術が使えるようになると人は傲慢になりがち

2022-11-06
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

どうやら、魔術を現代にまで伝えてきている流派があって、昔のようにあからさまに人を呪ったりということはないにせよ、術というものが確かに存在していて、その流派においては、能力の方が悟りよりも重視されるようなのです。

一方、悟りを重視する流派があって、そこでは「理解」が重要、というお話がされています。

この、「理解」というお話と悟りとは必ずしも一致していなくて、ある程度の実践が実のところ必要なわけですけど、私が見たところ、魔術など術によって傲慢になった人たちを反面教師として「理解」及び「悟り」が重視される流派があるようなのです。

一方で、両方をしている流派もあって、それは流派にもよりますけど、この3種類があるようなのです。

・術を重視する流派
・理解を重視する流派
・両方を重視する流派

そして、術を重視する流派は、もちろん人によりますけど、傾向として、術が使えるようになるにつれて自分が優れていると考え始め、傲慢になってゆくように思います。そうは言いましても現代ですから過去に情報が少なかった頃と比べて多くの交流や情報に触れることでそこまで極端に傲慢になることは少ないように思いますが、根本的な理解が足りていないために、真理を間違って理解している場合もそれなりにあるように思えるのです。

例えば、神というものは先に書きましたようにサッチダナンダで「満ちている」わけですけど、満遍なく満ちているのであって、自分や周りの空間も含めて満遍なく満ちているということであって、そうなりますと「自分が神」という概念は正しいと言えば正しいのですけど、別に自分だけが神なのではなくて空間や周囲の無生物も含めて全てが神なわけで、自分は特別な存在かというと、神なのですから自分も含めて空間や無生物も含めて全ては特別なわけですけど、自分だけが違っているかというと、そうでもないわけです。ですけど、術を重視する流派はエゴ(自我)が残っていますから自分を特別視する傾向があるように思います。

また、本来、自分自身はあるがままで完璧だ、という理解も流派によって食い違っています。術を重視する流派は「変化」を重視します。儀式を受けることで「変化」をしないのならば、それは成長していないとみなされます。ですけど、本来、自分というものはサッチダナンダなのですから、変化のしようがないのです。

(続き)