この状態がようやくサマーディと呼ぶに相応しい

2023-08-26 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

先日からルドラ・グランティが解け始めてようやく不二の入り口に達し、この先こそがサマーディ(三昧)と呼ぶに相応しい気がしてまいりました。

今までも、サマーディかなぁとか思う状態になったりもしてきたわけですが、ここにきて、どうやら今までのサマーディは努力が必要なサマーディであり、努力が必要のないサマーディ、とは言いましてもまだそれは弱いものの、一応は、努力が不要なサマーディ、と言って良い状態が少しづつ強まりつつあります。

サマーディには努力が必要なものと努力が不要なものがあり、前者は過渡期であり、後者が本当のサマーディと言われます。その本当のサマーディはルドラ・グランティが解ける段階にそのまま対応しているのだとしたら、とても筋が通ります。ルドラ・グランティが解けるまでは努力が必要なサマーディであり、ルドラ・グランティが解け始めた頃は中間的な状態で、そして解けた後は努力が不要なサマーディが普通になるということだとすれば、ヨーガの階梯はとてもよくまとまっていると言えると思います。

ルドラ・グランティが解ける前はサマーディは「行為」ですが、解けた後は「無行為」かつ「普通の状態」になると言っても良いと思います。それは、前者の場合は思考を努力で押さえ込んで静寂をすることによってのみサマーディの状態を保つのに対し、後者は努力が不要だからです。

とは言いましても、これは一瞬で完全に切り替わるようなものでもなく、次第に程度が変わってきて、次第に努力が不要になってきて、ほんの少しの努力でサマーディができるようになって、そして、ルドラ・グランティが解ける段階においてどちらが優勢かが切り替わって、解ける前は努力が必要な部分が優勢だったものが、解けた後は努力が不要な部分が優勢になるのだと思います。

私の場合、今はまだ山場を越えたばかりですから、努力が不要とは言っても、まだ、ほんの少しだけ努力した方がサマーディが深まるように思うのです。そうは言いましても、基本は努力が不要にはなっておりますのでそれほど問題はないのですが、ほんの少しだけ集中した方が静寂と観察のサマーディ状態が深まるように思うのです。

この段階になると、手足の動きがより一層、はっきりと感じられるようになり、視界も細かくよく見えるようになります。いわばヴィパッサナーと言っても良いですけど、カニカ・サマーディと言っても良いのかもしれません。以前はヴィパッサナーにせよカニカ・サマーディにせよ多少の努力と意思によって支えられていたわけですが、今は、自動的にそのような微細な観察状態になります。

思うに、サマーディ状態になる前は、この世界をしっかりと生きていなかったように思うのです。

おそらく世の中には生まれながらにこの状態で生きている人がいて、そうでない人もいて、お互い、自分の認知が他人と同じだと思って生きていつつも、実はかなり違うというのが現実なのかもしれません。人によっては自覚なくサマーディ状態で生きている人がいて、一方、そうでない人がいて、修行なんてしなくてもサマーディで生きている人も大勢いるのだと思います。むしろ、修行をしている人の方が自尊心がついてしまって厄介だったりしますので、それよりも普通の生活においてサマーディを達成する方が良いようにも思うのです。

サマーディに達してみれば、なんてことはない、この世界を普通に生きる、というだけのことでした。何の特別感もない、割と普通のことです。その、普通のことができていない人が意外に多いのかな、という気も致します。

・・・そして翌朝。目覚め前にうとうとしていると、ふと、頭の中でパチっと鳴って、頭の上半分が更に緩みました。鳴ること自体はここ半年は毎日のようにありますが、ここで更に緩みが進みました。更にもう一度鳴って、それでもまた緩んで、そして起きてから瞑想をしたところ、先日よりも緩みが進んでいました。緩んだり硬くなったりを行き来しながら繰り返しているわけですが、ここ数日はかなり良い感じで緩んできています。

とは言いましてもまだ完全には緩み切ったわけではありませんが、随分と認知をサマーディ状態にするのが昨夜よりも少しだけ楽になりましたので、多少ながら安定が進んだように思うのです。昨日の時点でも自然なサマーディが起きていて努力せずともサマーディだったわけですが、今朝の方が更に努力が不要で安定が少し進んだように思います。

瞑想をするとまだ頭の中心でピキピキ、バキッと言ったりするので、まだ完全な状態ではないようです。更に瞑想を進めてみます。