思考のマインドと本来のヴィパッサナーでは次元が異なる

2023-01-20
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

シャマタ瞑想あるいは流派・流儀におけるヴィパッサナー瞑想はどちらも言い方が違うだけで集中および観察をしており、違いはないと言えますが、お釈迦さまの言われた観察(ヴィパッサナー)とはマインドで行う「行為」ではなくて、高次の自分(ハイヤーセルフ、アートマン、真我)が行う意思の働き、そのものなわけです。それは高次の自分の行為とも言えるわけですけど、そうして「行為」と言ってしまうと色々と誤解があって、言葉としてはそういう表現も一応はできるわけですけど、文化的に、伝統的に、高次の自分(ハイヤーセルフ、アートマン、真我)が行うそのような意思の働きは「行動・行為」ではない、と解釈されるのが普通です。ですから、この場合、高次の自分であるハイヤーセルフは行為はせず、ただ観察(ヴィパッサナー)を行うわけです。実のところ「働きかけ」という側面も持ってるのですけど、伝統的に、ハイヤーセルフのことは「行為」とは解釈しないのが通例なわけです。

ですから、本来のお釈迦さまの言われたヴィパッサナー(観察)瞑想というのは高次の自分であるハイヤーセルフが開眼してその次元で見聞きする、観察する、意思を発する、ということなわけですけど、これは実のところ、普通の思考する顕在意識であるマインドの働きと本来は違う次元のお話な訳で、次元が違うからこそ、どちらもそれぞれ真実なわけで、矛盾しないお話な訳です。

どちらにせよハイヤーセルフの意識に目覚めるまではシャマタ瞑想(集中瞑想)だろうがヴィパッサナー瞑想(観察瞑想)だろうがさほど違いはなくて、本人のやりやすい方法で行えば良いのです。そのうち、集中が研ぎ澄まされてきてよく集中できるゾーンあるいはサマーディの初期段階に至りますけど、それらの顕在意識の歓喜がまずあって、その後で、平穏な静寂な境地に至るわけですけど、それはまだ無念無想ではなくて平穏なだけで、その後に、実際にハイヤーセルフの意識と繋がるという段階があるわけです。単にハイヤーセルフと繋がるだけではまだ自覚的ではなくて、ハイヤーセルフの意識としての自覚が出てくるまでにはもう少し時間がかかるわけですけれども、お釈迦さまの言われるヴィパッサナーというのは幅広くて、単に静寂な境地になっただけでも一応はそう言えなくもないですけど本当にお釈迦さまの言われる意味でのヴィパッサナーというのはハイヤーセルフとしての意識の自覚が出てきて実際にハイヤーセルフが主体となって観察および意思の提示をし始めた頃になってようやくそう言うに相応しい気が致します。

よく、お勉強の世界の説明ではハイヤーセルフ(あるいはアートマン、真我)というものの「観察」という面が強調されていて、「満ちている意識がそこに時間を超えて存在している」、「過去現在未来変わらず普遍に空間に存在している」、みたいに解釈されていて、「満ちている意識」というのは基本的に(自我としての)普通の人間(ジーヴァ)の顕在意識(マインド、チッタ)では知覚できない、と伝統的に解釈されます。もっと具体的には、「人間の五感ではハイヤーセルフは知覚できない」、と解釈されています。

(続きます)