インドのヴェーダンタは二元論を基にして一元論を説く

2022-04-28
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヴェーダンタは不二一元論(アドヴァイタ・ヴェーダーンタ)とも呼ばれていてシャンカラという聖者から続く教えであるわけですけど、ウパニシャッドの教えに基づいていてブラフマン(あるいはアートマン)のみがこの世に存在している、と説いています。

二元論の世界はヴェーダンタではジーヴァの世界と説明されていて、自他の区別があって、自我(エゴ、アハンカーラ)を自分だと思っているのがジーヴァの世界です。

それと重なるようにしてアートマン(真我)としての世界も説明されていて、ジーヴァとしての自分は本当の自分ではなくてアートマンこそが本当の自分で、そこには自他の区別はなくて、Sat Cht Ananda という3つの側面がある、と言います。

・Sat 存在
・Cit 意識
・Ananda 満ちている(よく至福と訳されますけど、満ちているから至福という意味)

この3つの側面があるアートマン(あるいはブラフマン)こそが本当の私、と教えているのがヴェーダンタの不二一元論で、そこでは、ジーヴァとしての私とアートマンとしての私という二つの側面があります。実際にはアートマンの私が本当であって、ジーヴァとしての私は本当ではない、としているわけです。

ジーヴァとしての私は相対的で、私と他人という区別があって、良い悪い、正義と悪という区別もあります。
一方、アートマンとしての私は絶対的で、私と他人という区別はなくて、良い悪いという区別はなくて、正義と悪という区別もありません。

アートマンとしての真実はジーヴァとしての活動や行動に影響されずに絶対的に存在しています。

Satは存在という意味で、時間軸に影響されずに過去・現在・未来に渡って常に存在しているという意味です。
Citは意識で、意識が満遍なくこの世界に満ちています。
Anandaは書籍では至福と訳されることが多いですけど本来の意味は満ちているという意味で、満ちているから幸福なわけです。

これらは一応は3つの側面として説明されてはいますけど、あくまでも説明のもので、実際の姿は本当に知ることでしか分からないわけです。ですけど、これら3つの説明は遠からず当たっているように思います。

アートマンとしての真実はなかなジーヴァとしての自分にとっては認知できないわけですけれども、アートマンこの世界に現れる時の側面の説明としては創造・破壊・維持という3つの側面がやかりやすくて、それぞれ神様が象徴としてあてがわれています。

・ブラフマ 創造
・ヴィシュヌ 維持
・シヴァ 破壊

アートマンとしての自分はジーヴァとしての自分としは不可知なのが基本ではあるのですけど、実際のところ、アートマンはアートマン単体としては存在していなくて常にグナ(物質的要素)が一緒にいて、アートマンとグナが合わさるとイーシュワラあるいはジャガット(世界)としてこの世界に現れるわけですけど、そのようにこの世界として現れる時に現れる3つの側面があるわけです。

瞑想中に、アートマンそれ自体はグナがないので認知できないですけどグナと合わさった時のこれら3つの側面、創造・維持・破壊であれば瞑想中に認知して、それこそがアートマンのこの世に現れた(グナと合わさった時の)イーシュワラとしての側面であることが理解できます。

それは最近のスピリチュアルではハイヤーセルフとも言われているものと同一で、ハートを中心としてイーシュワラあるいはアートマンあるいはハイヤーセルフを感じることができます。

インドの流派に伝えられることによると、このアートマンを知ることによりモクシャ(自由)を得て、カルマによる輪廻転生のサイクルから解放される、と言われています。