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術は一時的な至福、自己実現は継続的な至福

2022-10-04 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

自己実現のために他力本願するという言い方もありますけど、基本的には、神様に委ねるという姿勢が必要なのです。
一方、術で自分のために自分で現実を変えるという考え方もありますが、この種の術という考え方には落とし穴があります。

ここに、神様に委ねるのか、自分が神と考えるのか、の違いがあります。

自分が神という一面もあるにはありますけど、基本的には神様と自分とは大きく違っていて、自分は神の一部というのはそうですけど、かと言って、自分が神だと考えるということは、正しくもあり、間違ってもいるわけです。

神というものはヴェーダンタで言えば個としてのアートマンあるいは全体としてのブラフマンに相当して、それはサッチダナンダであり、それはサット、チット、アーナンダのことで、過去現在未来の永劫に存在しているという意味のサット、意識という意味のチット、満ちているという意味のアーナンダ(よく「至福」とも訳されるが元の意味はこれ)という属性を持っていて、どれもお互いに似たような面裏の質であって3つが複合しているわけですけど、いわゆる神の質というのはこの3つなわけです。

ですから、実は「自分」というものは存在しない、という理解に根ざしているのですけど、流派によっては、自分という概念を備えたまま「自分は神だ」という理解が先に出てしまい、せっかくスピリチュアルが成長しても、それに伴ってエゴ(自我)も拡大して傲慢になってしまうのです。

どうも、この世界にはいくつかのスピリチュアルの源流があって、その1つは魔術なのですけど、古来はソロモンやバビロニアですとかゾロアスターあるいはユダヤのラビなどに繋がっていると思います。その方々はある種のスピリチュアルな術を使う人がいて、その源流を遡るとおそらくアトランティスにまで辿れると思いますが、その特徴として、エゴ(自我)が残ったままスピリチュアルの波動を扱う、という傾向があるように思うのです。

魔術などの系統では、神あるいは天使は使役するものであり、術を使って神あるいは天使の力を引き出すのです。そこには「自分」というものが存在していて、多かれ少なかれ「自分は神(あるいはその顕現)」または、神に近づいている、とさえ思っていたりします。術は使うことができて、願望実現ですとか、ヒーリングとかが可能だったりします。

特に理解が難しいと思われるのがヒーリングの術を使う人たちで、本人たちがどのくらい気がついているのかわかりませんけど、ヒーリングというものはある程度は技術的なもので、必ずしも悟りとは直結していないのです。肉体の整体の施術をするのと同様に気の次元(ヨーガで言うプラーナ、アストラル次元)にて施術を行うことができたとして、整体師が悟っているかというと必ずしもそうではないように、ヒーリングができたからと言って、悟っているわけではないのです。


■術が使えるようになると人は傲慢になりがち

魔術を現代にまで伝えてきている流派があって、昔のようにあからさまに人を呪ったりということはないにせよ、術というものが確かに存在していて、その流派においては、能力の方が悟りよりも重視されるようなのです。

一方、悟りを重視する流派があって、そこでは「理解」が重要、というお話がされています。

この、「理解」というお話と悟りとは必ずしも一致していなくて、ある程度の実践が実のところ必要なわけですけど、私が見たところ、魔術など術によって傲慢になった人たちを反面教師として「理解」及び「悟り」が重視される流派があるようなのです。

一方で、両方をしている流派もあって、それは流派にもよりますけど、この3種類があるようなのです。

・術を重視する流派
・理解を重視する流派
・両方を重視する流派

そして、術を重視する流派は、もちろん人によりますけど、傾向として、術が使えるようになるにつれて自分が優れていると考え始め、傲慢になってゆくように思います。そうは言いましても現代ですから過去に情報が少なかった頃と比べて多くの交流や情報に触れることでそこまで極端に傲慢になることは少ないように思いますが、根本的な理解が足りていないために、真理を間違って理解している場合もそれなりにあるように思えるのです。

例えば、神というものは先に書きましたようにサッチダナンダで「満ちている」わけですけど、満遍なく満ちているのであって、自分や周りの空間も含めて満遍なく満ちているということであって、そうなりますと「自分が神」という概念は正しいと言えば正しいのですけど、別に自分だけが神なのではなくて空間や周囲の無生物も含めて全てが神なわけで、自分は特別な存在かというと、神なのですから自分も含めて空間や無生物も含めて全ては特別なわけですけど、自分だけが違っているかというと、そうでもないわけです。ですけど、術を重視する流派はエゴ(自我)が残っていますから自分を特別視する傾向があるように思います。

また、本来、自分自身はあるがままで完璧だ、という理解も流派によって食い違っています。術を重視する流派は「変化」を重視します。儀式を受けることで「変化」をしないのならば、それは成長していないとみなされます。ですけど、本来、自分というものはサッチダナンダなのですから、変化のしようがないのです。


