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知るものと知られるものと知の区別のない状態

2022-05-04
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガ・スートラの1章41番でサマーディ(三昧)がそのように説明されています。

透明な水晶がかたららに置かれる物の色や形を取るように、(中略)心は燈明・静然となって、知る者と知られるものと知の区別のない状態に達する。この瞑想の極点が、サマーディ(三昧)である。「インテグラル・ヨーガ(スワミ・サッチダーナンダ著)」

そのヴリッティが無力になった(制御された)ヨーギーは、(さまざまの色の対象の前に置かれた)水晶のように、うける者、うけること(の道具)、および、うけられるもの、(「自己」、心、および外界の対象)が集中して同一になる。「ラージャ・ヨーガ(スワーミー・ヴィヴェーカーナンダ 著)」

この訳は英語あるいは日本語にしたときに多分に変化していて、言葉がかなり入れ替わっています。

ヴィリッティ(マインド質量の変質)を完全に統制した者に、認識したものとの同一化つまり類似の状態がやがて生じる。水晶がその中に映っているものの色を帯びるように、知る者、知識、知識の領域が一つになる。「魂の光(アリス・ベイリー 著)」

このスートラは、文字通り読んでしまうと「集中によって対象と心が一体になる」という解釈になりがちな気が致します。元々、瞑想においてサマーディに至る前の段階、集中(ダーラナ)あるいはディヤーナ(瞑想)の状態においてはこれら3つが分離されており、自分という瞑想の主体と、瞑想の対象と、瞑想の行為という3つが存在しているわけです。

そうして、サマーディになるとこれら3つが同一になるわけですけど、文字通り、対象が同一になるという局所的なお話ではないのです。ここは、文字通り読むと誤解されてしまう点かなと思います。

実際のサマーディの姿で言うと、要は観照なわけです。

ヴェーダンタでいうところのアートマン(真我)が全ての行動および更には世界までもを観察する状態になってしまえば、今まで自分と思っていたジーヴァとしての自我(アハンカーラ)による行動はアートマンによって観照され、また、ジーヴァが観察していた対象すらもアートマンによって観照され、また、そこで得られる知識すらもアートマンによって観照されるわけです。

実際は、ジーヴァとしての自我からするとそれら3つの区別は一応はまだ残っていて、しかし、アートマンとしての意識が表れて観照の状態になるとそれら3つが全て繋がったものとして理解されるわけです。その状態においては全ては1つであることを理解しますし、実際の認知においてそのように認識するようになりますから、そうなれば、知るもの(自我、アハンカーラ)と知られるもの(対象)と知識(チッタ、ブッディ)とが一体となって動いていることを認知して観照するようになりますので、実際のところ、訳が言っているように本当にそれらが一体になるというよりは、それよりも上位階層であるところのアートマンの意識が現れることでそれら3つの別々のものが根源では同一であることを理解あるいは認知あるいは観照すると言っても良い状態になるわけです。

ですから、ジーヴァが現れている自我(アハンカーラ)の次元はやがて消え去るわけで、自我としての自分(ジーヴァとしての自分)は本当の自分ではなかったことに気がつくことで自分だとか対象だとかの区別が消え去って一体のものであると認知し始めるわけです。

それは、文字通り読んでしまうと水晶のお話がそれら3つと関連しているかのように読めてしまうかもしれませんが、水晶のお話と3つのお話は前提条件とその条件下における認知を説明しているのであって、文字通り読んでしまうと水晶だからそのように3つが一体になる、というように読めてしまうかもしれませんけど、確かにそういうことではあると言えばあるのですけどその言い方はとても誤解があるかもしれなくて、水晶だから3つが一体になるのではなくて、水晶のような状態に自分がなればそれら3つの区別という幻影が消え去る、という方が正しいのです。

スートラの前半部分で、ヴィリッティが静まった場合に、というように前提条件をつけているのは文字通りそういうことで、心が静まることで心が水晶のように対象を純粋に映し出すようになって3つの区別がなくなる、そして、それがサマーディだ、と言っているわけです。そして、そのサマーディの時にはアートマンが観照する状態になるわけで、それはこのスートラでは言ってはいないわけですけど前後のスートラを読めば割とそれは自明であるわけです。

ですから、割と単純なお話ではあるのですけど、部分を切り出してしまうと変な誤解を招きかねないスートラではあるように思います。



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