リベラルと多様性は反比例する

2023-05-07 記載
トピック:スピリチュアル: 回想録

  • リベラルは上記の通り本質的に画一化を基本とした構造があるわけですけど、それ故に、たとえば多様性が大切と言ってはいるものの、それは往々にして精神の「投射」の機能において自身の問題を周囲の環境に見ていることが多いのです。自身の精神が成熟していない場合には自身の問題を他人や環境の中に見てしまうことが精神の投射なわけですが、それ故に環境問題やら多様性の問題やらを社会問題化してロビー活動をしたり条例を制定させようと躍起になるわけですけど、その根本が投射であることに気がついていない状態で活動に熱心になっているか、あるいは、気付いたら最後、急に醒めて活動から距離を取って冷ややかになるのが特徴です。リベラルな活動家は割と内ゲバが多くて活動家同士で争うことが多いのも同じ根本に根ざしていて、投射でありますから、活動家同士の中に問題を見てしまって活動家同士で争ってしまうわけです。その根本はというと、自身の精神がまず成熟していなくて、それ故に多様性を認めることができていないのにも関わらず、その自身の問題を他者や周囲の環境に対して(精神の)投射を(無意識に)行ってしまうが故に自身の問題としてではなく、環境や政治の問題として他者や環境あるいは政治を攻撃するという構造になってしまっているわけです。リベラルはまず解決すべきは自身の精神の問題であって、精神が成熟すれば自然に保守になるように思います。
  • 保守は最初から分割して分相応に人を育てるということをします。「人は皆平等」などというあり得ないお題目は本気では信じてはおらず、世間がそう言っているから一応は同意しているものの、色々と言い換えをしてその本質を明らかにしようとしています。例えば「人は平等ではあるけれども、品位には差があります」とか有名な人が言っていましたけど、一応はリンカーンの言うような平等というのは社交辞令で同意しつつも本気でそれを信じてはいないのです。
リベラルにしても、本気でリベラルというのであれば自分あるいは子供を動物園のような多様な階級の入り混じった環境で育てることを由としますから、人によっては実際に子供をそのような動物園のような環境に放り込むわけですが、そうして苦労するのは子供なわけです。子供は抵抗できませんから親のわがままな押し付けに対して抵抗できず、親が「大丈夫だよね」と言ったら「はい」と答えるしかなくて、抵抗できない子供が親の望んだように回答しているだけなのにも関わらずそのことに気がついていない親は子供の回答に満足して自己肯定を深めるわけです。親に抵抗できないほど親の躾と束縛は絶対的ですから、リベラルな親の元で生まれた子供は自分の発する言葉と自分の実際の姿にギャップがあるため精神不安定になりがちで、親の歪んだ思想に合わせるのに苦労するだけならまだマシですけど、親の影響により精神錯乱に陥ったりします。リベラルな親はとにかく同調圧力が強いわけですが、そのため、動物園のような環境であっても「大丈夫だよね」と聞いて「はい。大丈夫です」と答えさせて、親が望まない答えを子供がしたらイライラしたりブチギレたりヒステリーになったりするわけです。

リベラルな親の子供は時にそのように動物園のようなごちゃ混ぜの環境で精神と身の危険に晒されていたりしますが、本当に子供に必要なのは安全な環境であって、であれば、階層別、グループ別に分割した環境が必要なわけです。安全な環境というのは、例えば、同級生に急に後ろから頭をバンバン叩かれてゲラゲラ笑われるようなことがない環境というのが安全な環境であって、階層やグループをごちゃ混ぜにした動物園のような環境で精神が未熟な人と一緒に暮らすと子供はメンタルを壊すだけです。時々、リベラルな親の勝手な思想で「動物園のような環境こそが多様性を育てる」みたいなことを言って子供をその勝手な思想に付き合わせますけど子供としはいい迷惑で、それでも子供はよくわかりませんから、親が「これが良い」という環境に対して、親が望むように「いい環境だった」とか口では答えますけど、それは親の同調圧力に子供が屈しているだけで、そんな子供の気持ちもわからないほど一部のリベラルな親は見識が狭くて歪んでいるわけです。

まともな親であれば、例えば親に「後ろから貴方の子供の頭をバンバン執拗に継続的に叩いてゲラゲラ笑うようなキチガイの子供と同じ教室で自分の子供を育てたいと思いますか」と聞いたら、大抵の親はそんな環境は嫌だと思うわけです。時に極端なリベラルの親は「差別はいけない」だとか「人は皆平等」とか言って子供を動物園に送り込むわけですけど、それは周囲に対するポーズと(自身の主張に対する)アリバイ作りなのであって、そんなことのために子供を動物園に送り込んで子供の精神を病ませるような親は終わっていると言えます。

