無念無想と観察(ヴィパッサナー)は矛盾しない

2023-01-19
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

よく、仏教のお話で無念無想なのかあるいはお釈迦さまの言われる観察(ヴィパッサナー)なのか、みたいな二者択一のお話が出てきますけど、これはとても誤解のあるお話なのです。実のところこの2つは矛盾しなくて、顕在意識の普通の思考するマインド(心)が無念無想になることと、高次の意識(ハイヤーセルフ、アートマン、真我)の観察(ヴィパッサナー)は矛盾せず、両者は並立して共存できるわけです。

ですけど、世間でよくこれらが二者択一かのように語られていて、やれ無念無想が正しいだとかそうではなく観察(ヴィパッサナー)が正しいだとか、それに加えて集中瞑想(シャマタ)が正しいとか観察瞑想(ヴィパッサナー)だとか論争になっていて、意味不明なお話というだけでなく、関わるのが面倒になるくらいお互いに仲の悪いことになっていたりすることがあります。昔から、スピリチュアルあるいは宗教の流派同士は仲が悪いことが多くて、考え方の違いによってお互いがお互いを批判してきた、という歴史があります。

ですけど、これらのお話は、全く矛盾しないお話なのです。

無念無想というのはシャマタ(集中)の瞑想の種類に属するものですけど、一点集中して雑念を取り払い、文字通り心の中を無にします。ただ、ここで心と言うと日本語の心という意味は幅広いものを含みますので誤解があって、シャマタで集中すると言うのは思考する心(マインド)で集中するという意味なわけで、その上で、無念無想というのはあくまでもその同じ思考する心(マインド)が無念無想の状態になるわけです。思考する心(マインド)が穏やかになって働きが止まり、無の状態、無念無想になるわけです。

一方、観察(ヴィパッサナー)という言葉はよく誤解されますけど、世間の流派で行われているヴィパッサナー瞑想というのは思考する心(マインド)が特定の体の部位あるいは心の動きを観察することで、観察と言いつつそれを行なっているのはマインドですから、言葉は違えども実のところ集中をしているに過ぎないわけです。その集中を観察(ヴィパッサナー)と言っているのが世間の多くのヴィパッサナー瞑想であるわけですけど、実のところ、本当のヴィパッサナー瞑想とも言えるサマーディ状態はそういう状態ではないのです。

(続きます)