虐めとリベラルの平等感と同調圧力の関係

2023-05-07 記載
トピック:スピリチュアル: 回想録

小学校の休憩時間に後ろから近づいてきて私の頭をバンバン叩いてからゲラゲラ笑うような頭のおかしい同級生がいたのですが、おそらく、当時流行っていた「8時だよ全員集合」とか「とんねるず」の品のない番組を見て真似をしていたのだと思いますけど、番組を作っている方は面白い番組のつもりなのかもしれないですけど同級生に同じことをゲラゲラ笑いながら真似されて継続的に虐めを受ける方は人生を数十年単位で無駄にすることになりますので、あのような、他人を馬鹿にすることを正当化するような品のない番組を作っていた人は(私が閻魔大王なら)地獄行きにするほど罪深いことだと思います。番組を作っている人間の品のなさがわかります。後から学んでわかったことですけど、テレビみたいなマスメディアは社会の階級間の垣根を取り払う効果があって、チャップリンなんかがその好例ですけど、もともと教養のない階層が行なっていた風習がマスメディアの流行と共に共有され一般化したのと同様に、もともと品のない階層ではある種の虐めが当然のこととして平然として行われていたものが一般化した結果として社会を混乱に陥れ、結果、私のような被害者が多数生まれたということなのだと思います。昔は割と階層の違う人たちと社会において交わることが少なくてあのような品のない虐めは下級階層でもともと行われていたとしても分相応だったものが学校という均一化された共同生活において階層関係なしに同じ空間を共有した結果、もともと関わることのなかった人たちと関わることで、このような品のない虐めが当然のようにされる、という状況が生まれていたのかと思います。

これで学んだことは、世間一般には人は平等とか言われますけど実のところ獣のような人間はそこら中にいて、人の頭を継続的に叩いても何とも思わないような酷い人間、程度の低い人間は大勢いるわけです。一方、良い人というのはいるわけですけど、それらの人が平等なわけはないのです。同じ信念を持って同じ理解を持つ人たちの間で平等と見做しましょう、というだけのお話な訳で、例えば「力の強い方が正しい」と考えるような人がいたとしたら同じ考えを持つ人たちの間で平等なだけであり、はたまた「非暴力」という共通の理解を持てる人たちがいるとしたら同じ考えを持つ人たちの間でだけ平等なのであって、それらは独立していて、関係性を持たないのです。関係性がないのですから、どちらが正しいというわけでもなく、両方正しくて、それは、お互いのそれぞれのグループの中でその同意は正しい、というお話な訳です。ですから、同意がなされていればという条件下で同じ程度のグループの中でそれは正しいということは、それは例えば、暴力であってもそうなわけで、力が強い方が正しいという同意がお互いに(一方的ではなく)なされていればそれは平等ですから問題ないわけです。ただ、同意がないのに巻き込まないで欲しいのです。グループが違う人の間、つまりは暴力が強い方が偉いと考える人と非暴力の人たちの間で平等というのは成り立たないわけですから、お互い、関わり合わずに生きる方が良いのです。そもそも、生きる世界が違うわけです。力が正義と考える世界はあるでしょうから本人の好きにすれば良いわけですけど、学校という小さな世界では複数の世界が混在していて他者の世界観に巻き込まれてしまい、被害者が生まれてしまうわけです。若い頃は多少はそういうのも有益な面もあって自分と違う世界を垣間見るのも時には勉強にはなりますけど、程度を超えると対処が難しくなるわけです。