ほとんどの親は、本質的にリベラルではなくて保守なわけです。本当にリベラルであるならば動物園のような環境で子供を多様性の元で育てることを由とするのであって、そうすると苦労するのは子供で、時に子供が参ってしまって精神をおかしくしますけど、上記の通り、本当にリベラルな親というのは道を外れた子供というのを切り捨てますからその時は「そんな子は私の子供じゃない」と言って見捨てたりします。そして、うまく自分の都合の良く育った子供だけ「自分の子供」として見ますから、結果、「やっぱり自分の教育方針は間違っていなかった」と思い込むわけです。

これほど酷い親が本当にいるのかと、疑問に思われる方もいらっしゃるかもしれません。確かに、私の親もここまで極端ではありませんでしたけどある程度はこの性質があって、ことあるごとに特に母親はヒステリーになって「もうこの子はダメだ」という見放し発言を何度も何度もされてきました。

そして、大学時代や20代前半に関わったNPO活動やNGO活動においては左翼的・リベラル的な思想を持つ人とも多分に接してきて、そのような人たちの話を聞いていると、概ね、こういうことだったのではないかと理解できるのです。

結局、リベラルというのは精神が未熟であって、自分の問題を他者に投射していて、自己擁護に長けていて、問題が起きて自分の思い通りにならないと自分の子供であっても切り捨てるほど冷酷で容赦ないのです。左翼が内ゲバをよくするのも頷けます。

リベラルは本質的に許容範囲が少なくて画一的な社会を目指していて、多様性に欠けている、という本質を持つわけです。そして、その本質に気付かずに他者や環境や政治に自身の未熟な精神を投射しているが故に社会問題として扱うが、実はそれは自身の精神が未熟なだけのお話なわけで、そんな話に付き合わされる周囲の人は迷惑ですし混乱しますし、時間を無駄にする一方なわけです。

リベラルだとか平等とかよりも、もっと大切な基本的なものは安全な環境であり、安全な環境とは隔てられた守られている環境であり、温室であり、安全は特に子供に必要なもので、それは動物園のような環境とは真逆のものです。

このようなことをリベラルにいうと「そんなことはわかっている。当然だ」とか言いますから更に混乱してしまうのですけど、リベラルの人は周囲から色々と反論されていますから一応は知識はあることが多くて、しかし、頭でわかってはいても、本当にはわかっていないことが多いかと思いますが、本人はわかっているつもりな場合が多いように思います。こういうことを左翼とかリベラルな本人に言うと長々と反論されたり私が逆に見下されたり色々と嫌がらせをされたりしますけど、リベラルや左翼の特徴というのは「頭でわかっているつもりになっているだけで、本当にわかってはいない。それなのにも関わらず自分は100%理解していると思っている。自分の主張は完全に正しいと思っている」という傲慢な性質を持つため、話しても無駄で、結局、ヒステリーになって大声で喚き散らし、最終的には「面と向かって対峙しろ。お前は直接言えないくせに」とか言って最終的には喧嘩と啖呵の強さというところに辿り着きます。要は喧嘩早くて、行き着くところはというと、どれだけ腕っぶしが強いか、というところに辿り着くわけです。リベラルの本質というのは下級市民の反逆でありますから、色々と理解とか平等とか言っていても結局行き着くところは暴力なわけです。大人になってから喧嘩を売られたら逃げるに決まっているのに、暴力から逃げたら「逃げるのか」と啖呵をふっかけられたりして、こちらが怖がっているとゲラゲラ下品に笑われたり見下されたりして怖い思いをしますからリベラルや左翼とは最初から付き合わないのが良いのです。ネット社会になってから、よく「面と向かうと何も言わないのに、メールやチャットで長々と書く人がいる」と言うお話を聞くことが増えましたけど、これは保守とリベラルの双方がそう言うことがあってもそれぞれ意味が違っていて、保守の人がいうのは文字通り直接の会話が大切と言うことで特に異論はないですけど、リベラルの方はというとこのようなことを言って暴力できる距離にまで相手を呼び寄せたいだけなのですから、保守のこのような言葉は真に受けても良いですけどリベラルのこのような言葉は誘い出しているだけですので違和感のある怖い誘いに乗ってはいけないのです。

