一般社会生活での苦しみに意味があるのかどうか

2022-08-01
トピックスピリチュアル

真理を求めている人にとって、(個人的な観点からすると)学びが真理や悟りと結びつくのであれば意味があります。

ただ、集合意識の観点からすると、たとえ本人が真理を意識していなくても、本人が世俗の生活を送っていて真理を求めていなくても、それでも、全ては集合意識の学びとして蓄積され、長期的にはスピリチュアルな成長の糧になります。

集団として、グループとして真実を見出そうとしている大きな集合意識とも言える意識、それは大きな人格でもありますけど、その集合意識としての人格、意識、のようなものが、色々と人生を「試して」、何がより良い人生か、見出そうとしているという現状があります。その「実験」とも言えるこの世の中の社会において、とある人は苦労をして、とある人は成功をして、とある人は楽をしていたりしますけど、全ては実験なわけです。ですから、何一人として無駄なことはなくて、全ては集合意識の「学び」として蓄積されます。

この世界にスピリチュアルな成長をしていない存在など存在していなくて、全ての存在、鉱物の意識にせよ植物の意識にせよ動物の意識にせよ、唯物的な人間の意識にせよ、全ての意識はすべからず成長をしています。ただ人間だけが知恵を使って急速なスピリチュアルな成長ができるという違いはあれど、たとえ唯物的な人間であったとしても、少しづつ成長しているわけです。

この世に無駄なものはないとスピリチュアルでは言われますけど、まさにそうなわけです。

それは個人的な観点からは計り知ることができなくて、個人的に見てしまうと唯物的な人間や我欲だけで生きている人間はスピリチュアルな成長を全くしていないのではないかと思えてしまうかもしれませんけど、それは「ゆっくりと」成長しているということなのです。

動物は人間のように知恵を使って早いスピリチュアルな成長というものができませんけど、人間は本人が望みさえすれば素早く迅速にスピリチュアルな成長をすることができます。

本人がせっかく人間に生まれたのに唯物論的な生活を送っているとすれば、その素晴らしい成長のチャンスをみすみす逃しているということになって、それは勿体無いことではありますけど、それでも、少しづつ成長しているのです。そして、その成長を認識できるのは集合意識としての意識だけになります。もちろん本人も少しづつ学ぶこともあるでしょうけど、全体として、たとえ個人的に完全なる失敗だったと思えたとしても全体としてそれは学びであったとはっきりと思えるのは集合意識の視点になるわけです。

(続きます)