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流派によって多少解釈が異なるようにも見える不二一元論

2022-04-29
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

不二一元論それ自体は正しいのですけど、流派によって多少は説明が違うようで、特に、ジーヴァの側面をどう捉えるか、において流派による相違を感じることがあります。

そのあたり、インドの学派の説明よりは、チベットのゾクチェンの説明を基にした方がすっきり全てが説明がつくように思います。

と、言いますのも、ヴェーダンタの考えに基づくと、真実ではない私という側面であるジーヴァという世界はアートマンとしての自分という側面を知った(完全に理解した)という時点で消え去る、と説明されているからです。ここは重要なポイントです。

重要な点としては、ヴェーダンタの教えによれば、ジーヴァの世界はアートマンの自分を正しく理解した時点で消え去るのです。これは、体が消えるということではなくて、認知においてジーヴァの世界が消え去る、ということです。

一方、チベットのゾクチェンの教えに基づけば、いわゆるジーヴァとしての自分が二元論に生きていようがいまいが、本当の自分(心の本性であるセムニー)は変わらない、と言います。変わるのは、目覚めた意識(リクパ)があるかないか、という点だけだと言います。

これは、文字だけを読むと同じように聞こえるかもしれません。しかし、流派の教えに基づけば、かなりニュアンスが違うのです。

ヴェーダンタにしても、ゾクチェンにしても、絶対的な真実の側面は相対的な自分に影響されずにありのままであり続ける、と言います。その説明は同じです。ですけど、ヴェーダンタの方は相対的な自分を絶対的な自分に変容させるというニュアンスを含むのです。この辺り、ヴェーダンタの人は変容という言葉を使わなくて「理解」という言葉を使いますので、説明としては正しいのですけど、ニュアンスとして変容という意味を含むのです。言葉としては正しくても、おそらく、流派にいる人たちがその「理解」という意味と、「それは、変容ではない」という意味を正しく理解していないが故に、言葉で「変容ではない、理解だ」と言いつつも言葉の説明の各所に「変容」というニュアンスを含んでしまうように思うのです。

まあ、この辺りは主観的な印象ですので本当は説明に苦労しているだけで実際は全て理解しているのかもしれませんが、そうでないかもしれません。

私の見たところ、言葉としては同じことを言っているものの、流派のやり方、その伝統が、どこか違うように思うのです。

ゾクチェンやヴェーダンタの考え方に基づけば、絶対的な真実としての私は相対的な自分に影響されず、感情や思考があったとしても問題ないことになりますが、実際の姿として、どのような行動や思考が許容されるかは流派によって違いがあるように思うのです。

まあ、それは、修行の場としてはある程度は正しくて秩序ある生活をすることは修行に大切ですけど、伝統や口伝が優先して、本当のところが少し違って解釈されているようにも思えるのです。

とは言いましても、インドのヴェーダンタにしても流派が色々とあるようですので、場所によっても違うでしょうし、これだけのシンプルな話だけでもないとは思います。



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