そのリベラルの見分け方としては、そもそも世界が平等とかいう幻想を抱いているかがポイントで、世界が平等という原則の元にそれに合わない人を排除して切り捨てて平等とピースという幻想をかろうじて保持しつつ、幻想を打ち砕く真実に対して特に臆病でビクビクして、真実を突きつけられるとヒステリーや時に暴力的になることもあるのが左翼やリベラルなわけです。

リベラルにまつわる多様な意味不明なことがありますけど、要は、頭が悪いとこういう構造に気が付かない(学校の勉強は割とできる場合も多々ありますが、地頭の問題)、というお話なのだと思います。なまじ中途半端に頭の良い人は個別論でそれっぽく理屈を擁護したりしますけど全体を見れば辻褄があっていなくておかしいことがわかるわけで、リベラルは概して自信家ですから自分の頭の良さに自信があったりしますけど、全体像が見抜ける人こそが本当に頭が良いのであって、個別論がいくらできて様々なことを知っていたとしても、それは中途半端な頭の良さであり、単に小賢しいだけのように思えるのです。それ故に、私は頭の悪い人とは付き合いたくないのです。頭が悪いとこのような全体像に気が付かずに個別論で留まってしまい、個別は確かにリベラルのお話は正しく見えるかもしれませんけど根本のところでおかしいわけで、それを見抜けるのが本当に頭の良い人なわけです。なんだかんだ言っていて、リベラルは根本のところで多様性が何たるかをわかっていないので多様性とか言っているわけです。リベラルの多様性はというと、自分の理想でもある絶対的に正しい価値観の世界に統一されるべきだという基本姿勢にそぐわないものを多様性と言っているのであって、言葉では多様性が大切とか多様性を保護するとか口では言っておきながら、実態はというと自分以外の価値観を切り捨てるのであって、例えば子供が自分の意向に反した行動とすると「自分の子供じゃない」と言って残酷にも切り捨てたりするわけで、許容範囲がとても狭いわけです。リベラルは自分の価値観を守って他者に自分と同じ価値観を持たせて自分と同じ価値観の世界を広げる、というところに根本の行動原理があるわけで、外面を良くするために多様性を大切にしたり保護したりしていますけど、それはバランスを欠いていて、要は偽善なわけです。このようなおかしなリベラルを見抜けるのが本当に頭の良い人なわけです。一方、保守であればそもそも多様な世界があることが前提になっていますからお互いの世界を侵食しないように気をつけるわけです。保守は最初から多様性を尊重している一方で、リベラルの方はというと多様性を尊重とか言いながら他の文化に侵食しているのです。リベラルの姿勢はとても偽善的であります。

リベラルは頭で同意をしているだけで、本質のところで理解していないが故に行動が変わらず、結局、今までの活動や思想が継続するわけです。そして、自分とは違う世界に住んでいる人がいることに極限まで理解が届かず、多様性とか色々と言って勉強しているつもりになって、驚きや知識などはそれなりに入れていても根本のところで、自分とは全く違う世界に住んでいる人がいるというところが根本のところでわかっていないんドS。

この辺り、(根本のところで)理解できない人には結局(いくら頭で理解していようとも、根本のところで)理解できないのだ、というところが肝になるわけです。やはり、同質の人たちだけの間でしか理解し合えないことはあるのだと思います。

左翼やリベラルの人の理屈はそれはそれで理解できなくもないですけど、リベラルの行動というものは何を言っても変わらないわけですから、頭では一応はお互いに理解し合えてはいるのですけど、結局、性質そのものが違うわけですから、住む世界が違うということだと思います。頭で理解していても、自身の姿というのはそうそう変わりませんから、自身にあった世界で生きればいいわけです。多少の理解はできても、世界が違えば理解と常識が根本に異なることに思いが及ばないのがリベラルの特徴なわけです。上記の通り、リベラルの世界とは自分の世界が世の中全てに広がっていて世界は1つでありリベラルが定める1つの世界から外れるものは例外として除外するのがリベラルのあり方です。保守はそもそも多様な世界があることを前提としていますから人類皆平等なんてあり得ないと思っています。今は言葉上では両者とも似たようなことを言っていたりしますけど、根本はこういうことだと思います。

