これはよくある誤解です。
例えば「善と悪のバランスを取ること」「他者とのバランスを取ること」などなど、バランスで二元性の克服ができると思い違いをしているのです。こういうとまた誤解する人がいて、「そうか。片方だけで良いのか」と思い違いをしてしまう人もおられるかもしれません。これまた極端な解釈です。
二元性の克服とは、二元性に惑わされなくなることです。二元性がその二元性と同じ次元で消え去るわけではなく、二元性を超えた次元での共通した一つ上の次元に気がつくことです。それはワンネスということです。二元性の克服とは、片側であっても、あるいは、偏っていてもその奥底に通底している共通したワンネスが存在していることに気付くことです。ですから、バランスを取ることではないのです。偏っていてもワンネスなのです。片方だけでもワンネスなのです。いわゆる善であってもワンネスですし、いわゆる悪であってもワンネスなのです。
同じ次元で同一になることではありません。例えば、水と油を混ぜて同じにしようと努力することではありません。水と油は混じりませんが、水も油も同じだと気がつく事がワンネスです。水は水ですし油は油です。しかしワンネスなのです。これは、油と水の割合は問題ではありません。50%と50%、はたまた10%と90%の割合であったとしても、どちらの場合もワンネスなのです。ですから、善が10%で悪が90%であってもそれはワンネスですし、逆であってもそうなのです。ワンネスというのはこの世界の「あたかも存在している世界(ヨーガでいうマーヤー)」の有り様とは無関係にワンネスであり続けます。
仏教やヨーガでいうところの「無知(Avidyā、アヴィディヤ)」な人はこの世の現れが真実であるかのように語り、二元性の世界に生きています。一方、聖者あるいは聖典の知識を持っている人はこの世の二元性を超えることができます。
この時、一体何が本当のワンネスでそうでない見せかけのワンネスもあるということを理解しておくことは重要です。
見せかけのワンネスは、二元性の世界に生きていながら人の魂の永遠性を語ったりします。それは一貫していない理解であり本当のことをわかっておらず、二元性の世界に生きながら都合良く永遠性を理解している中途半端なスピリチュアルがこの世界には多く存在しています。例えば、「人の魂は永遠で死ぬことがない」と言っているカルトあるいは自称ライトワーカーがいたとして、その同じ人が善と悪の二元性の世界に生きていた「悪を滅ぼして善が勝つ」と言う争いの世界に生きています。
実のところ、本当の理解というのは一貫していて、二元性を本当に超えることができたらそれはワンネスでありこの宇宙意識と繋がるということになるのです。しかし、本当は二元性を超えていないからこそ、二元性を保持していつつも都合良く「人の魂は永遠」ということを語ったりします。それは本当には分かっていない、ということです。
この世界は幻影(マーヤー)であり、マーヤーの世界においては二元性が存在します。それは善悪など各種の2面性の属性を持ちます。それがこの世界であり、いわゆる物質界です。マーヤーはヨーガ的には3つのグナ(サットヴァ、ラジャス、タマス)の属性を持ち、それぞれ活性あるいは不活性の状態にあります。それはヨーガ的な肉体あるいはスピリチュアルな体でいうところのカーラナ(コーザル、原因)体までを指します。マーヤーとは物質で出来ています。その根本はと言うとヨーガでいうところのプラクルティ(物質)です。物質があるからこそ二元性の側面があるのです。
一方、この宇宙に普遍的に存在していて変わることのないもの、それがヨーガでいうところのアートマンあるいはブラフマンであり、それは意識であり、不変のものであり、よって、二元性を超えたものです。二元性を超えた意識だからこそ永遠の意識であり変わることなく普遍的で満ちているのです。いわゆる宇宙意識です。
と、いうことですから、宇宙意識に達したら二元性を超えるのが当然なのです。善と悪というような二元性の意識で生きているのは宇宙意識に達して異ない状態ということです。それは実に明白です。
