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サマーディから見た視点がヴェーダンタの「理解」

2022-05-01
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヴェーダンタの人が言う「理解」と言う言葉はなかなか特殊な意味合いを持っていて、それは基本的には普通の意味で「正しく、完全に理解する」と言う意味を含むわけですけれども、どうやら、その意味が本筋ではないように私には思われます。

ヴェーダンタ的にはそのような解釈はしていなくて、あくまでも理解は理解でしかなくて、理解しさえすれば良い、みたいな説明を基本としていて、それは「行動ではないので、理解のこと」として説明されていますけど、そういう説明では全体像を表現できていないように思います。

普通に「理解」と言うと顕在意識の記憶や思考における反応や論理のことを意味することが多いと思いますが、ヴェーダンタが言う「理解」とは論理と解釈されることもありますけど、それよりは、「直視」に近いように私には思えるのです。ただ、ヴェーダンタの人は「直視」とは言わなくて「理解」と言うので、これまた混乱するわけです。

理解しさえすればこの地上の輪廻から解放されて自由になる、とヴェーダンタの人は言って、そのことをモクシャと言っていたりしますけど、そこで言っている「理解」とは普通の頭での理解ではないように私には思われます。

とは言いましても、ヴェーダンタの人は「正しく理解すれば、それだけで良い」みたいに言ったりしますので、これまた、表現として、とても混乱するわけです。

更には、ヴェーダンタ的にはヨーガなどで言うサマーディの状態を「行動」であるので「一時的なもの」であり、それはモクシャ(自由)ではない、としています。これまた、サマーディという言葉について混乱があるわけです。

ここで、ヴェーダンタの言葉を一旦置いておいて、私なりの解釈をします。

私の解釈では、サマーディから見た視点がヴェーダンタでいうところの「理解」なのです。

このような解釈はすっきりします。とても明確です。

これを、もう少しヴェーダンタ的に解釈してみましょう。ヴェーダンタではこの世(ジャガット)を、特に人間の視点においてジーヴァ(自我における自分)とイーシュワラあるいはアートマン(本当の自分、真我)に分けています。

この時、アートマン(真我)からジャガット(世界)を見ることが「理解」なわけです。

ジャガット(世界)はジーヴァ(自我としての自分)を含みますから、上記を自己のスピリチュアルな視点に絞れば、アートマン(真我)からジーヴァ(自我としての自分)を見ることが「理解」、とも言えるわけです。

・アートマン(真我)からジャガット(世界)を見ることが「理解」
・(自分、という視点に立つと)アートマン(真我)からジーヴァ(自我としての自分)を見ることが「理解」

更には、アートマン(真我)とは本来はブラフマン(全体としての真我)と同一であるとヴェーダンタでは説いていますから、その立場に立つと以下のようにも言えます。

・ブラフマンからジャガット(世界)を見ることが「理解」

これを、ヴェーダンタ的には理屈で理解していて、しかし、それがサマーディのことだとは言っていません。しかし、これは私の認識に基づけば、サマーディからの視点そのものなわけです。

サマーディというのは自我という自分の枠組みから抜けてアートマン(真我)としての視点を持つことですので、それは観照とも言えますし、あるいは「直視」ということもできます。それを一部の流派が「理解」と言い換えたところで、言われてみればそういう言い方もあるかもしれない、誤解があるかもしれないけれども、そういう言い方も一応はありかな、というくらいの違いでしかなくて、サマーディのことを「理解」というならば、それはそれで一応はありかなと思います。

確かに、言われてみれば、サマーディの状態は単に認知するだけですのでそれは一応は「理解」と言えなくもなくて、ですけどそれはより直接的な理解であって、理解というよりは「知識」そのものでありますので、理解というと論理や思考も含んでしまいがちですけど、ここで言っている理解とは自我としての思考は含んでいなくて、知識そのものしかないわけです。そのことを「理解」というのならば、それはそうかな、とも一応は思えるわけですけど、個人的には、とても誤解のありそうな表現だなぁ、と思うわけです。

ただし、このようなことをヴェーダンタの人に言ったところで言葉の違い、表現の違いがありますので、わざわざこのような解釈に対する同意を求めるというような野暮なことは基本的にはしません。雑談くらいはするかもしれませんけど。ただ単に、私の感覚だとこのように解釈できる、というだけのお話です。

それぞれの流派は独特の表現を持っていて、それは、それぞれの場合をよく見てみないと解釈できないという好例だと思います。そうは言いましてもスピリチュアルの道は割と共通ですから、表現はかなり違っていてユニークだとしても、基本のところを押さえていれば他の流派であっても理解できるわけです。



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