不二の意識の入り口に達した(不二一元、アドヴァイタ・ヴェーダンタ的)

2023-08-26 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

昨日、ルドラ・グランティ(シヴァの結び目)が解け始めたと思われる状態になって以降、通常の意識と、奥深くにある静寂の意識とが融合し始めたことを感じます。そして、静寂の意識の方はというとそれ自体で文字通り意識を持っており、それ故に、個としての意識(アートマン)と、静寂の意識、それはブラフマンということでもありますが、それらが今までは別々だったものが、わずかではありますが、意識として融合を始めたように思うのです。

今までも、わずかながら全体意識のようなものを感じるようなことはあっても、基本的には個としての意識(アートマン)が主だったように思います。

この辺り、流派によって様々に解釈があって、そもそもアートマンとブラフマンは同一なのだから、という理由によりアートマンという言葉のみを使う流派もあるのですけど、それは、確かに最終地点としてはそうなのですし、理屈および聖典の記述としても確かにそうなのですけど、かと言って、いきなり個の意識が全体としてのブラフマンになるわけもないのですから、その人が個を主体としているのであればアートマンだし、全体を主としているのであればブラフマン、と使い分けるべきだと思うのです。もちろんブラフマン的な立場から言えばアートマンもブラフマンの一部であってアートマンとブラフマンは同一ということにもなりますが、アートマンとしての個の意識の段階にある人にとってはまだまだ個の意識でしかないわけです。

ですから、過渡的な段階においては2つの意識があると言ってもよくて、それはブラフマン的な観点から言うと確かに幻想であって、いくつかの流派が言うように、意識は1つなのだから2つの意識というのはない、というのは確かに最終的にブラフマン的にはそうなのですけど、個としてのアートマンからしたら、個としての意識(それはブラフマン的な観点からすると幻影ではあるのですが)と全体としてのブラフマンの意識とはそれぞれ別のものとして感じられますから、2つの意識というのは感覚的には間違いではないわけです。

それは、個の意識が止まった時に全体の意識を感じられる、ということが基本ではあるのですけど、やがて、個の意識は全体としての意識に従属するように思うのです。

そして、昨日、ルドラ・グランティが解け始めたことにより、全体の意識が次第に強く面に出てきていることを感じ、今後、全体としての意識が主になっていく前兆のようなものを感じます。

今までは、瞑想をして思考を止めることで静寂だとか安らぎだとか平穏だとかを感じてきたわけですが、実のところ、通常の思考の顕在意識の後ろには広大な全体意識、アートマンを超えたブラフマンの意識が遥かに広がっており、そうは言いましてもまだ自分の周囲に限られた、ほんのわずかな部分でしかありませんけど、それでも、ブラフマンとしての広がりは感じられるわけです。

この辺り、どこまでをアートマンと呼んでどこからブラフマンと呼ぶのかは微妙なところで、ブラフマンとは限りがなくて全体であるのだから空間に制限のある感覚はブラフマンとは呼ばない、というのは理屈としてあります。ですから、私がアートマンとブラフマン、と分けているのは便宜上でしかなくて、ブラフマンと言いつつも本来の定義(限りがないもの)とは違っていて、あくまでもブラフマンの質が感じられるという程度のもので、その認知には限りがあるわけですけど、それでも、今までの個としての感覚(アートマン)から、全体としてのブラフマン、への切り替え地点を超えたように思うのです。

これと同じことを、流派によっては個の意識からアートマン(真我)の意識という段階に位置付けるかもしれません。もしかしたら理屈から言ったらこの方がわかりやすいかもしれなくて、顕在意識の普通の意識から全体に近い感覚、アートマンの意識が現れてきた、という説明の方がわかりが良いかもしれませんけど、言い方が違うだけで同じことです。

どちらにせよ、昨日のルドラ・グランティが解け始めて以降、「全体」としての意識を強く感じ、「全体」によって自分が生かされている、「全体」によって自分の個としての意識が動かされている、自分の小さな顕在意識は「全体」としての意識に今までも、これからもずっと従属していて、本体の意識は「全体」の方であったことに、この段階でようやくきちんと自分の感覚として自覚をするわけです。今までも理屈としてはそのように教えられてきましたしそうだと理解はしていたものの、この段階に来るまでは本当のところで実感がなかったように思うのです。

この段階に来ると、静寂が単なる感覚的なものではなく、静寂そのものが意識でもあり、意識とはこの空間に満ちている、ということを実感します。全体意識としての目覚めですね。

とは言いましても、まだ入り口に過ぎなくて、その全体意識の働きは私にはまだまだ微小なものでしかないのですが、実のところ、自覚が足りていないだけで今までもずっとその全体意識に生かされてきていてこれからもその全体意識が主として自分の顕在意識が従として活動してゆくのだなということを感じます。

これは、ヨーガ・スートラ的に言えば無限の静寂の意識こそが「プルシャ」であり「見るもの」に相当し、それ以外のもの、物質(プラクリティ)や精神(チッタ)なども全て「見られるもの」に相当しますから、プルシャが純粋観察している、ということに対応します。とは言いましても、感覚としてはこれは単なる純粋観察者ではなく「能動」としての自らの意思の働きかけを持っていて、確かに純粋観察者としての側面がかなり強いためにヨーガ・スートラ的なプルシャの純粋観察者ということはそこまで間違ってはいないですが、それよりも、ヴェーダンタ的に「意識」と捉えた方が観察だけではなく能動の側面も反映していて、私の実感に近いように思います。

言葉だけで言ったら似たような表現や段階は何度もあったわけですけど、ここにきて、本格的に入り口に来たような感覚が致します。