周囲と自分を混ぜれば混ぜるほど自分が消えてゆく

2020-05-20 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

セワ(混ぜる)によって周囲の空間と自分のむきだしの心(リクパ)を混ぜてゆくと、次第に自分がなくなってゆく感じがします。特に瞑想中というわけでなくても、普段の生活において自分がなくなってきて、以前に比べると30%減になった感じが致します。これは感覚的なもので、もっと前と比べたら50%減と言えるかもしれませんが、特にここ半年くらいで一気に30%くらい自分の存在がなくなって透明になってきた感じが致します。

おそらく完全にゼロになることはないのでしょうが、少なくとも自分というものが消えてゆく感じがします。

この感覚が今のところ自分の体くらいまでで周囲の物体はまだ存在しておりますが、それがどう変わるのかも今後、観察していきたいと思います。

これらを表現すれば「周囲と自分を混ぜる」という言い方になるのでしょうが、ここで誤解があって、もっと正確に表現すれば「自分の体も含めた、自分の体およびその周囲と、それを観察しているむきだしの心(リクパ)とを混ぜる」となるわけです。

比喩的に昔から「周囲と自分を混ぜることで自分がなくなります」なんてことがスピリチュアルやらニューエイジやらで言われているわけですけれど、そのまま文字通り捉えてしまうと「自分という体」と「周囲の物体や他人」とを混ぜようとしてしまうわけですが、そのように文字通り読んでしまうと間違った理解になってしまうわけです。

元々こういうことを言い出した人が言葉の表現にもっと気をつければ良かったのだと思いますが既に広まってしまったこのような、一見すると「わかりやすい」表現は実際はちょっと違うものなのだと思います。「自分という体と周囲の物体や他人」を混ぜようとしても混ざりませんし、せいぜい体を密着させて濃厚接触するくらいでしょうし、その本質であるところを理解するまでにはなかなか行きつかないような気が致します。

もう少し進んで「自分の心と周囲の物体や他人の体や心と混ぜる」というところに辿り着いたとしても、そこには自分の体すらも「外」であるという理解が抜けていますから、いつまで経っても何も起こらないし何も理解できず、逆に、他人のオーラに影響されやすくなって脆弱になってしまうかもしれません。

文字通り読むことでそのような誤解が生じてしまう危険性があるわけですけれども、スタート地点としてまず瞑想から入ってシネーの境地、テクチュの境地に達して、それからようやく自分も含めた周囲の空間とむきだしの心(リクパ)とをセワ(混ぜる)ことをすることで自分というものが消えてゆくのだと思います。

それ以前に周囲と混ぜるというようなことを試みても無駄どころか、害が多いような気が致します。