無念無想と観察(ヴィパッサナー)は矛盾しない

2022-12-18 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

よく、仏教のお話で無念無想なのかあるいはお釈迦さまの言われる観察(ヴィパッサナー)なのか、みたいな二者択一のお話が出てきますけど、これはとても誤解のあるお話なのです。実のところこの2つは矛盾しなくて、顕在意識の普通の思考するマインド(心)が無念無想になることと、高次の意識(ハイヤーセルフ、アートマン、真我)の観察(ヴィパッサナー)は矛盾せず、両者は並立して共存できるわけです。

ですけど、世間でよくこれらが二者択一かのように語られていて、やれ無念無想が正しいだとかそうではなく観察(ヴィパッサナー)が正しいだとか、それに加えて集中瞑想(シャマタ)が正しいとか観察瞑想(ヴィパッサナー)だとか論争になっていて、意味不明なお話というだけでなく、関わるのが面倒になるくらいお互いに仲の悪いことになっていたりすることがあります。昔から、スピリチュアルあるいは宗教の流派同士は仲が悪いことが多くて、考え方の違いによってお互いがお互いを批判してきた、という歴史があります。

ですけど、これらのお話は、全く矛盾しないお話なのです。

無念無想というのはシャマタ(集中)の瞑想の種類に属するものですけど、一点集中して雑念を取り払い、文字通り心の中を無にします。ただ、ここで心と言うと日本語の心という意味は幅広いものを含みますので誤解があって、シャマタで集中すると言うのは思考する心(マインド)で集中するという意味なわけで、その上で、無念無想というのはあくまでもその同じ思考する心(マインド)が無念無想の状態になるわけです。思考する心(マインド)が穏やかになって働きが止まり、無の状態、無念無想になるわけです。

一方、観察(ヴィパッサナー)という言葉はよく誤解されますけど、世間の流派で行われているヴィパッサナー瞑想というのは思考する心(マインド)が特定の体の部位あるいは心の動きを観察することで、観察と言いつつそれを行なっているのはマインドですから、言葉は違えども実のところ集中をしているに過ぎないわけです。その集中を観察(ヴィパッサナー)と言っているのが世間の多くのヴィパッサナー瞑想であるわけですけど、実のところ、本当のヴィパッサナー瞑想とも言えるサマーディ状態はそういう状態ではないのです。

■思考のマインドと本来のヴィパッサナーでは次元が異なる

シャマタ瞑想あるいは流派・流儀におけるヴィパッサナー瞑想はどちらも言い方が違うだけで集中および観察をしており、違いはないと言えますが、お釈迦さまの言われた観察(ヴィパッサナー)とはマインドで行う「行為」ではなくて、高次の自分(ハイヤーセルフ、アートマン、真我)が行う意思の働き、そのものなわけです。それは高次の自分の行為とも言えるわけですけど、そうして「行為」と言ってしまうと色々と誤解があって、言葉としてはそういう表現も一応はできるわけですけど、文化的に、伝統的に、高次の自分(ハイヤーセルフ、アートマン、真我)が行うそのような意思の働きは「行動・行為」ではない、と解釈されるのが普通です。ですから、この場合、高次の自分であるハイヤーセルフは行為はせず、ただ観察(ヴィパッサナー)を行うわけです。実のところ「働きかけ」という側面も持ってるのですけど、伝統的に、ハイヤーセルフのことは「行為」とは解釈しないのが通例なわけです。

ですから、本来のお釈迦さまの言われたヴィパッサナー(観察)瞑想というのは高次の自分であるハイヤーセルフが開眼してその次元で見聞きする、観察する、意思を発する、ということなわけですけど、これは実のところ、普通の思考する顕在意識であるマインドの働きと本来は違う次元のお話な訳で、次元が違うからこそ、どちらもそれぞれ真実なわけで、矛盾しないお話な訳です。

