善と悪とは対比構造であるとよく言われます。それは二元性を克服していない状況でもあり、善と言われるものが存在しているのは対比として悪がいる、というのは、そのような二元性の世界に生きているからです。その二元性の世界は克服して統合されたワンネスへと近づいた世界へと移行することができるわけですが、いわゆるワンネスになると(その前の段階での)善と悪は存在しない一方で、いわゆるワンネスに辿り着く前では善悪が存在するわけです。(究極のワンネスのことではなく相対的なワンネス、統合意識としてのワンネス)
そして、いわゆる善の有り様とは「自覚的な自他への節制」と「(自身が無自覚的に)他者への無理解」(無理解があるということにそもそも無自覚、無理解があるとすら考えていない、あるいは見ようとしない、目を背ける)であると言えます。
社会の有り様として、プレアデスの社会が例として適当のように思います。プレアデスの社会は統一が取れていて人々は礼儀正しく、節度ある振る舞いを取ることが求められています。それは社会として礼節が重んじられているということでもあり、一方、それに適さない人は不適合者として扱われます。地球と同じようにプレアデスにも罰を取り締まる組織があって、犯罪者は隔離されます。そのような社会においては、日本の状況より遙かに、統一された礼儀正しい態度を取るという見えない同調圧力がプレアデスの住民にはかかっているのです。それはプレアデス内部だけでなく、他の星系の住民と接触した時にも同様に発生し、他の文明に対する同調圧力および干渉が始まりました。初めは好意で行っていたかのように見えた干渉も、やがて、同調圧力および振る舞いにおける上下関係あるいはヒエラルキーのようなものへとなってゆき、プレアデスの方が上で、他の文明は劣っている、というような価値基準が広がったこともあったように思います。今でこそプレアデスは学びを深め、文明には多様なものがあるのでそれぞれを尊重すべきだし学びというものは一様ではないことを学習し、そのように振る舞うよう努力しています。その一環として惑星の非干渉の法則も理解されるべきで、地球が如何に愚かな戦争を繰り返していても宇宙からは(大規模な破滅的状況を除いては)干渉しないのです。
そのように、かつて他者あるいは他の文明への同調圧力がある状況で、今まで大人しくプレアデスの導きに従っていた他の文明の中に疑問の声が出るようになりました。「プレアデスはいいことを言っているが、実は、自分たちをコントロールして良いように使いたいだけなのではないか?」それはある程度は誤解でもありましたが、一方で、同調圧力というものは確かに存在しており、また、価値観においてもヒエラルキーによりプレアデス本星が最高、という暗黙の了解のようなものが当時はできていました。今もないとは言えません。
そして、そのように圧力をかけられていると、振る舞いや生活習慣を強要されてコントロールされてきたかのように思い違いをした惑星の住民たちは反旗を翻すのです。それはプレアデスからすれば野蛮な行為であり「悪」でした。プレアデスの「善」に対して、他の惑星が「悪」になったのです。
そして、その背景にはお互いの無理解があり、特にプレアデスの側からの他の星系の住民に対する無理解が多分にありました。プレアデスからすれば、自分たちと同じようにすれば全ての星系は幸せになると考えており、それは無理解によるものでもありましたし、又、同調圧力および価値観の押しつけでもありました。
善と悪という概念が生まれて二元性の論理が宇宙に広がるにはそれだけでなく多様な背景があるためにプレアデスがその全ての根本原因というわけではないのですが、少なくとも、他者への無理解という状況および同調圧力、それは節制という形で制度化され人々が学ぶべき常識とされたこともあり、その一方的な価値観に反発する文明もあったということです。
節制や道徳というのはかなりの部分で全ての文明に共通するものがあるとはいえ、意識の発達度合いによってその有り様は変わるわけです。それを、画一的な価値観で統一しようとしたことが間違いでした。一つの価値観というのは、意識の段階としても1つに固定されてしまうのです。それより低い意識段階の人は抑圧されて苦しいと思いますし、それより高い意識段階の人あるいはいるべき人は意識が上がっていかなくて天井が突っかかっているかのような抑圧を感じてしまうわけです。
他者への無理解、それは、文明の平均的な価値観に対して低すぎても理解できないし高すぎても理解できない、そのような状況であったと言えます。その構造は今も同じなのではないでしょうか。
そして、他者への無理解に対して、無理解が存在するということに無頓着でいて気付かぬまま他者に対して節制と称して同調圧力をかけた結果、同じ価値観の人はそれで安泰である一方で、異なる意識段階(それは上下というだけでなく軸の違った価値観をも含む)の人にとっては苦しい抑圧となったのです。
現在のスピリチュアルにおいても画一的で「こうすればよい」「これが良い価値観」「スピリチュアルならばこう考える筈」という同調圧力があり、それに反する人はスピリチュアルではない、とさえする風潮があります。そのような同調圧力こそがスピリチュアルおよびその根源たる宇宙のとある流派の人たちの根本問題であり、そのように、他者への無理解こそが分断を生み、同調圧力を発生させ、争いに発展することもあるのです。
では、どうしたらよいでしょうか。無理解というものは、理解できない状況というのは意識段階が違えば必ず発生しますから、本当の意味で理解することは完全には不可能であり、その前提に立った上で、「理解できないものがある、ということを前提にする」ことが必要のように思います。
実のところこの宇宙はワンネスでありますので自分が理解しなくても他の意識体が理解すればそれで良い、という面もあります。ですから、自分のカルマではないものに対してあれこれ口出しする必要もないのです。自分が関係するものはカルマで引き寄せられますし、自分の課題であれば関与して理解すれば良いのです。その時、他者に対して必ず無理解があることを前提にしさえすれば同調圧力や他者に対して節制を要求するということもなくなってゆくでしょう。
時にリソースの取り合いになったりして節制をお願いするというのは別のお話で、ここで言っているのは道徳的な観点からのお話です。リソースに限界があるのであればトレードオフが働きますが、制限のない思想的なお話においては各人の学びの自由があり、それを尊重すれば争いはなくなるのです。
そして、それこそが「善と悪」の二元論を克服することでもあります。
このように理解を基本にすれば「善が悪を滅ぼして統合する」というような荒っぽい乱暴な無理解により「善」が勝利するというようなオリオンのカルマから続く古典的なシナリオを描こうとする人も少なくなってゆくことでしょう。