色界禅定と無色界禅定は一続きで意識の拡大に繋がる

2019-09-25 記載
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

そんな気がしてきました。先日書きましたようにテーラワーダ仏教では色界第四禅定で悟りでチベット仏教では無色界禅定を最後まで経験してから悟りになっているようですが、どこから悟るかというお話はひとまず置いておいて、少なくとも、色界禅定と無色界禅定とは一続きのような気がしてきました。

色界第四禅定については以前定義を引用しましたが、第四禅定で平安(捨)な心になります。
その状態は、平安ではあるものの、心がまだどこかにしがみ付いている状態だと思うわけです。

順番を追って第一禅定から辿りますと、第一禅定で集中力を使って心を対象に強力な意思でしがみ付くと言いますかくっつけて思考を沈めます。第二禅定になりますとそこまで力を入れなくても集中できるようになり、第三禅定、第四禅定と進むにつれて努力なしの集中状態が可能になりますが、それでも、まだ少しは何かにしがみ付いているのです。

「色界禅定」というのは「瞑想の対象に物質的な何かがあること」という定義がされているようですが、そうは言いましても瞑想は心の中で行うものですから、そのまま読むと「心で行う瞑想なのに物質的な何かがある、とは一体どういうこと?」と思ってしまいますが、ここは読み替えて、「何がしかの対象に集中してしがみ付いているのが色界禅定」と考えると良いと個人的には思っています。まあ、個人的な解釈ですので他所で言っても通じない気もしますので、仮説だと思っておいてもらっても良いと思います。

その仮説に基づきますと、色界では心が、例えば「息」「眉間」あるいは「マントラ」に集中することでしがみ付いているのです。

しかし、無色界になると、しがみ付くことなしに落ち着いて観察することができるようになるのです。この「観察」を同じく「集中」と呼ぶこともできるのかもしれませんが、そこに「しがみつき」はありませんので、まあ、集中と言えば集中状態なのかもしれませんが、しがみ付くことなしに対象を観察できるようになるのが無色界なのだと個人的には思います。

であれば、色界で最初は強烈な意思の力でしがみ付いて心を制御していたものを、色界第一禅定から色界第四禅定に至るにつれて段々としがみ付く力を弱めて、ついに無色界に到達してそのしがみ付く力が不要になる、とすれば、これは色界と無色界の禅定は一続きのものなのではないでしょうか。

比喩的に言えば、色界では「掴んでいた」ものを、無色界にいたることで「手放す(手放し)」が行われたのだ、と表現することもできると思います。

スピリチュアルな人が時々「手放しましょう」とか言っているのは、もしかしたらこの無色界の禅定の状態を表現しているのかもしれませんね。であれば、それなりに高度な状態を表現しているのであって、なかなかこの種の「手放し」はできないように思います。スピリチュアルな人の「手放し」が全てこれかどうかはわかりません。きっと違うと思います。

■無色界第一禅定、空無辺処定(くうむへんしょじょう)
最初の段階では、私の場合は自分が中心で「卵状の漆黒の空間」に囲まれているような気が致しました。

■無色界第二禅定、識無辺処定(しきむへんしょじょう)
この説明は、以下のようになっています。

先の(無色界第一禅定の)空無辺処定の虚空とは「物質がない」ということなのですが、その虚空でも、まだ心の外側に意識されているものです。「虚空の無辺を認識できたのだから、自分の意識も無辺になった。では今度は意識の無辺を認識してみよう。」と、空無辺処を超えて、今度は「識は無辺である」と認識するのです。対象ではない、でもまだ心の外側を認識した空無辺処定を今度は依りどころ(対象ではありません)にして、空無辺処定のお陰で無辺になった識を、無辺だと認識するのです。空無辺処定より一段高いこの禅定で、とうとう心は外の何ものにも依らない心になるのです。 「悟りの階梯(藤本 晃 著) 」

・・・何が書いてあるのか解読困難ですが、自分の瞑想体験と比べて意訳しますと、単純にこれは「意識の拡大」のことかな、と解釈致しました。

色界第四禅定から「手放し」をして無色界の最初の段階に至ることで「卵状の漆黒の空間」が自分の周囲に認識されたのですが、これは要は「境目がある状態」なのだと思います。無色界第二禅定の場合はこの「境目」がなくなるかあるいは「卵状の漆黒の空間」が拡大するのだと思います。

私の場合、以下の手順でこの状態に至りました。

1.息を頼りに色界禅定に入る
2.息にしがみ付いている心を「手放し」をすることで無色界第一禅定「空無辺処定」相当であると思われる「卵状の漆黒の空間」を認識する。
3.「卵状の漆黒の空間」より外を認識しようと意思を働かせる。まずは一方向から始め、少しづつ意識を拡大してゆく。例えば左方向から初めて部屋の壁まで至ることで意識を拡大し、右の意識を拡大して部屋の壁に至り、上、前方、後方、とそれぞれ繰り返すことで部屋の大きさまで意識を拡大しました。方向によっては部屋の外まで伸びましたが、今のところ私はこのくらいが限界のようです。

「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」によりますと無色界禅定の定義が若干異なっています。こちらに基づきますと、いわゆる「意識の拡大」まで済ませた状態が無色界第一禅定の「空無辺処定」であるように読めます。

第四の禅定に到達しおわってから、修行者は「すべての構成要素(ダルマ、諸法)は限りのない空間に似ている」という観念を発展させ、触覚・視覚・物質的な構成要素を微細なものにいたるまで完全に離れる。修行者はこのことに心を専注し、それを発展させなければならない。それの発展のうえに、かれは無限の空(くう)の領域の禅定(空無辺処定、くうむへんしょじょう)を完成する。これを完成してから、修行者は「意識は限りのない空間に似ている」という観念を発展させなければならない。 「ダライ・ラマ智慧の眼をひらく」

この表現は、まさに「意識の拡大」ではないでしょうか? 段階ごとの定義が微妙に異なるとは言え、「意識の拡大」が遠からず無色界禅定の最初の段階に関連しているような気が致します。



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