十牛図の返本還源で本当のワンネスに至る

2022-08-12
トピック:スピリチュアル: 十牛図

人牛倶忘に至って無あるいはワンネスの静寂の境地に達した後、現世に帰ってきて活動するのが返本還源と言われています。それはそうだと思うのですが、これは、もっと単純なお話のように思えてきました。

第8図 人牛倶忘 → (部分的な)ワンネス、静寂(あるいは無と言ってもよい)
第9図 返本還源 → (ほぼ完全な)ワンネス

という、単純なお話なのです。そして、この段階は別々のレベルにあります。

十牛図の解説を読むと人牛倶忘が悟りの到達点かのように書かれてあったりもして、返本還源は悟った後の帰り道あるいは悟った後の生き方、みたいな解釈を見かけます。その場合、返本還源は後日談あるいは余談としての意味しか持たないのですが、それまでの階梯にそれぞれ深い意味があったのに最後の最後で、最後の段階で後日談の階梯を載せるでしょうか。そうは思えないのです。

今の私の解釈からすると、人牛倶忘と返本還源の間はかなり段階として異なるのです。もしかしたら元々書いた人はそのつもりで書いたのかもしれませんが、私には違って解釈できますし、それが合理的に思えますし、私の感覚とも一致します。

この2つの改訂の間で、主体も変化します。

人牛倶忘までは主体が「私」にあります。一応はワンネスを認識できていますけど、「私」が「ワンネス」と対峙している、という関係にあるわけです。

返本還源では、主体が「全体(ワンネス)」になります。自分も一応はいますけど、部分としての自分になります。ここに来てようやく本来のワンネスが実現できるわけです。

「本に返り、源に還る」とは、(中略)絶対無の一円相をさらに乗り越え、元の差別の現実世界に立ち帰った境地である。(中略)病気がなおったら、元の現実の社会に立ち戻って精一杯働くべきである。「参禅入門(大森 曹玄 著)」

いくつかの解説はほぼこの線で揃っていて、この1つ前の人牛倶忘が悟りとしていて、返本還源は帰り道だとしています。ですけど、それは当たらずとも遠からずで、完全には間違ってはいないのですが、ポイントを外していると思うのです。そのような解釈が通説になっているということは、これを最初に書いた人は最後まで到達した一方で、その後、今まで禅の覚者の多くが達した悟りは人牛倶忘だったということかもしれません(失礼のように感じたら申し訳ありません)。

もともとこの最後の2つはなくて誰かが追加した、ということを聞いたこともありますので、そうであれば、その追加した人が現れる前は人牛倶忘が悟りだとされていて、追加した人が最後まで達したものの、その後は最後まで達成した人が少なかった、と言うことのようにも思われます。(個人的な解釈です)

実際は、返本還源はその文字の意味そのままで、まさに文字の意味ストレートであって、ごちゃごちゃ解釈すら不要で、「本に返り、源に還る」、という意味、そのままなのです。ワンネスの源に還る、という、それだけのシンプルなお話です。

一つ前の人牛倶忘でも一応はワンネスでしたけどまだ垣間見た段階で、返本還源において本当にワンネスになります。

(続きます)

(図は「参禅入門(大森 曹玄 著)」より引用)