どちらにせよハイヤーセルフの意識に目覚めるまではシャマタ瞑想(集中瞑想)だろうがヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)だろうがさほど違いはなくて、本人のやりやすい方法で行えば良いのです。そのうち、集中が研ぎ澄まされてきてよく集中できるゾーンあるいはサマーディの初期段階に至りますけど、それらの顕在意識の歓喜がまずあって、その後で、平穏な静寂な境地に至るわけですけど、それはまだ無念無想ではなくて平穏なだけで、その後に、実際にハイヤーセルフの意識と繋がるという段階があるわけです。単にハイヤーセルフと繋がるだけではまだ自覚的ではなくて、ハイヤーセルフの意識としての自覚が出てくるまでにはもう少し時間がかかるわけですけれども、お釈迦さまの言われるヴィパッサナーというのは幅広くて、単に静寂な境地になっただけでも一応はそう言えなくもないですけど本当にお釈迦さまの言われる意味でのヴィパッサナーというのはハイヤーセルフとしての意識の自覚が出てきて実際にハイヤーセルフが主体となって観察および意思の提示をし始めた頃になってようやくそう言うに相応しい気が致します。

よく、お勉強の世界の説明ではハイヤーセルフ(あるいはアートマン、真我)というものの「観察」という面が強調されていて、「満ちている意識がそこに時間を超えて存在している」、「過去現在未来変わらず普遍に空間に存在している」、みたいに解釈されていて、「満ちている意識」というのは基本的に(自我としての)普通の人間(ジーヴァ)の顕在意識(マインド、チッタ)では知覚できない、と伝統的に解釈されます。もっと具体的には、「人間の五感ではハイヤーセルフは知覚できない」、と解釈されています。

■ハイヤーセルフは高次で意思表示および行為をする

ですが、実際のところ、五感で知覚できなくても、ハイヤーセルフの意識に目覚めればハイヤーセルフの意識を自覚できるわけです。それは「感じる」という意味においては割と皮膚の触感に似ているといえば似ていますけど、もっとスピリチュアルな感覚としてハイヤーセルフの臨済を胸のハートのアナハタ中心に感じることを基本としてい流のですが、更には、実際にハイヤーセルフが主体となって感じたり意識を発したり、ということが高次からそれとなく、時には多少なりとも強烈に働きかけが行われます。

お勉強の世界ではハイヤーセルフあるいは真我というものは人間の五感やマインド(思考する心)と切り離されたものとして学習しますけど、実際は、ハイヤーセルフの意識というものは実在であってもっと体験的な本当の出来事なわけです。

お勉強をしてますと、時折、流派によってはハイヤーセルフあるいはアートマン(真我)のことを「行為ではない」みたいに表現することがあって、「行為なしに理解する」とか言葉上は説明されることがありますけど、それは説明の上でなんとか説明しようとするとそう表現すると誤解が少ないかもしれない、というくらいのお話であって、実際の姿とはかけ離れているわけです。

実際は、ハイヤーセルフの意識というのは生々しくて、実在で、ハイヤーセルフそれ自体もその高次元においてかなり「行動的」であり、文字通りそれは「行為」であって、ただそれは次元が異なりますから物理的な三次元の行動ではないですし三次元の肉体的な行為ではないので、お勉強の世界の説明は正しいと言えば正しいのですけど、かと言って、完全に「行為ではない」というかと言うと、それはそれで誤解のあるお話なのです。

本当にわかった者同士であればそんな言葉の区別などせずに普通に「ハイヤーセルフの行為」として「見る(観察する)、聞く(意識を向ける)、働きかける(意思を発する、働きかける)」と言う行為が当然のようにある前提にしてしまえばいいと思うのですが、何故か、伝統的にハイヤーセルフ(アートマン、真我)のこのような行為は全て「行為ではない」とされていますので、流派によっては表現が回りくどかったりしますが、実際、次元が高次で違うだけで、それは意識として存在し意思を持って活動しているわけです。

そのような意識が出てくることがお釈迦さまの言われるヴィパッサナーの一面であると思うわけです。ただし、これは私の個人の解釈であって、特定の流派の解釈に基づいたものではないことをお断りしておきます。