自然に奉仕の気持ちが湧き上がってくる

2022-08-03
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

教義の教えや修行などのために奉仕をしましょう、みたいなお話をよく聞きますけど、教義によって奉仕をするのであればそれはまだ成長の過程であり、まだまだ成長する余地が多分に残されているわけです。

自分のことなど気にならなくなって自然に奉仕の気持ちが湧き出てくるようになるのであって、教義だとか躾だとか習慣だとか礼儀だとか縁だとか色々いう必要すらないわけです。

これは何でもかんでも奉仕すればいいということではなくて、基本のお話なわけです。

この世知辛い世の中にあたっては誰それ構わず奉仕をして何かを与えてしまいますとカモになったり根こそぎ奪われるみたいなことになりますからそこは加減や選択が必要なわけですが、基本は自然に湧き上がる奉仕の気持ちが先にあるのであって、「奉仕をしましょう」みたいに言われる事柄でもないわけです。

ですから、奉仕活動を提案されたとして、手に余るようであれば断っても良いわけです。この世の中、援助ばかりしていてもキリがないですし、自分の生活基盤が疎かになってしまうと元も子もありません。

これは、奉仕活動を否定しているわけでもなくて、習慣や共同作業を否定しているわけでもなくて、自分では必要性を感じていなかったとしても誰かが提起して共同作業を行うということも社会においては必要で、そういうこともあるかと思います。

ここで言っているのは部落の仕事としての共同活動ではなくて人権活動や食糧援助などの奉仕活動のお話ですが、そのように、同意して行う奉仕などの活動と、自然と湧き上がってくる奉仕の気持ちとはお話は別なのです。

それほど同意していなくても誰かに言われて奉仕活動をすることもあるでしょうが、気持ちや祈りの部分を抜きにしてその行為だけを見たときには行為自体にそこまでの超越的な深淵な意味はない・・・ と言ってしまうと語弊がありますけど、それはもちろん誰かの助けにはなっているには違いないでしょうし、必要な活動なわけですけど、それは日常生活の延長線上のことであって、割と普通のことなわけです。

これは、意味とか超越的な深淵さを求める必要すらなくて、ただ必要だから行動する、というそれだけなわけです。それに加えて、祈りがある人は行動していても行動していなくても祈りや奉仕の気持ちがあるでしょうし、奉仕の気持ちと共に行動していようが行動していまいが、奉仕の気持ちと祈りには違いがないのです。

人助けをしているのに普通のことだとは何ということか、と思われる方もいらっしゃるかもしれませんけど、それは大抵の場合、問題解決になっていなくて、延々と続く日常作業になってしまっているわけです。そのような、延々と続く終わりがない奉仕活動と、祈りの気持ちだとか奉仕の気持ち、というのは割と別で、切り離して考えるべきなわけです。

(続きます)