住む世界が違うのですから別に暮らせばいいわけで、混ぜる必要はないのです。お互いに否定する必要もなく、お互いが、それぞれ自由に暮らしていけるほどこの世界は許容の幅が広くて、それ故に、あまりお互いに関わらず別の環境で生きればいいわけです。リベラルな人が動物園みたいな環境がいいと誘ってきても拒否すればいいだけのお話で、住む世界が違うのですから、お互い、好きにすればいいわけです。この世界は自由で全てが肯定されていますから、自分の好きなように生きればいいわけです。何も否定する必要はないわけで、リベラルはリベラル同士で好きに生きればいいわけです。

それと関連して、よく世間では「きちんと論理立てて説明されれば必ず理解できる」みたいなことが当然のように語られていますけど、これもまたリベラルの傲慢な考えであって、世界が違えば理解は表面的にしかできず、根本のところまでお互いに理解できるわけがないのです。「お互いに理解できる」なんていうのはマスコミの時代に社会階層がごちゃ混ぜになったことによる錯覚のようなもので、実際には、そんなことないわけです。多少、近いレベルの人たちで分かり合える、というのはありますけど、何段階か階層が違うと理解が難しいわけです。マスメディアの時代においてチャップリンに代表されるように階層がごちゃ混ぜになり、それ故に、階層が低くても多様な人々と接する機会が増えたことにより今まで知る由もなかったことを知ることになる元低層階級の人が多少は出てくるのはそうなのですけど、そもそも昔は階層が違えば接する機会がなくて理解する機会すら与えられなかったのにも関わらず、たまたま運よく知る機会が与えられたからと言ってなんでも理解できるとか公言するのは、自分のラッキーさを棚に上げた発言であり、それは一般化はできないものであり、そもそも一般的には下層な人は失礼で傲慢ですから、ラッキーな人はさておき、基本的には階層が違えば接点は少なくて、階層がごちゃ混ぜになる昭和の時代は終わりになって、今は元の安定した階層の時代に戻りつつありますから、階層が違う失礼な人の相手はしない方が良いのです。実際、階層が違えば理解や常識は大きく異なり、そもそも住む世界が違う人たち同士の間の理解には限界があるわけで、それを踏まえずに、なんでも理解できると思っているところが傲慢なわけで、そんな傲慢な人たちとそもそも付き合う必要はないのです。 きちんと言葉で説明をしたとして、頭で理屈はロジックで理解できたとしても、特に愛のあり様に関しては理解に壁があるわけです。いくら頭で説明されて頭で理解できたとしても、ハートの愛が当たり前の世界の住民とそうでない世界の住民にとっては常識や理解に大きく差があります。そう易々と根本まで深く理解できるわけはないのです。説明することで理解し合えるとかいうのは同じ世界に住む階層の間でのみ成り立つことなわけです。例えば、頭をバンバン叩いてゲラゲラ笑うことが当然のように思う人たちの階層は同じような人たちで好きにやれば良いわけで、そのような人たちにいくら道徳を説いたり人の頭を叩くことがいけないことだと説明したとしても逆ギレされたり聞く耳を持たない場合も多いでしょうし、言って聞かせて一応は頭で理解できたとしても、それが腑に落ちて身についたかというと、頭の理解だけですぐ身につく訳はないのです。理解したと口で言った翌日にまた同級生の頭をバンバン叩いてゲラゲラ下品に笑ってきたりもするでしょう。そのようなことは実際に私の実体験で起こりましたから、言っても無駄な人、先生などが何を言っても無駄な獣のような人というのは絶対的に存在しているわけです。住む世界がそもそも違うのですから、「理解がどうのこうの」みたいな面倒なことを言う必要はなくて、別々に暮らせば良いのです。

また、リベラルがそのように「きちんと論理立てて説明されれば必ず理解できる」というときは、一見すると「俺はお前を理解する」という風に見せておきながら実のところは逆で「お前は、俺様リベラルのいう賢い知識をしっかりと聞いて理解するんだぞ」という、押し付けがましい、傲慢な同調圧力である場合が多々あります。これは私がNPOやNGO活動しているときにそれなりの人数に同様の傾向がありましたので割とリベラルや左翼に一般的な傾向かと思います。実際、歪んだ考えであることもあるのですけど、それでも傲慢にもあれこれと執拗に同意と理解を迫ってきて、会話を拒否すると「お前は向き合わないやつだ」とかあれこれと人格否定をしてきますけど、そもそも、考え方を絶対的に同意させるまで延々と執拗に追いかけ回すストーカーもどきの行動をする方がおかしいわけで、そのストーカーもどきを拒否したところで、なぜに私が非難される必要があるというのでしょうか。リベラルは考え方が合わない人を排除することで自分たちの画一的な思想を守る、という実例だと思います。

