世の中の完璧さの認知と自身の悟りの特別感は反比例する

2022-02-14 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

世の中は完璧であるわけですけれども、その完璧さを実感する度合いと、自身の悟りの度合いに対する特別感とは反比例するように思います。

世の中が完璧だということがわかればわかるほど、自身の悟りの度合いに対する特別感は減ってゆきます。
世の中が完璧だということがわからないと、自身の悟りの度合いが特別かのように感じて(錯覚して)してしまいます。

まだクンダリーニが上がったばかりでまだマニプラ以下が優勢の場合は特に自身の悟りの度合いが特別な気がして、頭ではまだまだだ、と分かってはいることが多いとは思いますけど、感覚として特別とする知覚が湧き出てきてしまうものなのです。

一方、アナハタ以上になるとその特別感はかなり消え失せるのですが、それと同時に、世の中が完璧で、実は周囲の人の全てが実は悟っているのではないかという錯覚も出てくるのです。頭で考えれば実際にはそんなことはないことは明白なのですけど、自身にとっては、世の中は全員悟っている人かのような認識になるのです。頭よりもその認知の方が割と優勢になってしまって、頭ではそんな筈はないと分かっていつつも、感覚として、全員が悟っているかのように感じられてしまうのです。そうなればもはや自分など特別でも何でもない、ということが肌で理解できます。

ですから、アナハタ以上になってしまえばもはや特別感に気をつけて優越意識に浸らないように注意する必要はなくなってゆくわけですけれども、マニプラ以下の場合は、頭では気をつけようとしていたとしても気持ちや感情面で特別感というものがにじみ出てしまうものなのです。

その、自身の悟りに対する特別感というものはおそらく必ず通るもので、避けることはできず、各自が気をつけて相手を不愉快にさせないように気を配る方がいいと思います。特別感を感じているということはまだまだだということですから、特別感を突き抜けて、あたかも周囲の人全員が実は悟っているのではないかと感じるようにならなければまだまだだということです。

アナハタ以上になって周囲が悟っているように感じるようになるいうことと同時に、世の中が実は完璧だ、ということの実感も深まってゆきます。世の中が完璧だというのはスピリチュアルではよく言われていますけど、その実感としてはマニプラ以下の段階ではまだまだで、アナハタ以上になるとそれなりに実感できてくるのかなと思います。

アナハタ優勢くらいですとまだ認知に雲がかかっていて、単純に、世の中全ての人が悟っているかのような認知の膜、錯覚の雲のようなものが覆いかぶさることになります。

一方、静寂の境地に達すると錯覚はかなりの度合いで取り払われますから、世の中が完璧だという認知はそのままなのですが、その一方で、完璧は完璧でも、愚かな完璧と賢い完璧があるのだ、ということに気づくようになります。どちらも完璧で、やはりこの世界は完璧なわけですけど必ずしも全員が悟っているわけではない、ということにも、それはもちろん当然なのですけど、その当然のことに、認知の面から、感覚の面から直接的に認知できるようになります。

マニプラ優勢ですと自身のスピリチュアルな成長を見返した時に成功と失敗の成長物語として認知しますけど、アナハタ以上になりますと自身の昔の愚かな頃や成功および失敗も含めて全てが完璧だったと認知するようになります。自身のみならず他人の成功も失敗も含めて全てが完璧なわけですからそこに優越はなくて、賢い学びと愚かだとわかる学び、それぞれがあって、学びがないということすらもそれでは学びがないということを知る学びであって意味があることなのだとわかります。全ては完璧なわけです。であればその実感が深まるにつれ、特別感などは減ってゆくわけです。