デフレと不動産価格上昇は分かち合い社会への資金石

2023-08-19 記載
トピック:スピリチュアル: 歴史

▪️分かち合い社会になるパターン

お金が有り余ったとき、お金以外の価値が上昇します。経済学ではそのような時は物価が上昇して賃金と均衡することになっていますが、分かち合い社会に入るためには経済学の理屈から逸脱して、お金がまず有り余る状況になってから価格が均一あるいはデフレが継続して、お金の重要性が下がることによりお金以外の価値が上昇し、このとき、お金が有り余っているからと言って人々が仕事を辞めずに他の人のために仕事を継続するならば分かち合い社会が実現します。

分かち合いの社会になると言うことはお金のために働く人が皆無になるということであり、その時、お金の価値が下がって「(人そのものの)信用」の価値が上昇します。この時、当然、インフラなど生活に必要な職業で働く人は必ず必要で、人々がお金が有り余っていたとしても仕事を続けてくれるなら分かち合いの社会が実現するわけです。昨今の価値観でいくとお金というものが全てでお金さえあれば遊んでも良いし何をしても良い・・・ ということに一応はなっていますが、分かち合い社会に入ることができるかどうかは、お金以外のものに価値を見出して人々が仕事を続けるかどうかにかかっているわけです。

人々が仕事を続ける理由としては

・名誉
・それなりのサービスを受けるために自身の職業・地位が必要になる(お金以外の価値が上昇する)

現状のようにお金でそれなりのサービスを受けられる社会が継続しつつも、次第に、お金によって得られるものが均一化していき、お金以外によって得られるものが増える社会になるわけです。お金の価値が下がることにより、お金を持っていても無礼な(粋ではない)人はサービスを断られるような状況も増えますので礼儀を身につけるために人格を磨く重要性が増します。


▪️既存の経済社会が継続するパターン

一方、お金があるからと言って仕事を辞めてしまって遊んでしまうのであれば経済学の理屈に従って賃金と価格のバランスが整い、物価が上昇して賃金もそれに見合うだけの「ギリギリ賃金が足りている」というところで賃金と価格が均衡し、人々は今までのように日々の生活のためにお金を稼ぐ、という生活を続けざるを得なくなります。この場合、現状の世界が継続します。


実際には、どちらか極端ではなく、中間の状態が数世代は続くでしょう。お金が有り余る状況が数世代続いた時、皆が十分にお金を持っているけれども他人のために仕事を続けるならば社会は回ります。お金の重要性が下がるわけです。

分かち合い社会になれば、衣食住のうち衣食に関してはただ同然の安い価格で手に入るようになり、住については賃貸は一般的な住居であればとても安くなります。これは昨今、日本で既に生活必需品に関してはデフレになっていてかなりのものは安く手に入る状況に似ています。一方、不動産は極端な上昇を見せています。

お金が有り余る時、不動産を所有する価格は無限に向かって発散(極端な上昇)をします。不動産を所持する負担が増えることにより個人所有が減って不動産は国あるいは税金がかからない団体の所有物となる場合が増える可能性もありますが、誰が持つかは些細なことで、肝心なところは、不動産価格が極端に上昇するということです。税金のかからない団体が継続して持ち続けるか、あるいは、売却益(キャピタルゲイン)目当ての投資が続いて半永久的に上昇を続ける可能性もあります。いずれにしても普通の人が不動産を買えない状況になります。こうなりますと、不動産はお金持ちの間だけの取引材料となり、不動産価格と家賃との間に乖離が生じ、家賃収入の利回りはとても低くなります。ただ、この辺り、田舎はさほど変化がないかもしれません。おそらく、この状況は一時的なもので、数世代を過ぎれば不動産の所有者はほぼ固定化されるように思います。

普通の人にしてみれば住宅を所有するか借りるかは割と些細なことで、所有することに拘っている人もいますけど、選択肢としては借りることが多くなり、そのお金も安いものになるわけです。


このように、生活が保障されて衣食住にお金がほとんど掛からなくなると、人々は、お金が十分にあるので仕事を辞めようと思えば辞められる、という状況になります。でも、それでも仕事を辞めずにいると「分かち合い」の社会が実現するわけです。お金が十分にあって、そして、自分が得意とすることで他の人に貢献する社会になるわけです。この時、人々が仕事を辞めて遊びや旅行に耽ってしまうと(多少はあっても仕方がないですが一定を超えると)、そうなると経済学の均衡の条件が働いて賃金でギリギリ暮らせる社会になる、ということです。こうなると今の人が仕事で苦しんでいるような、お金のために仕方がなく仕事をする、という社会が継続します。

分かち合い社会というと、人々が皆遊んで暮らすかのようなユートピアを想像する人が多いですけどそれは間違いで、特にインフラなどエッセンシャルワーカーがいなくなってはこの社会は崩壊するわけで、人々がお金のための仕事から、他人へ奉仕するための仕事へと仕事を行う意義を切り替えできるかどうかが分かち合いの社会に行くことができるかの試金石になるわけです。

最初は、人々は状況を理解できなくて、単純に、「お金があるから、仕事を辞めても良い」と単純に思うかもしれませんが、この過渡期に仕事を辞めてしまうと職業や役職というステータスを失うことになり、それは、その後にやってくる「信用社会」において致命的になります。