そもそも住む世界が違うのですから考え方も理解も違うのが当然なのに考え方や生き方を統一させようとするところがリベラルはおかしいわけです。リベラルは多様性とか言いつつもそうして多様性を否定する行動をするところがおかしいのです。リベラルが多様性を受け入れるときにはパターンがあって、「とても遠くの世界」であれば多様性を受け入れるのですけど、近くのことになると多様性ではなく同質化と排除のパターンになるわけです。

似た理屈で、マスメディアの時代には、ロミオとジュリエットに代表されるように「恋愛や結婚も身分の階層の垣根を超えて」みたいなことが宣伝されましたけど、これまたトラブルを引き起こします。そもそも住む世界が違う人の間では常識が違いますから、ある程度は同じ階層の、ある程度同じ常識を持っている人と結婚する方がいいに決まっているのです。同じ階層の中にも色々な人がいますから多様性はいくらでも担保できます。世の中には男女は山ほどいるのですから、割と同じくらいの階層からパートナーを選ぶとしても何も不都合はないと思います。

左翼やリベラルは長い時間をかけて精神を成熟させていき、時に、世界を見ることで世界は最初から多様性に満ちていて多くの世界があってそれぞれの世界がそれぞれ違って住んでいることをようやく理解するわけですけど、実際のところ、そうして到達する理解というのは保守が最初から言っていたことであり、その理解に達すると自分が今まで保持していたリベラルな思想に幻滅してリベラルを捨てるわけです。その時、人はリベラルから保守になるわけです。多くの場合において若い人がリベラルで歳を取ると保守になると言いますけど、若い頃は世界が平等などという幻想に短期間であっても憧れるのは若者の青春みたいなもので時にそういう青年期も悪くはないですけど、ある程度の人生経験を積んだなら人は皆平等とかいう思想は幻想ではないことに気がつくわけで、年取っていつまでもリベラルでいるのはちょっと理解が足りないように思うのです。

リベラルのいう多様性なんていうのは自分たちの視野の狭さをカバーするための言い訳であって、世界がフラットで皆同じ世界に住んでいると思っているのがリベラルの本質なわけで、自分たちの思想に同調しない人は異端として排除するのがリベラルのやり方なわけです。

若い頃はこういうことを私が言ってもリベラルの人は色々と言ってきて混乱していましたけど、結局、その人の言葉と実際の行動と本質は何かを理解することで、言葉では色々と言っていても本質はどうなのかが理解できるようになったことで悩むことが少なくなりました。

世界がフラットであるわけはなく、住む世界が同じわけはなくて、それぞれ別の世界に住んでいて、それでいて実は皆同じワンネスなわけです。見た目とは関係なく、多様性があって、多様性のあるままで既にワンネスなのが本質なわけです。

リベラルな人は、口では色々と言いつつも考え方や思想を合わせようと同調圧力があって、実際はそのような同意や同調が全くなくても最初からワンネスであるのが本質であるにも関わらず、リベラルな人は同じような考えに同調してこそワンネスだと考えている点が大きく違うわけです。同調圧力のヒステリーが頭痛の種であるだけでなく、考え足らずの間違った行動で色々とロビー活動などをして社会の仕組みを変えようと画策してきて、一部のそういったリベラルな人の行動によって大勢に迷惑をかけているわけです。例えばトイレを男女で一緒にするなんて頭が悪すぎます。

リベラルな人は、自分の主張が相手に理解されるまで延々と勝手に主張を繰り返したりして、相手が理解しないと仲間外れにしたり馬鹿にし始めるのです。それは、端的に言えば自分が頭が良いと思っていて傲慢ということでありますけど、もっと深いところでは、リベラルは多様な世界が存在するということを本質のところで理解できないのです。こういうと「何を言っている。俺たちリベラルは多様性を尊重した社会を目指している」とか言いますけど、そもそも、今既に多様性に満ちた素晴らしい世界であって、リベラルの頭の中でだけ分断が生じているのです。リベラルが自分たちで混乱して多種多様なことを言っているのでわかりにくくなっていますけど、リベラルは多様性を理解していない、という基本を押さえればリベラルの有り様はすっきり理解できるのです。