世間一般で「あの人は獣」というと表現的にとても失礼に聞こえたりしますけど、経験上、実際に私が被害者でそれを体験したのですから、世間には獣のような人間は確実に存在しているのだと断言できます。ついつい、スピリチュアルの世界では「皆さん、良い人(=地球上のすべての人は平等)」という前提にしがちですけど、獣のような人と自分が平等なわけはないのです。ここは大切な点です。とは言いましても世間体もありますから面と向かって「あなたは獣のような人」なんて野暮なことを言ったりしません。そもそも、話があまり通じないから人ではなくて獣と言っているのですから話したり理解し合う以前の問題なわけです。話がそれなりに通じたらもう獣ではないのです。話が通じないのであれば、ただ単に、話もせず、酷い人からそっと静かに距離を取って、関わらないようにするだけのお話です。仏教などで言われている「不道徳な人とは付き合ってはいけない」という法則はここでも正しいわけです。お互い、住む世界が違うのですから、好きにさせておけば良いのです。色気を出して「自分があの酷い人を改心させてあげよう」なんて思うのはエゴで、そのような思い上がった気持ちは多くの場合で打ち砕かれることでしょう。住む世界が違うのですから、放っておけば良いのです。この世界はそのような人でも生きていられるほどに寛容的です。そもそも、この世にはどちらも独立して生活できるほど広くて寛容なのですから、お互い、それぞれの世界で好きに楽しく満足して暮らせばいいのです。ですから「人間平等」なんてあってないようなものなのですけど、モラルのない人からしたら「人間平等」なんてスローガンは好都合で、本来ならば相手にもされなくて住む世界が違う人でも特によくわかっていない子供であればこのスローガンひとつで一応は相手にしてくれますから平等とかモラルだとかリベラルだとか耳障りの良いことを言って近づいてきて虐めたり搾取したりできるわけです。結局、程度の低い人というのは要は自分が満たされていなくて他人が羨ましく見えて嫉妬した上でどうにかして利益を享受したいからそんな適当なこと言って懐に入り込もうとしているだけなので、そんな下層の品のない下心のあるずる賢い人とは距離を取って、要は脇を甘くしないでいる姿勢が大切なわけです。マスコミとかテレビはその出自からして階級社会を壊す役割があってリベラルで平等なことを標榜しますけどこのご時世にそんなこと本気にする必要はなくて、未だに階級を破壊しようとマスコミが頑張っている結果、本来の目的ではなくてずる賢い人の言い訳ばかりに使われて、世の中、特に子供に対して混乱を与えているわけです。それは良い面もありますけど特に子供の生活環境にとっては数十年単位でトラウマにさらされるほどの悪影響があるように思います。大人ならともかく、子供は階級に応じたモラルのある同質な人たちと安全な環境で暮らすことが必要に思います。親に経済力があるならそれなりの人が通う私学や進学校に行くとかすれば割と同質な人たちとの環境で守られますけと、田舎ですとそもそも選択肢がなくて、凄く良いか凄く悪いかの両極端になってしまうように思います。

リベラルは「人は皆平等」というお題目を掲げているわけですけど、上記のように世間には獣のような人が紛れているためにそんなことはあり得なくて、あくまでも同質の人たちの中での平等があるというだけのお話なわけです。リベラルはアメリカのリンカーン大統領の宣言とかがよく引用されますけど、あれはあくまでもキリスト教徒の中での平等であって、それは結局は、同質の人たちでの平等を謳っているに過ぎないわけです。最近はその引用を理解せずに単純に万人の平等みたいな解釈で引用する人がいるものですから話がややこしくなっています。この種の、同質の人たちの平等、ということであれば、実はリベラルも保守もそう変わりがないのです。ただ単に自分の都合の良いように解釈して自分の主張を認めさせるために違った言説を使っているだけであり、実のところ、どちらも同質の人たちの間での平等が実際のところではあるけれども、お題目として万人の平等を謳っているのか保守層の保護を謳っているのかの違いしかないわけです。そのことを踏まえると、いかにリベラルが偽善的かも見えてきて、リベラルの言う万人の平等はというと、実際に世の中に悪魔のような人がいる以上はその理論は基本的には破綻していて、それでも、ルールだとか法律だとか犯罪とか異質者とかいう「除外のためのカテゴリ」を幾つも作って大勢の人を排除することで「人は皆平等」のお題目をなんとか保とうとしているのが今のリベラルの姿だと理解すれば、少なくとも私が経験した数十年前はというとそのような「除外カテゴリ」を作らずして誰でも同じ教室に放り込むような日本の教育現場はリベラルですらなくてただ単に管理されていないだけの状況であったと言えます。本当にリベラルであるならばリベラルに徹すれば多少はマシだったのですけど方針が一貫していなくて、リベラルであれば同質の人以外は異質として排除して「皆平等」のお題目を保とうとするべきであるのにも関わらず、結局は日本の社会はリベラルではないものですからそのようなことはせずに、自分たちがよくわかっていないリベラルという旗印を一応は掲げながら、どうしたら良いのか現場もよくわかっていない、という状況だったかと思います。そして時は流れ、最近は、学校で暴れたりメンタルを壊すとすぐに隔離されて施設に送られるようになったと聞きますので、リベラルの基本的な原則に従って異端を排除するという方針になってきたのだと思います。一旦隔離されて施設に送られてしまうと大学進学も難しくなりますので社会復帰は難しくなり、リベラルの原則に大人しく従う人以外は異端者として排除されることとなり、社会から多様性が失われるばかりか、たとえば、単に虐められていて被害者だった人が少し反撃したら隔離されて施設に送られるという状況も普通にあるとすれば学校にもう救いはなくて、自分の子供を日本で育てたくはない、という気持ちにもなります。そもそも私は学校での虐めの被害者ですから、ずるく虐める側に優位なこの状況は、救いがないとお思います。数十年前も救いがありませんでしたけど、昨今の状況はもっと遥かに救いがなくなっているように思います。これはただ単に虐めだけの問題ではなく、リベラルの偽善と同調圧力いうところにも繋がってきます。