誰か、例えば自称ライトワーカーが善と悪の価値観を持ち出してきて「善が悪を成敗する」というようなことを言うのであれば、それは宇宙意識に達していないということなのです。しかし、そのような人であってもどこかで学んだのか本を読んだのか「自分の本質は普遍的で変わることがなく、生まれたこともなければ死ぬこともない永遠の存在」ということを何故か知識では知っています。しかしながら、本当のところの意味をわかっていないのです。本当に宇宙意識に達したのであれば二元性の「善と悪」というようなものも瞬時に消え失せてしまいます。ですから、善と悪の価値観の世界で生きていて「善が悪を滅ぼす、正義が勝つ」というようなことを言っている時点で、永遠性に対する知識はそれなりにあろうとも、本当のところでそのことを分かってはいないのです。
真実というのものはそう幾つもありません。普遍的だからこそ真実なのです。
それはスピリチュアルにおいては単純で、宇宙意識(いわゆるワンネス)に達したら二元性の意識(それはエゴとも言う)は消え去るのです。
二元性の意識で善と悪の価値観を持っていたのは宇宙意識の方ではなくて個としてのエゴ(自我、ヨーガでいうところのジーヴァ)の方です。そのことに宇宙意識のワンネスに達した時点で気がつくことができるのです。それは普遍的なお話であり、達すれば誰でもそれに気がつくのです。
そして、宇宙意識に達していない人だけが二元論の善と悪の価値観で生き、その段階においてはどこかネガティブで、スピリチュアルも「技」「知識」に頼り、直接的に宇宙意識を知るというよりは理屈の面において多種多様の自己満足を繰り返すのです。それは論理によってエゴを覆い隠して自尊心を高めることになり、真実を露わにしてくれるような人が周囲に現れた途端に拒否反応を示してヒステリーになり、自己のヒステリーの責任を他者に転嫁して自分のエゴを守るという行動に出るのです。そのように、二元性の世界に生きているのにも関わらず自分は既に真実に達していると思い込んでいる人はかなり厄介で、ある種のカルトの神秘性と魔術のようなファンタジーのような世界観を醸し出します。術を使って現実を変えようとするものの、その意識は限定的で、真実に至っていないのです。しかし多くの人はその真実の姿を見誤り、真実を知っているかのように思い込み、カルトの教祖のように崇められることになります。その立場を傷つけるような人がいたら異端者として排除します。これが二元性の世界で真実を知っていると自称して教祖のようになっている人の特徴です。
二元性の世界にはバランスというものがあります。一方、本当のワンネスの世界には(バランスではなく)あるべき姿だけがあります。そもそも制限がないのですから「端」もなく、バランスのとりようがないのです。二元性の限定された世界にしかバランスという概念は存在しません。ワンネスの世界は無秩序ではなくあるべき姿としての(いわゆる)ダルマ(この世界の法則)が存在していて、それを知っている人が本当の賢者と呼ばれます。
二元性を克服して宇宙意識に達すると、その意識の深さに応じて英智がやってきます。その影響範囲は最初は小さく,少しずつ広がっていきます。最初は宇宙意識とは言っても非常に限られた範囲のものが、やがて広がっていきます。それはまるで、秋の草原で火が広がっていくかのようなものとも比喩されます。そのくらい自然に育つものです。とは言いましても、意識が深まるには相応の時間が必要です。
ワンネスに達成していない状態で二元性の世界にいると、何か最終的な結論を求めることになります。それが例えば「善と悪」だったり形而上学だったり、究極的とも思える「単純」なストーリーを求めるのです。その1つが「バランスを取る」というような二元性の考え方です。
仏教においても中論とか「中心軸でバランスを取って」みたいなお話がありますけど、これも、二元性の世界での解釈であるように個人的には思えます。ブッダの意識がそのような二元性に限定されたものであるとはとても思えません。ブッダの意識は限りのない意識でありますから「端」があることを前提とした「中間」というようなものではなく、もっと広い限りない心がブッダの心であるとすればそのような「中間」というような概念でブッダの心を矮小化するのはブッダを誤解することにもなるかもしれません。
善と悪のバランスもそうですし、善で悪を成敗あるいは滅ぼす、という考え方にしても、はたまた、他者とのバランスを取る、というようなお話にしても、確かに傍目から見てそのようになることは多々あるとして、実際の解釈は少し的を外しているように思うのです。