禁欲は静寂の境地の基礎になる

2022-02-11 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

静寂の境地は愛や感謝の状態の基礎であるわけですけれども、その静寂の境地も、禁欲がその基礎になっています。現代では完全なる禁欲というのは難しいとしても、ある程度の禁欲が静寂の境地の助けになるわけです。

ここで言っているのは低次の禁欲のことでありますけど、静寂の境地になった後であれば、元々の禁欲はそのまま禁欲として易々と達成した上で、愛や感謝の気持ちを元にした一段階上がった高次元の欲とでも言える欲の段階に移行しますので、一見すると欲の生活をしているように見えても、一段階下の人にはその行動を理解できないようなこともあったりします。その行動様式は変わってはいるものの、一見すると欲の生活をしているように見えたりするわけです。

例えば、美味しいものを食べる、だとか、食事を楽しむ、だとか、そのようなことは禁欲的生活を目指している者、特に仏教徒の考えからすると避けるべきことと一応はなっていて、現実的にはそんな禁欲的生活を送っている人はそう多くはない感じではありますけど、それでも、少数の真面目にやっている人からすればそのように食事を楽しむとかいうことは禁欲的生活という観点からしたら良くないこととされていたりするわけです。

そのような禁欲的生活は「意識的に生きる」ことと関連付けられて理解されていることが多いように思います。実際のところ禁欲的生活と意識的に生きるということは理屈としては必ずしも結びついてはいないのですけど文化的、習慣的にその2つがセットになっていることが多いように思います。宿坊に泊まって禁欲的生活をして意識的に生きる、みたいなお話が特に禅寺などで言われているように見受けられます。

そのように、禁欲的生活は意識的に生きることがセットになっていることが割と多いのですが、それは、禁欲が静寂の境地の基礎になるからで、静寂の境地に至る前であれば禁欲がその達成の助けになるわけです。

静寂の境地に達した後に、静寂の境地が安定して、その次の段階である愛や感謝の状態に達した場合はもはや禁欲的生活というのは静寂の境地の中に深く組み込まれるようになりますので、特に意識せずとも禁欲的生活を送れるようになります。

低次の禁欲はそうして克服した上で、愛と感謝の生活の段階においては自然なる高次の欲が目覚めてきます。表面上は昔の欲の生活に少し戻ったかのように見えてしまうこともあるように思いますが、この段階では「高次の欲」と「意識的に生きる」ことが共存していて、自然に生きるようになります。

前段階のように禁欲がさほど語られなくなるのも特徴のように思います。それでも、更に次の段階へと進むにはこの段階すらも禁欲する必要があると言えなくもないですけど、それをわざわざ禁欲と言ったりすることはなくなって、愛と感謝はそれはそれとして受け入れた上で、それを超えた世界があることを認識するようになります。