ヨーガのパンチャコーシャ(5つの鞘)に基づくスピリチュアルの階梯

2022-02-06 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ヨーガやヴェーダンタおよび神智学などに基づくと、スピリチュアルの階梯がよく見えてくるように思います。

・肉体(ストゥーラ・シャリーラ)
 Annamanya Kosha 食物の鞘

・アストラル体(スークシュマ・シャリーラ)
 Pranamaya kosha プラーナのエネルギーの鞘、生命エネルギーの鞘
 Manomaya kosha 精神の鞘
 Vijnanamaya kosha 知性の鞘

・コーザル体(カーラナ・シャリーラ、原因体)
 Anandamaya kosha  至福の鞘

上から順番に活性化していくことになります。
これらの階梯を、一般的な解釈に加え、最近の私の解釈を付け加えると以下になるでしょうか。

1.Annamanya Kosha 肉体としての健康。タマス優勢

2.Pranamaya kosha 活力としての健康。ヨーガのプラーナヤーマで扱う。オージャス。ラジャス優勢。

3.Manomaya kosha 精神の安定。感情的な喜び。サットヴァ優勢。クンダリーニ(マニプラ以下)

4.Vijnanamaya kosha 知性の鞘
 ・(下位)知識、叡智、クンダリーニ(アナハタ以上)
 ・(上位)静寂、寂静、クンダリーニ(サハスララ)

5.Anandamaya kosha  至福の鞘。
 ・(下位)創造・破壊・維持の意識であるハイヤーセルフの流入の始まり。自我の激減。
 ・(上位)愛、感謝、慈愛、自他同一の感覚の始まり

このような階梯がしっくりくるように思えます。

これらはまだあくまでも「個」としての存在における分類と階梯であって、個としての階梯が終わったら次はもう一段階高次の個の段階(アートマンあるいはプルシャ)があって、その先は地域的な意識、という段階が更にあるように思います。ですけど、ひとまずこの世で生活・修行する上で課題になるのはこのくらいまでかなというように思います。

実のところ、これらの階梯は一般的にはこの順番になると思いますけど、必ずしもこの順番にはならない、とする意見もあるようです。愛が先に来て論理が後に来る場合だったり、肉体的な元気が不足していて後になる、みたいな場合も確かにあるように思います。それに、文化的にどちらを上位に置くのかという認知の違いがあることもあるように思います。


そのあたりをもう少し補足しますと(細かいお話なのでこの部分は読み飛ばして頂いて構わないのですが)、このあたり、流派によって階梯が微妙に異なっていて、神智学ではブッディが至福と愛であるAnanadamaya Koshaに相当しており階梯の一つの段階になっているわけですけれども、ヨーガ系でのブッディはそもそも意味が異なっており、ブッディはマナス(心)の一部で、ブッディは階梯ではないわけです。ブッディという用語に関しては神智学でも似たような定義でいうこともあれば階梯として扱われていることもあり、ブッディという言葉を特別扱いしているように思えます。この辺り、西洋の論理的思考を重視して解釈する文化が現れているのように思います。元々ブッディはマナスの一部でありますから Manomaya kosha(精神の鞘)の一部というのが基本であって、それに加えて、Vijnanamaya kosha(知性の鞘)にも相当します。このヨーガ系の分類の方が一般的かと思いますので、神智学のように論理的思考を特別扱いしてブッディという階梯を用いるよりも、この5つの鞘の段階をそのままヨーガやヴェーダンタ的に適用して Anandamaya kosha として「至福」の階梯を位置付ける方がわかりやすいように思います。あくまでもブッディはヨーガやヴェーダンタで言われているようにマナス(心)の一部の機能という解釈が一般的でありますし、神智学的な意味合いはかなり違いますので、階梯としてのヒントは頂けたとしても、神智学的な意味合いでブッディという言葉を使わない方が混乱しないように思います。ただし、経験的および実践的には Anandamaya kosha の頃にはブッディが既に有効に働いておりますのでブッディを上位に位置付けたくなる気持ちもわからなくもありませんけど、やはり、それは西洋的価値観のように思います。そもそもパンチャコーシャ(5つの鞘)には Vijnanamaya kosha(知性の鞘)というものが元々あるわけで、ブッディのことを言うのであればこちらの方が適当に思います。ヨーガ的にはマナスの一部とみなすのが基本であるわけです。ただし、実のところヨーガやヴェーダンタでも流派によってブッディの位置付けは微妙に異なっているようで、マナスに含めるのが基本ではあれど、Vijnanamaya kosha(知性の鞘)をブッディとしている流派もあったりするようです。Anandamaya kosha の至福の愛とは違って情愛が優勢な段階は感情が優勢なアストラル体の各段階に対応付くわけですけれども、この情愛をAnandamaya kosha と勘違いしてしまったりすると階梯が違って見えてきて、実際は Vijnanamaya kosha(知性の鞘)の段階に相当するブッディを Anandamaya kosha だと勘違いしてしまうこともあるかもしれません。神智学が作られた時代背景を考えると情報が少なくて勘違いするのも致し方ないようにも思いますけど、各所にヒントがあるので時々参照しています。鵜呑みにしなければ神智学的な解釈も割と参考になるように思います。

そのように、流派によって多少のブレはあれど、基本的には一般的なヨーガのパンチャコーシャ(5つの鞘)に基づく方がわかりがいいと思われます