リベラルの多様性の扱い

2023-05-07 記載
トピック:スピリチュアル: 回想録

  • リベラルは「多様性(同質化の前段階としての多様性)」→「(多様性を捨て去る)同質化(理想は地球規模での同質化)」→「同質な者たちの間での平等、あるいは、同質化できないのならば切り捨てて”社会の外側”に除外者を切り離す、あるいは最初に戻って啓蒙のやり直し」という過程を経ます。
  • 保守は「多様性」→「ある程度の同質のグループ(あるいは地域)での区分け」→「(グループや地域内での)平等(グループ間での多様性の担保)」という過程を経ます。
これは必ずしもそうではない場合もあるでしょうし、状況や家庭、地域にもよると思います。しかし、概ね、このような傾向があるように思うのです。

  • リベラルであれば「人は皆平等」という旗印の元、異質はものは排除してなかったことにする、存在しないものとみなす、という方針を取ります。それで人類平等という原則を守れるからです。一見すると平等のように見えて、異質なものを切り捨てるわけですからかなり残酷です。アメリカの社会を見れば見捨てられた人が大勢いることがすぐにわかるでしょう。これは、私からすればリベラルの偽善のように見えます。同調圧力があり、同調しなければ異端と見做して排除するわけです。日本の公共教育は地域別にそこに住んでいる人を「ごちゃ混ぜ」するのが基本ですから基本的にこの構造で動いているかと思います。最近は学校でメンタルを壊すとすぐに引き離されて何かの施設に隔離されると聞きますから、階層の違う人たちと一緒の学校になって低級な人たちから執拗な虐めを受けてメンタルを壊すというパターンの被害者が後を経たないように思います。地域や学区にもよりますが悪ければ動物園のような環境で子供は育つことになります。子供は混乱し、虐めを受けたり、時には自分の子供が虐めの加害者になったりもします。リベラルの親は上記の基本的な挙動に従いますから、子供が道を外れて異質なものになったら「そんな子は自分の子供ではない」と切り捨てます。リベラルは潜在的に残酷なわけです。子供は、親に見捨てられないために同調圧力のストレスのある心配な生活を送るようになり、潜在的に「親に愛されていない」という悩みを抱えることになります。リベラルの本質は同質化と同調圧力そして異質な者の排除にあるわけです。もちろん、表立ってリベラルは自分でそんなこと言わないですけど、行動を見ればそうだと判断できるわけです。リベラルな人がいう「分ける」とは「除外する、排除する」という意味なわけですけど(本人はそんな酷いことはもちろん言いませんけど)、行動と判断としては、そうなっていると思えるわけです。この「除外する」という原則があるが故に「社会から除外された人を助ける」という立ち位置の人も必要になりますけど、そもそも、除外するという行為があるからこそ助けるという行為も必要になるわけですから、最初から除外しなければ助けるという行為も不要になるのですけど、割と除外する人と助ける人というのが対になって依存関係になって強く結びついているるように思えて、リベラルで「⚪︎⚪︎を助ける」という人たちに違和感を感じるのもこの辺りが原因なわけです。本来はリベラルという「除外を生成する構造」こそが問題なのに、そこには切り込まず、対処の忙しさに明け暮れて疲弊する人たちを量産するわけです。あるいは、関わったからこそこの構造に気がついてリベラルの偽善に嫌気を差して活動を辞める、という人も私が若い頃に見たNGOやNPO活動ではそれなりにいたように思うのです。
  • 保守であれば、人を同質な階層あるいはグループに分割して、そのグループ内での平等という方針を取ります。一見すると差別的のように(リベラル的な観点からすると)見えるかもしれませんけど、それぞれの階層あるいはグループの中で適切に分相応に対処され、同質な人たちの間で同じような精神レベルで管理されます。これは中にいる人にとって幸せな状況です。異質な人は他のグループに移ることができます。一見すると排除のように見えるかもしれませんけど、単に移るだけで、同質な人たちの中で幸せに過ごすことができます。日本はもともとはこちらだったかと思いますし、今でも多少この流れは残っているとはいえ、主流ではないように思います。家が都市部で家庭が裕福で勉強もそこそこできれば私学に通うことで守られた環境に入れるというのは多少の救いかと思います。学校というとリベラルな教育方針のところが多いわけですけど、私学の教育方針がリベラルであったとしても私学で階層やグループがそもそも分離されている環境にいられるというだけで子供が保守的な環境を享受できるという構造的メリットがあるわけです。その構造を自覚していようがいまいが子供は保守的構造によって守られるわけで、教育上リベラルかのような思想を教えられるかどうかは二の次であるわけで、先生が言葉上は一応はリベラル風なことを言っていつつも運用は保守な場合も日本では多いように思います。この場合、子供は温室に育って、大きくなってから守られていたことに気がつくわけです。多少はリベラルであっても実態が保守であれば同質なグループの中では子供の多少のやんちゃやはみ出した態度も大目に見られます。
今は言葉では保守もリベラルも似たようなことを言っていますけど行動と本質を見ればどちらに立っているかがわかりますし、それを見抜くにはある程度の人生経験が必要のように思えます。