自我(エゴ)が自分をコントロールしているという幻想
最初からそれは幻想だったわけですけれども、多くの普通の人は自我(エゴ)が自分だと思って生活しているわけです。その、誤解された自分のことをヴェーダンタではジーヴァと言いますけど、その、顕在意識が思考する自分および記憶(ヨーガでいうチッタ)としての自分と言う意味でジーヴァという言い方をするわけです。いわゆる普通の人が思っている自分という感覚における「私」がジーヴァなわけです。
そしてそのジーヴァは幻想でしかないわけですけど、それは聖典にもそう書かれてありますし、単なる知識だけでなく、実際にそうなわけです。瞑想が進んでくると高次の自分であるアートマン(あるいはハイヤーセルフ、真我)が本当の自分であることに気付くわけですけれども、そのことを自覚するまではジーヴァが自分だと思い違いをしているわけです。
ジーヴァは「思考」「肉体の体」を自分だと思い込んでいる、誤解して自分だと思い込んでいる幻想としての自分な訳ですけれども、ハイヤーセルフの意識に目覚めるかあるいは聖典で教えてもらうまではその幻想の中に深く生き続けるわけです。
実際のところ、本人のジーヴァがそれに自覚しようがしまいが、ジーヴァがいくら自分こそが自分で我思う故に我ありで肉体こそが自分の全てだといくら思おうが、肉体が生まれる最初から、はたまたそれ以前から、既にハイヤーセルフこそが元々の本当の私であったわけで、顕在意識がそのことを自覚しようがしまいが関係なく最初からハイヤーセルフこそが本当の自分だったわけで、これからもずっとそうなわけです。
(続きます)