■自己実現して悟りを得なくても術は使えてしまう

自分が自我(エゴ)だと思っている状態、それはヴェーダンタではジーヴァと表現されますけど、ジーヴァとして生きている間はこのことは理解されません。自我(エゴ)があるのですから、そこには変化があって、儀式など受けることによって変化します。成長している、と思うこともあるかもしれません。ですけど、それは自己実現をしてジーヴァとしての生活が終わるまでのことで、ジーヴァから本来のアートマンあるいはブラフマンとしてのサッチダナンダが本来の自分、いわゆる真我であることを自覚したのならば、表面上のオーラや眠っているカルマの状態は変化するとしても、本来の自分である真我は何も変化しない、ということに気がつくのです。

この、真我(アートマン)を見出すこと、あるいは自己実現と表現することもありますけど、そこに至らない場合でも、術はそれなりに使えるのです。そして、そうして使った術は結果を伴って、その結果というのは主にアストラル界の領域(思いの世界)で作用しますから、その領域の問題の解決にはとても役立つのです。

例えば、オーラの中に深く眠っていて取りにくいカルマの種を破壊したり、トラウマを細かく砕いて消滅させたりします。カルマの種はアストラル界のもう1つ上のコーザル界(カーラナ)と言われていますけど、私の見たところ、アストラル界とコーザルとは割と繋がっているように思えます。著名な先生もコーザルまでが「物質」の世界だと言われていたりしますし、確かに、感覚としてもそれは一致します。

そのように、アストラルの領域が主となり一部はコーザルにまで渡って作用を及ぼすような術はそれはそれで有益になる時があって、技術としてそのようなことができる人に委ねることも時には有用かもしれません。ですけど、かと言って、そのような人が悟っているとは限らないのです。

このように、有益な場合もあるのですけど、他人のセッションを受けるのは危険な場合もあります。と言いますのも、誰かにセッションをしてもらうときは自分のオーラが無防備になって、施術師が意識している場合もあれば無意識におこなっている場合もありますけど、施術によってオーラの操作やカルマの操作もされてしまう時がありますから、施術には気をつけた方が良いのです。

特に、術が長けてきて自分が神かのように思い違いをしている人は、初見では見抜くことは難しいかもしれなくて、最初は強いオーラがあって優れた人かのように見えつつも、実はエゴが強かったりします。


■術は一時的な至福、自己実現は継続的な至福

魔術など技術を使って術を使えるようになると、往々にして、神や天使を使役するという考え、あるいは、自分が神だという教えあるいは考えに至り、傲慢になってしまうわけです。神に委ねるということを忘れてしまっているか、あるいは、違って捉えてしまっているわけです。

おそらく、ですけど、アトランティスもそのような人が多かったのではないか、という気がしておりますが、さすがに昔のことですのでなかなか確証は持てないのですけど、そのように考えるのが合理的な気がしております。

現代においても魔術師はいますけど、中にはアトランティスと同じ轍を踏んでいる方もいらっしゃるように思えて残念です。

実のところ、この地上の術というのは主にアストラル領域(思いの世界)に作用するということは、それ以上の能力というものも存在するわけですけど、コーザル(カーラナ)あるいは(ヨーガでいうところの)プルシャ(あるいはアートマン)の領域にまで到達して行使する術というものはそれほどないように思います。

コーザルはまだアストラルと地続きですけど、プルシャになりますと次元を異にしておりますから能力的にもかなりの違いがあるのですけど、呪文や呪術は思いの世界のアストラルですし、幾何学という「形」に根ざしたものはコーザルまでですので、プルシャになると物質ではないですからそのようなものの影響が及ばない世界ではあるのですけど、そうなると、いわゆる「術」は効果が及ばないわけです。

そのプルシャ(あるいはアートマン)の世界がいわゆる神様の領域(の入り口)なわけですけど、そこにいわゆる「術」はもはや存在しないわけです。

では、そのプルシャ(アートマン)の領域は何かというと、先に書いたサッチダナンダの領域で、それは永遠に存在して満ちている意識なわけです。生まれたこともなく無くなることもない満ちた意識は、ざっくばらんに言えば「感謝」と「愛」の世界なわけで、その世界に到達したら、「術」など興味を失います。

「術」を使って「現実を変える」だとか、願望を実現するだとか、そのようなことは自己実現の悟りに比べたら小さいものであり、たとえそれで人助けをしたり、時にはヒーリングもこの世界を生きる上では大切になることもあるでしょうけど、そのような一時的なものはそれなりに一時的な助けにはなりますけど、永遠であるアートマンの満ちた愛と感謝と意識に比べたら、とても小さいものなのです。

アートマンに至れば悩みもなくなり、意識が満ちた状態になります。最初はそれは時折現れたり少し垣間見るくらいですけど、やがて、それが普通になってきます。次第に自己実現の悟りが確固なものとなり、常に至福の状態になります。

その永続的な至福と比べたら、一時的な術はそれはそれで一時的に役立つにせよ、とても比べるものではないわけです。



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