スピリチュアル的には世界が別々であっても最初からワンネスで最初から最後まで世界は元々ワンネスというのが本質なわけですけど、そう言わなくても保守からすれば特に分断なんて最初から起きていないわけですがリベラルな人はそれが理解できなくて、なぜか分断が起きていると思い込んでいて、ワンネスのためには何か行動が必要だと思い違いをしているわけです。何も行動しなくても、別々の世界に住んでいても最初からワンネスなわけです。リベラルな人がリベラルのいうところのワンネスを実現するために世界を統一しようとして世界に争いが生じているのであって、そんな世界統一などしなくても最初からワンネスなのでありますから、別々の世界でお互いに必要最小限の関わりでそれぞれの世界で平和に過ごせば良いということがリベラルな人には理解できないのです。

じゃあ、実際、今起きている世界の紛争はどうなのだと言いますと、それをリベラルだとか保守だとかファシズムだとかいう枠組みで理解するのが間違いな訳です。リベラルな人はあれこれ理屈をつけて分断があるとか多様性を認めることが必要だとか色々言いますけど、戦争なんてそんな理屈よりも、ただ単に巻き込まれたから憎しみがお互いに倍増しているだけのお話です。であれば、理屈をどうこう言わずに、もっと巨大で大きな力で紛争を抑え込めば良いだけのお話です。戦争という力の暴力にはより大きな力で封じ込めれば平和になります。ただそれだけのお話なのに、リベラルは紛争などがあるとそれを煽って格差をネタにして喜んで(もちろん表立ってはそう言わないですけど)一見すると悲しい風のことをことさらに語ったりするわけです。それは偽善的でもあるのですが、その好例がバイデンです。

リベラルが抗争を格差だとか分断だとか言っているのは、後に述べますように混乱とコントロールという点に関してそう言うのがメリットがあるからであって、本当にそれが問題というよりは、混乱をある程度まで煽れば大衆をコントロールしやすくなるのでリベラルはそのような状況を利用しているだけなのです。直接的に武器を売らなくても紛争に乗じて人々の不安を煽るならば戦争に加担していることになりますけど表面上はもちろんそうは言わないところがリベラルのずるいところであるわけです。これは、内情を知っている人と、内情を知らずに社会的にそのように教育を受けただけな人と、その中間として薄々気がつき始めている人がいるわけですから全員が悪というわけではないのですけど、本質的にリベラルにはこのような方向性があるということです。

他には、リベラルな人が移民とか色々言っていますけど移民をたくさん入れると国を混乱に陥れたりするのは当然なわけで、そもそも移民とは住む世界が違うのでありますから基本は移民は受け入れずに元の国で暮らして貰えば良いだけのお話です。移民を大量に入れたら動物園になるだけのお話ですけど、そんなこともリベラルな人は考えが及ばずに、例えば「この地球に国境はいらない」などとお花畑のことを平然と行ったりするのです。例えば、もし国境がなくなったとしてインド人がわらわらと世界中に溢れ出したら街は汚れて汚物だらけになってゴミは放置されて腐臭がそこらでするようになり、大変なことになります。リベラルな人は呑気にも「そんなことにはならない」とかお花畑のことを言ったりしますけど、現実は多くのインド人と日本人の生活は違いすぎて一緒には暮らせないわけです。もちろん、違う階層の間であっても多少の行き来がありますけどそれはほんの僅かであり、全くボーダーがなくなってごちゃ混ぜにするのはあり得ないわけです。基本は、お互いの世界でそれぞれに暮らすことが平和にも繋がるわけです。

それに加えて、リベラルが多様性やら平等をいうのは、そうして格差を強調すれば話題になって、自身に目が向くことで自身の利益になるからです。更には、実のところ、リベラル本人はそうは表立っては言いませんけど、「他人を混乱の状態へと叩き落とすことができる」、ということによるリベラル側への利益が実は大きくて、自覚しているかしないかに関わらず、それが本当の目的なのです。一旦、他人を混乱の状態に落としてしまえば他人をコントロールするのは簡単ですから、とにかく悲しい厳しい辛い状況や格差を強調して他人を混乱状態に引き込むのです。そうして、自身はいい人を装いつつ他人をコントロールする立ち位置に立つことができて、その本質が故にリベラルとマスコミが強く結びつているのも当然であると言えます。リベラル本人が自覚してやっているのであれば極悪人ですし、自覚していないのであればその程度なわけで、どちらにせよ、他人を混乱に落としつついい人ぶって同調圧力を加えて他人をコントロールするリベラルは罪深いと言えます。



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