一般社会生活での苦しみに意味があるのかどうか

2022-07-24 記載
トピックスピリチュアル

真理を求めている人にとって、(個人的な観点からすると)学びが真理や悟りと結びつくのであれば意味があります。

ただ、集合意識の観点からすると、たとえ本人が真理を意識していなくても、本人が世俗の生活を送っていて真理を求めていなくても、それでも、全ては集合意識の学びとして蓄積され、長期的にはスピリチュアルな成長の糧になります。

集団として、グループとして真実を見出そうとしている大きな集合意識とも言える意識、それは大きな人格でもありますけど、その集合意識としての人格、意識、のようなものが、色々と人生を「試して」、何がより良い人生か、見出そうとしているという現状があります。その「実験」とも言えるこの世の中の社会において、とある人は苦労をして、とある人は成功をして、とある人は楽をしていたりしますけど、全ては実験なわけです。ですから、何一人として無駄なことはなくて、全ては集合意識の「学び」として蓄積されます。

この世界にスピリチュアルな成長をしていない存在など存在していなくて、全ての存在、鉱物の意識にせよ植物の意識にせよ動物の意識にせよ、唯物的な人間の意識にせよ、全ての意識はすべからず成長をしています。ただ人間だけが知恵を使って急速なスピリチュアルな成長ができるという違いはあれど、たとえ唯物的な人間であったとしても、少しづつ成長しているわけです。

この世に無駄なものはないとスピリチュアルでは言われますけど、まさにそうなわけです。

それは個人的な観点からは計り知ることができなくて、個人的に見てしまうと唯物的な人間や我欲だけで生きている人間はスピリチュアルな成長を全くしていないのではないかと思えてしまうかもしれませんけど、それは「ゆっくりと」成長しているということなのです。

動物は人間のように知恵を使って早いスピリチュアルな成長というものができませんけど、人間は本人が望みさえすれば素早く迅速にスピリチュアルな成長をすることができます。

本人がせっかく人間に生まれたのに唯物論的な生活を送っているとすれば、その素晴らしい成長のチャンスをみすみす逃しているということになって、それは勿体無いことではありますけど、それでも、少しづつ成長しているのです。そして、その成長を認識できるのは集合意識としての意識だけになります。もちろん本人も少しづつ学ぶこともあるでしょうけど、全体として、たとえ個人的に完全なる失敗だったと思えたとしても全体としてそれは学びであったとはっきりと思えるのは集合意識の視点になるわけです。


一般社会生活の全てにいちいち「意味」を見出す必要はない

究極的に言ってしまえばこの世は幻想あるいは夢なのですから幻想でしかないこの世の一般の現実と究極的な真実の「間」に「意味」を求めても意味はなくて、大切なのは真理や真実を見出すことだけです。その間に意味は実際のところあるにはありますけど、人間の理解を超えていますから、そこを考えても時間の浪費になってしまいます。現実は夢や幻であるとすれば、幻想は幻想でしかなくて、夢は所詮は夢でしかありませんので、できることは夢から覚めて真実を見出すことだけなわけです。

夢から覚めればいいだけのお話なのに、夢の中の意味に囚われて堂々巡りをしてしまっているわけです。夢から覚めるということがスピリチュアルに目覚めて素早い成長をするということでもありますけど、そのように直接的に真理を見出して素早く成長できるのは人間の、しかもスピリチュアルの成長を意識して行なっている人だけで、そうでなくて唯物的に生きているのであれば、このようなことを言っても全く通じないし意味や意図を読み取ることもできないわけです。

真実という観点からすると大切なのは真実を見出すことだけでありますので一般の社会生活にそこまでの意味がないと言えばそうなわけです。真実や悟り、真理を求めている人にとっては、究極的に言えば一般社会にさほどの意味がないというのはそれはそうなわけです。ですけど、今生きている環境があって、少なくとも衣食住が揃っていなければ満足に生きることもできませんし、生活の基盤がある程度なければ真理を求めることもなかなかできないわけですので、理想を言えば大切なものは真理だけだと言いつつも、一般生活をおろそかにすることもできないわけです。

であれば、どちらにせよ一般社会を生きる必要があるのであれば、それを悟りのための手段にしてしまえば良いわけです。仕事に集中してゾーンに入って歓喜に至ることができれば、それは悟りのための良い基礎になります。その基礎は、基礎としてそれ自体には意味がありますけど、それは「真理・真実・悟り」とは究極的には直接的に関係がありませんけど、それでも、悟りの基礎にはなるわけです。

社会生活に意味はないといえばそういうこともできますけど、それでも、社会生活を送らなくてはいけないのですから、それをうまく使えば良いと思うのです。

現実は夢でしかないというのはそれはそうで、現実というものは固定で変わらないもののように一見すると見えるかもしれませんけど、長期的に見れば現実に現れてくるものは脈略もないことが多くて、まさに夢のように不意に現実が現れてきますので、夢ほど自由自在ではないというだけで、現実というのは本質的には夢と同じように移ろうもので不安定のものなわけです。

そのような、ある意味幻想である現実の一般社会生活と真理・真実の間に関連付けをしようとしたりしても直接的には無理なわけです。

結局は幻想でしかないのですから、できることと言えば、真実をただ見出すだけです。幻想と真実の間の関係性はあるにはあるのですけどないようなものですので、人間からしてみたら関係性がないと言っても良くて、そのように、原因と結果の関係がそもそもないのに理由を求めようとしてもその「関係性」に答えは出ません。人間の認知を超えた存在になれば自ずとわかるものですので、今はそこまで深くそこを認識する必要はないわけです。

人間からすると、大切なのは真実を見出すことだけなわけです。

そして、ある意味、相対的な現実であるこの一般社会は、幻想とは言っても現実に一応は存在しているように見えますので、そうであれば、「道具」として、真実を見出すための手段としてうまく使えば良いわけです。具体的には、仕事に熟練してゾーンの歓喜に入れるようになればそれは悟りのための良い基礎になるわけです。

うつろう現実であったとしても、ゾーンによって、ある程度の「真実」を見出せるようになります。それはまだ物理的な真実ではありますけど、それでも、真理を見出す良い基礎になるわけです。