ワンネスとは同質であることではない

2025-01-03公開 (2024-12-14 記)
トピック:スピリチュアル: 理解

時々誤解されるのが、ワンネスになると全員同質になって同じように考える、という解釈です。ワンネスまで行けば1つであることは確かにそうですがこの宇宙は「理解」のために分裂したわけですから、分裂した個々が同質になるということは元々の宇宙の「自分を知る」という目的とは反するものなのです。そのようなことをしたら皆同じになって自分を知ることができなくなってしまいます。よって、同質の人々で構成されている社会、そのようなところを目標として活動している団体や国というのは必ず崩壊します。何故ならそのような同質化は宇宙の法則にそぐわないからです。

このような同質化は社会あるいは団体の停滞を招き、生きがいのない、暗い顔をした、よどんだ人々を生み出します。

一方、多様性のある社会というのは変容をもたらし、人々が生き生きとし、明るい顔をした、楽しげな人々を生み出します。

一見すると平和で悩みのない社会というのがワンネスかのように誤解されがちです。私のグループソウルの記憶の中にプレアデスに転生した記憶があるのですが、そこはとても平和である一方で、間違った価値観を許さないという窮屈さもありました。プレアデスの社会は礼儀正しく振る舞う人の割合が多く、一見するととても高度なレベルの調和があったわけですが、そのような排他的な面こそが争いを生むということにプレアデスのような人たちですら気がつかなかったのです。

プレアデスの基本的な考え方によれば、人々が皆調和になれば争いは止む、ということがあります。ですので、そのような考えに基づき、地球を助ける際も「調和によって争いを止めさせる」という試みが何度もなされてきました。中東の紛争にしても、多くの人たちが同じような試みをしてきてその無力さに無力感に苛まれてきたのです。

これはどうしてでしょうか。それは、他人を変えようとしてきたからです。他人を変えて同質にしようという試みは必ず失敗します。最初は良くても、そのコントロールに気がついた人々が怒りの行動を示すようになるからです。コントロールしようとしている側としては人々が良かれと思ってやっている場合も多々あり、人々が受け入れば幸せになるのに、どうして人々は同質になって幸せにならずに苦しむことを選択するのか、人々の気持ちを理解出来ない場合も多いわけです。

これはプレアデスと他の社会との交流でも起こりました。プレアデスは自分たちのやり方に他の社会も合わせるべきだと考えたのです。そして、プレアデスの社会と異なる箇所を見つけては、それを修正することで調和に至る、というお節介をしたのです。これが、他の社会への介入とみなされ、調和のための提案であったものが調和を乱す者としてプレアデスは他の社会からみなされるようになりました。

これは、どちらかの文明が勝つことでその文明に同質化され、「勝てば官軍」と言われているように、優れた文明だからこそ勝利した、という歴史が作られてきました。それによりプレアデスの優位性およびその平和を守る者としての地位は揺るがないものになったかに見えました。

実のところプレアデスの人々の社会性とは礼儀正しい白人ような人たちのようなものであり、ハキハキと明るくて明晰で、アメリカ社会の基本的なところにも通じるものがあります。アメリカが他国をお節介で介入して紛争を止めたり広げたりを繰り返しているのも、どこかプレアデスのやり方に似ている部分があるように思えます。平和と調和を謳いつつも、同質の社会をもたらすという点においてもプレアデスとアメリカ人はどこか似ているのです。

そして、自称ライトワーカーあるいは環境活動家、思想家、といった人たちがこぞって言うのが「調和によって争いを止めさせる」という主張です。立場が違う筈なのに、何故か、この点においては割と意見の一致を見るのです。これはプレアデスなど、過去において成功体験があった人たちの流れを組むものであるように思えます。そして、割とこの点においては人々は良く納得するのです。ここが落とし穴です。

かつてプレアデスやオリオンにおいて、そのように、「調和」を表立っては目指しつつも実は「同質」になることを目指してきた動きがありました。そのように、調和だけであれば皆が納得するものの、その背後に、「それは、同質になることを意味する」という暗黙の了解があったのです。これが、「調和」という言葉に隠された意図であり、そこが、争いの種になったのです。

言葉そのものを見てみれば「調和」は「調和」それだけでしかなく、そこに、「同質」という意味はありません。しかし、過去において、「調和」と言ってきた人たちの中に無意識あるいは薄々気がつきながら「その調和とは、同質になることを意味する、よって、我々の社会と同じように皆がすれば調和は達成される」と考えた文明が多くあったのです。そして、その1つがプレアデスでした。

プレアデス、オリオンなど、数々の文明が交流し、やがて、調和を目指したものの、その調和とは「何かの1つである同質になること」であったがために、それは宇宙の法則の「理解」に反するものであったために、宇宙の強力な抵抗の力となって現れたのです。それがオリオン大戦の起こった根本的な原因であったように思えます。

人々は考えました。「なんだ、調和とか平和とか良いことを言いながら、結局、支配しただけじゃないか。俺たちは騙された。」と言い、反乱軍を組織しました。一方、支配者側からすれば「調和を乱す乱暴者たちは取り締まる必要がある」と考えました。調和で平和な社会を乱す反乱者として扱われたのです。

