤解が多いように思うのです。

古来からの言い伝えでは、サマーディ(三昧)の状態では水晶が対象を写すようなものだ、と言われていて、確かにそうではありますが、実のところその状態では意識というものは「空間」そのものでありますので、空間が丸ごと水晶のように対象を純粋に写し出す、というお話な訳で、古来からの言い伝えをそのまま受け取ってしまうと水晶という小さな石ころのようなものがサマーディの心かのような誤解をしてしまいかねないですが、実のところ、サマーディの状態においては心というものが変容していて、といいますか、普通の思考する心というものは基本的には止まっていますが動かすこともできて、その背後のアートマンの意識こそが本当の「私」という意識であって、そのアートマン(真我)の意識というものは、いわば「全体」「空間」そのものでありますから、その、「全体」「空間」の質のことを水晶に例えているわけで、「全体」「空間」が対象を純粋に(水晶のように)映し出す、というお話なのです。

ですから、繰り返しになりますが、手のひらに収まるような「水晶の石」のお話ではなくて、空間そのもの、意識そのものの性質として水晶のように対象を純粋に映し出す、というお話なわけです。

そして、その状態においては、ヨーガにおいては「行為、対象、そして行動」(サブジェクト、オブジェクト、行為)(KnowerあるいはSubject, KnownあるいはObject, KnowingあるいはDoing)の3つが一つになる、と言われていて、それはもちろん当然のお話で、意識というのは「全体」であるアートマン(真我)そのものですから、「全体」「空間」の中に自分の「行為」も「対象」も「動作」も全て含まれているのは、当然なのです。ですから、それら3つが一つになる、というのは、アートマン(真我)としての意識からすれば全て同一のレイヤー(層)として認識されます、と言いますのは、アートマン(真我)としての意識というのは根底にありますから、我々の通常の思考する意識というものはそれよりも若干下層にあって、下層にあるからこそ、アートマンからしたらそれら3つが同一の階層(レイヤー)に属するものとして認知され、そのことを比喩的に「一つになる」と言っているわけです。

日本語ですとこれら3つが多様に翻訳されていたりして、解説本によると、往々にして「主体、客体、そして行為・行動」が一つになる、だとか、「知るもの、知られるもの、そして知る行為」が一つになる、みたいな解説を見ますけど、それは確かにそうとも言えますけど、実態は少し違うように私の感覚としては思うのです。

説明として、主体あるいは知るものがアートマン(真我)、客体あるいは知られるものが物体、行動あるいは知る行為、これらが一つになる、みたいな解釈もあって、これはこれで、そう解釈することもできますけど、実態としては同じなわけです。この解釈の場合、アートマン(真我)としての意識は普遍的で満ちていて空間そのものですから、それが客体(知られるもの)や行為(知る行為)を包含している、というのは、それは当然であるわけです。

しかしながら、実のところアートマン(真我)というものは主体でもなく客体でもありませんので、アートマン(真我)の下の階層にこれら3つがある、と解釈する方がすっきりすると思うのです。

物事は単純で、要はワンネスでありますからこれら3つなど本当はなくて全てブラフマン(アートマン、真我)である、という単純なお話なわけです。

そして、そのブラフマン(真我)の性質が水晶のように対象を純粋に映し出す性質も持っているわけで、ブラフマンですからもちろん空間にあまねく「満ちている」わけで、その、満ちているブラフマンの性質のことを言っているわけです。

そして、そのことに自覚的になることがサマーディ(三昧)なわけです。自らの意識が静かになって静寂になり普通の顕在意識の錯覚の状態から抜け出すと本来の意識であるところのアートマン(真我)の意識があらわになってきて、その状態のことをサマーディ(三昧)と言っているわけです。