アジナ(サードアイ・チャクラ)が少し開くだけでも絶大な静寂に至る

2024-01-04公開 (2023-09-02 記載)
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

まだ完全にアジナは開いていなくて、まだ周辺部であるルドラ・グランティ(シバの結び目)がそれなりに解けてきただけでも瞑想はもちろん日常生活において絶大な静寂のまま生活することができます。

これは、以前であれば瞑想を何時間もして最後にほんの少し到達することもあればしないときもあって、どちらにせよ瞑想を終えたら割と短い時間で消えてしまう境地でした。

今も、完全ではないものの、と言いますか完全さというのはきりがないものだとは思いますが、それでも、ある程度の静寂のまま日常生活を送ることができるわけです。

認知が確かなものとなり、周囲の景色や感覚をつぶさに感じることができて、今、「生きている」という感覚を得ます。

もしかしたら、人は、この感覚を一瞬であろうとも獲ようと思って人生を一生懸命生きているのかもしれません。この、「生きている」という感覚は、基本的には失われることなくずっと続いている感覚です。

以前は、このような感覚があったとしても割と一瞬のことで、特に瞑想中はぼちぼち感じられたとしても、瞑想を終えてから「生きている」感覚をずっと保ち続けられることはほとんどありませんでした。

今、ようやく「生きている実感」を得たと言えます。

これはものすごく誤解があることかもしれなくて、この感覚というのは五感のお話ではないのです。五感の奥底で、第六感、あるいはサマーディ(三昧)と言って良い感覚がずっと途切れなく続き、その感覚が私そのものであり、よって、そのサマーディの私が「生きている」ことを実感しているのです。

ですから、この感覚は、「経験」のように一時的なものではないのです。かといって、頭で考えるような「理解」とも違っていて、「そうだから、そうである」というだけのことであり、いわば「ありのまま」でその状態そのものであり、特に付け加えなくても常時「生きている」ことを体感し続けるわけです。

体感、と言っていても、それは比喩のお話で、「行動」ではなく、常に、何もしていなくても「感じている」という状態でもあり、感じているというと受動的かのように思われるかもしれませんけどそれは能動的な側面も持っている「意識」そのものであり、「私」という意識、いわばアートマンの意識そのものが「生きている」ことの実感と直結しているのです。

アートマン(真我)の自覚こそが、そのまま「生きている実感」そのものである、とも言えます。ですからそこに「行動」は必要ではなくて、「理解」すらも必要ではなくて、「そうだから、そうである」というお話なわけです。