プレアデスは均一的な調和の取れた社会でしたし、今もそうですが、どこか社会が停滞していて、それ故に、他の惑星に関与してその惑星の霊的な成長を助ける、という宇宙的な活動もしています。それはスタートレックにも代表されるような人道的な活動でもあるのですが、その活動が最終的には均一化された社会を目指したが故に、一部の社会から反発が起きたのです。

プレアデスの主張するワンネスと調和というのは、今とは少し違った意味を持っていたように思います。そこでのワンネスとは均一化するということであり、プレアデスのように調和な社会になれば平和が訪れる、ということでした。実はそこに、大きな争いが発生する火種があったのです。

実のところワンネスというのはそのようなことではなく、究極的には1つであって宇宙は「理解」のために分離した、という根本原理を説明するためのワンネスと、今ですら実は高次元の根本としてはワンネスである、という両面のお話なのです。ですから、実はワンネスであるからといって同質の社会を目指す必要はない、と言いますか、全く異なっていても常にワンネスであるわけで、戦争をしていたとしてもそれはどちらもワンネスなわけです。そのように不変で変わらないからこそワンネスであるわけですが、ワンネスとは同質化された社会や考え方を目指す、という解釈が昔から存在しているわけです。

これはスピリチュアルでも一般的にそうで、スピリチュアルでワンネスというと同質な考え方や動きを暗黙に期待および矯正する、という面が往々にしてあるわけです。そして、それにそぐわない人は調和ではないと考える。そのように画一化された人々が生み出される、あるいは、人々を画一化した考えに導くような状況は、実は、「理解」という宇宙の法則に反しているのです。

このような考えで動いた結果、例えば地球の紛争を解決しようとしても、それは「理解」という根本原理に沿っていませんので、いくら「調和によって平和を導く」と活動をしてもはじき返されてしまうのです。

ましてや、単純な二元論に陥って「こちらが善で、あちらが悪」とみなし、紛争を起こしている片方を悪とみなして懲らしめたとしても、そこに「理解」というものがないのであればその人たちの中から新たな紛争をやがて生むことになり、争いは終わらないわけです。

二元論の自称ライトワーカーは「争いがあったとき、先に手を出した方が悪い」という単純なお話をします。どちらが先に手を出したのか分からないような長く続く紛争に関しても「そういう場合でも、辿っていけば、先に手を出した方が悪い」という単純なお話で片付けようとしているのです。そのような二元論がこの社会に争いを生んでいることに考えが及ばないのです。片方が善でもう片方が悪だとしてしまったら、悪である側はその後ずっと下級市民として虐げられてしまいます。そのような階層社会に救いが本当にあるのでしょうか。そのような二元論による社会の分断を自称ライトワーカーが作り出したとして、本人たちはその現実を目視できるのでしょうか。単純な二元論を由として悪を成敗する、という子供のような考えに陥っているだけで、この社会に平和が訪れると本気で思っているのでしょうか。そのように、「理解」の視点の欠けた活動は必ず崩壊し、争いを生みます。

同質の社会を目指すのではなく、理解できる範囲で理解し、理解できないところが必ずあることを前提にする社会にする。それが必要であるように思います。ですから、理解できる範囲でまとまって生活し、理解できない人とは限定された付き合いをすることです。それは今すぐに理解できないというだけで理解を目指すべきであり、無理をする必要はありませんが、分断を前提にするべきではなく、同質の社会を目指す必要はなく、同質にしたいのなら自発的にそうすれば良いのであって、他者から押しつけられるものではないわけです。

押しつけられた同質化というのは理解を欠き、社会の停滞を招きます。一方、少しづつでも理解を基本とすれば数パーセントでも少しづつ成長していきます。それは同質ということではなく、そこには変化があります。変化があるということは幾分かの破壊と再生があるということです。その中間に一時的な「維持」があります。

プレアデスは「維持」に極端に偏った結果、同質化をもたらし、新陳代謝が失われたことによって社会の停滞に至ったように思うのです。自称ライトワーカーも似たようなところがあり、「維持」を目標に掲げて同質化および調和による平和を目指しているという点で、プレアデスの流れを幾分か受けているように思うのです。自称ライトワーカーにとってみれば「宇宙の教え」に従っていると思っていて、それで地球が救われると思っているかもしれませんが、実のところ、この宇宙の法則は「理解」であるために、自分で考えない者には答えはやってこないのです。

誰かに教えられた教義ではなく、自分の頭でしっかりと考え、何が良いのか、何が悪いのかを考える。そして、同質化に甘んじることなく、どこに向かえば良いのかの答えを見つけること。それができないのであれば地球はまた分裂して紛争は続くでしょう。

一方、「理解」を元にすれば意外なほど早くこの地球に平和が訪れます。「なんだ、そんなことだったのか」という単純明快で誰もが分かるお話でこの地球に呆気なく平和が訪れる可能性が示唆されています。理解してしまえば変容はすぐなのです。

そうなれば、同質になる必要もなく、同質になってみる自発性もあれば、自由に新たなことをやってみることもできるのです。そこに理解が生まれます。それこそが地球の目指すべき道であり、その結果として「調和」「平和」というものもやってくるわけです。

その根底にあるのはワンネスに対する理解ですが、ワンネスが同質であることを意味しなくなり、ワンネスが本来の意味である根本であることが人々に理解され、それにより、同質化を強要する人もいなくなるのです。そして、本当の意味のワンネスに基づいた平和が地球に訪れ、多様性および理解に基づいた社会に導かれてゆくのです。