分かち合いの社会は、現在よりも、より恣意的な社会になります。お金で単純にサービスを提供はせずに、相手を見て、あまりにも図々しい人にはサービスを拒否する社会になります。服装や態度を見て、相手次第で提供するサービスを変える、というのも普通に起こるようになります。今の社会からしたら、そんな、同じお金を払っているのにサービスが違うのは何事か、けしからんことだ、と思うかもしれませんけど、誰しもが有り余るほどお金を持つようになれば、提供するサービスを変えるというのは普通に起こり得るようになります。

ですから、人付き合いが苦手な人や、お金を稼ぐことが得意な人は今の社会の方が良いと思うかもしれません。

今の世の中でも花街などではお客の信用によってサービスが変わる、なんてのは普通にありますし、田舎では相手を見てサービスを変えるなんてのは今でも(表立っては言わないまでも)続いていますから、お金の価値が失われた「分かち合い社会」ではそういう恣意的なお話が普通になります。

少なくとも衣食住に関しては分かち合いの社会になりますけど、旅館への宿泊、特に老舗の旅館などへの宿泊は宿泊者を宿の方が選ぶか、あるいは、泊まったとしてもどんな顧客かによって旅館の方がサービスを変えたりするようになります。良いサービスを受けている顧客は、それなりに分相応の地位がそのサービスを受けられるようになるわけです。一方、同じ宿でも、無礼な人にはそこそこの対応になる、ということも普通に起こるようになります。

これがいいか悪いかはさておき、少なくとも衣食住に関しては不自由がなくなるわけです。


昨今、世界を悩ませているようなオーバーツーリズムは「お金さえ出せばサービスを受けられる」ことが原因なわけですから、お金は誰しもが十分に持っている状況に既に今なりつつあるとすれば、サービスは恣意的に相手を見て変えるしかなくなるわけです。

予約という考え方もありますけど、それよりは、単純に恣意的にサービスするかどうかをサービス提供者がその場で決める、というのが主流になるかと思います。と言いますのも、誰しもが十分にお金を持っている社会ではいくら予約制にして金額を高くしても人々が特定のサービスに殺到するようになるからです。サービス提供者が顧客を選ぶようになるわけです。

今のように、お金が万能でお金がありさえすれば基本的に何でもサービスを受けられるという社会になっていること自体が歴史からみれば面白い状況ですので、そのうち、その異常な状態は解消されて恣意的な社会になりますから、お金を持っている人は今のうちにお金を使って色々と旅行したり体験したりしておくのが良いと思います。そのうち、お金を持っているだけでは受けられないサービスが増えていきます。

表立っては恣意的とは言わないでしょうけど、メンバーシップ制にするとか、限られた人への招待制にするとか、差別に見られない方法で顧客をサービス提供者の方から選んでいく方式が増えるかと思います。

分かち合いの恣意的な社会に移行するか、あるいは、経済学の単純な均衡のお話に戻って人々がギリギリ足りるかどうかの賃金で働き続ける社会が続くかは割と今の時期が肝心なわけです。

<この辺り、私も完全に理解しているわけではなく、現在、見極め中です>


と、すれば、今の人たちが行うべきことは割と明確です。

・人格を磨く
・誇れる仕事に就く
・やりがいのある仕事に就く
・(他の人が仕事を続けてくれるように)他の人の仕事を褒める

お金の価値が減ってそれ以外の価値が上がるということは、主にその人の職業、ポジションが重要視される社会になるということですから、今のうちにやりたい仕事、誇れる仕事に就いておくのが肝心です。

まず、人格がなっていない場合は大した扱いをされなくなりますから人格を磨くことが大切になります。その基礎の上に、しっかりとした職業を持っている人がそれなりの対応をされるようになります。

例えば、宿に泊まるとして、無職の野暮な野蛮なヒステリーの人が泊まったとしてもそれなりの対応しかされなくなります。一方、同じ宿、同じ金額を払っていても、立派な職業で人格の整った人が泊まればしっかりとした対応をしてくれるようになります。そのように、恣意的になるわけです。

今の世の中では恣意的というと悪いことというような意味合いで捉えられますけど、誰もが十分にお金を持っている社会においては他のもので判断や区別をするしかなくて、そうなると、その人の職業だとか人格という部分で区別が付けられるようになるわけです。これは表立ってはそう言わなくても実際のところでちょっとした心遣いが変わってくるわけです。今でもこういう部分は多々ありますけど表立っては言わないだけで、今後は、そのような恣意的な部分が多くなるということです。

とは言いましても、今までの社会の基礎がありますから、通り一遍の普通のサービスを受けるには普通に親切にしてくれますので、普通の人が特に困ったり不愉快になるということはあまりないように思います。

先日に話題になった共栄圏のタイムラインでは、お客の役職や人格およびお供の人の数によってあからさまにサービスが変わったり邪険に扱われることがありましたから、それに比べれば、一旦は資本主義社会においてお金が絶対の社会を経由することによって共栄圏の悪い面というのは克服されて、基本は平均的な親切なサービスを提供するというベースがあった上で良い形で恣意的な面が出てくる社会へと移行するのではないかと思います。

そして、その基本としては感謝で、特にエッセンシャルワーカーに対して現在は特に感謝を抱いていない人も多いかとは思いますが、今後、そのような人がお金を十分に持ったときにも仕事を続けてもらえるように、人々に対して、自身の仕事に対して誇りを感じられるよう、一生懸命、褒めてあげることが必要かと思います。