胸と喉のエネルギーが太くなり、空性も顕現も同じという理解を得る

2022-07-30 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

最近、瞑想した後のサマーディの観察状態(ヴィパッサナー)が長く続きやすくなって、意識が落ちにくくなりました。エネルギーが活性化された状態が保ちやすくなっているように思います。今まででかなり調子の良い状態が続きやすくなっています。状態それ自体は今までも瞑想後にこんな感じの意識状態になりましたが、安定度が違います。

胸のあたりと喉の辺りのエネルギーのルートが広がってエネルギーが通りやすくなったように思います。

このことにより、格段何かが凄く変わったかというとそう言うわけでもないのですけど、階梯として、一つ、小さな階段を登ったように思います。

観察状態から落ちにくくなったと言うことは、具体的には、食べたり歩いたり見聞きしている時にサマーディ状態が保ちやすくなった、と言うことです。今までもぼちぼち保ててはいましたけど、安定度と覚醒度が違うわけです。これは程度問題ですので比較すると覚醒度が上がった、と言うことです。

ゾクチェンによるとサマーディ(三昧)の段階は「観察すると雑念が消失するチェルドル」、「生じると同時に解放するシャルドル」、「自然にみずからを解放するランドル」という3つがあって、少し前まで自分はランドルに一応は入っていたように思いますけど、まだ弱かったように思います。

これは、同書によればサマーディの階梯の3つとなっていますけど、私の今の感覚で言いますと、それぞれ重なっているように思います。

最初、チェルドル1 シャルドル0 ランドル0 から始まって、
次は、チェルドル2 シャルドル1 ランドル0
次は、チェルドル3 シャルドル2 ランドル1 → 少し前までランドルに少し入った程度
次は、チェルドル3 シャルドル3 ランドル2 → 私は今このくらい?
次は、チェルドル3 シャルドル3 ランドル3

と言うように、下の方から少しづつ強まってゆくようにも思うのです。

今の感覚はランドルが完璧な気は致しませんけどぼちぼち強まってきています。とは言いましても、この辺りは上限というのは本当はない気も致します。ある程度になったら、もう測れないような気も致しますし。

このヴィジョンが成長していくようすは、森に火が広がっていくようだと言われる。主体の感覚は自然に静まっていき、修行者は原初的な知恵を経験する。対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識するのである。空性と顕現の統一の境地、そしてその境地そのものと空性が、ともに存在しているということが、すべて同時に経験される。だから全ては「一味である」、すなわち主体と対象はいずれも空である、ということになる。「虹と水晶(ナムカイ ノルブ 著)」

この文章、以前から何度も読んでいましたけど、今わかることは、そんなに小難しく考える必要はない、ということです。確かに、言葉を使ってそのように表現することもできましょうが、物事はもっと簡単なのです。


空性も顕現も同じ、というのは霊的な目においては自明のこと

言うなれば、「何もない空間も神の意識で満ちていて、物も同じく神で満ちている」ということを別の言葉で表現すると上記のように言うこともできる、という、そのくらいのお話なわけです。

「主体の感覚は自然に静まっていき」というのは、物理的な感覚のことを話しているように見えますけど、物理的な感覚はそのままありますので、これはそう言うよりも「物理的な目に加えて、霊的な目あるいは感覚で対象を見ることができるようになり、物理的な目で捉えていた主体という感覚が絶対的なものではなくなり、霊的な目あるいは感覚と合わせて複眼的な視点になる」ということです。「修行者は原初的な知恵を経験する」という言葉は、この霊的な目あるいは感覚で見ることを言っています。霊的な目で見ることでありのままを見ることができて結果として知識を得ることができる、ということです。

「対象が生じると同時に、それがみずからの空性の境地と同じく、空であることを認識する」と書いてあるのは、肉体の目での知覚が生じるのと同時に霊的な目あるいは感覚でその対象を見ることによって、何もない空間にも物体にも同じく満ちている神の質、それは空性ということもできるでしょうが、その神の質あるいは空性と呼べるものを見ることができるわけです。

それを言い換えれば「空性と顕現の統一の境地」ということもできますでしょうし、「その境地そのものと空性が、ともに存在している」ということも自明なわけです。と言いますのは、「その境地」というのは霊的な目で見る境地ですし、それで見えるのは空性であれば共に存在しているというのは自明なわけです。であれば「すべて同時に経験される」というのも自明で、「全ては一味である」というのは、どちらも霊的な目で見れば神の質であって空性というのであればそれはそういうこともできるでしょうから、もちろん一味なわけです。

理屈として最後に「すなわち主体と対象はいずれも空、ということになる。」と、最後に結論付けていますけど、理屈として説明するのならば最後に来て結論でしょうけど、体験の側からするとそれは「最初」の認識であって、霊的な目あるいは感覚で見ると「主体と対象はいずれも神の質で、空ということもできるでしょう」ということであれば、これは結果というよりは、霊的な目で見た時にわかることであって、理屈の先に来るものです。

実践の前に理屈を勉強するにはこうして結論として説明するのも良いでしょうが、経験の観点からすると、これらは直接的に認知・経験されるものですので、そもそも「結論」として説明する必要もなくて、むしろ自明の認知のお話であるわけです。