物理的な制限のある世界に住むことで学びを加速させる

2024-12-15公開 (2024-12-01 記)
トピック:スピリチュアル: 理解

「理解」という前提に立つと、この地球の物理的な世界は高次元の世界よりも学びがしやすい世界であると言えます。スピリチュアルというと高次元になって自由になってしかるべしという暗黙あるいは当然の合意があって、それにそぐわないものはスピリチュアルではないかのような風潮すらあります。しかしながら、実は高次元というのは自由すぎるあまり全てがすぐに思いのまま現実化されてしまいますので、そのことが何なのか、なかなか理解できずに不調和も調和も全て実現されてしまう世界なわけです。

一般的にはあの世はいくつも階層が分かれていて地獄と天国があって・・・ みたいなお話がありますけど、それはある意味、比喩であり、地獄の中にも低次元と高次元があって、天国にも低次元と高次元があるわけです。ですから、低次元だからとって必ず地獄なわけでもなく、天国だからと言っても高次元であるとは限らないわけです。

とは言いましても高次元の制限のない世界のことを学ぶのは重要で、我々は皆、そこから来たわけですから、どこから来てどこへ戻るのかを知ることは必要なわけです。一方、ここに来ている意味というのは、元々無自覚のまま意識を働かせて現実化させてしまった現実を重い粗大な物質界というところでゆっくり現実化させて体験することにより、その自らの意識とは一体何なのかをしっかり理解できるようになるのです。これが地上で学びが加速される意味です。

スピリチュアルで、もう学び終えた場合にもまだこの物理世界にいなくてはならなくて煩わしい、というのは現実問題としてありますけど、本来はそのように、もう学び終えたので卒業する、というお話であり、この物理次元がなくなって高次元だけになってしまうとまだ学び終えていない人が学ぶ場を失ってしまうことにもなり、不満も出てきてしまうかもしれません。学びというと何ですけど物事を理解するということは楽しいことであり、それは、言い換えれば遊びであるとも言えます。遊んで理解して楽しむ、ということがこの制限のある物理的な世界に住む意味で、そうして(遊びながら)某かを理解し続けている限りは宇宙を創造した主の意図に沿った行動をしているといえます。

特にお金は人の行動の制約にもなりますが、行動に制約がなくなったら仕事をしなくなって寝そべっているだけであるとすれば学びも減るのであり、それは本当に面白い生活なのでしょうか。それでいいと思う人がいたら宇宙の創造主の意図にそぐわない存在として某かの揺さぶりがかけられ、行動するように働きかけられます。行動せざるを得ない状況に追い込まれます。人は勝手な判断で束縛だとか強制だとか思い思いに言いますけど、根本原理が「理解」でありますから、遊びでも何でも「理解」のために生きている人は楽しいことであっても生活は保障されるわけです。何故ならそれが宇宙の意思に沿っているからです。

ですから、スピリチュアルで術を使ってお金を楽にかせぐとか引き寄せの法則で思い通りの人生を生きるとか、そんなことは宇宙の法則からしたら大して興味のないことで、それは術を使ってもしかして実現できるかもしれませんが、その結果、学びもなく平穏に暮らすだけであれば宇宙は揺さぶりをかけて強制的にそこから放り出し、行動せざるを得ない状況に追い込むわけです。そのように、本当は宇宙の法則が「学び」だからこそ行動させられているのにも関わらずそれを認識せず、やれ支配者だとかディープステートだとか陰謀論だとかよくわからない勝手な理屈を想像で生み出し、あるのかないのかわからない実態に対して不平不満を感じて世の中を呪うという時間の無駄かつ意味のない行為を行っている人も中にはいるわけです。

お金があるのは、実は別のタイムラインでお金がほとんどいらない世界が一旦はできたのですがその世界では人々が「かんしゃく」を起こすようになってしまい、義務で労働を続けたものの、何か、おかしな感じになってしまったために、このタイムラインではお金の力が強いように誘導されたわけです。今の日本でも田舎の方に行くと変な地主や土地の有力者が威張って迷惑な存在になっていることがありますが、お金のない世界はそれが何倍にも何十倍にも拡大された世界で、一旦はその土地の有力者になってしまうとその地位が代々引き継がれ、迷惑な人がその家に生まれた場合にはその周囲の人を多いに悩ませるという状況になっていたのです。それは今の田舎の人の比ではなく、逆らったら食事もきちんと取れなくなるかもしれない、というレベルなわけです。今の社会はお金さえあれば誰に対しても食事を提供してくれますが、お金がなくなると誰かの好意で食堂など全てのお店が運営されることになり、そのお店の主人にぺこぺこしてお礼を深々とすることが常になってしまうのです。いい人ならばともかく、性格がおかしい人も中にはいて、今の世の中であればそのような変な人は稼げなくなってお店も畳むことになるので世間に変な人は少ないですけど、お金がほとんどいらない社会では倒産がほとんどありませんので、変なひともずっとマーケットに居続けるわけです。それは新陳代謝の少ない、歪んだ世界です。そのように、制限がない世界が必ずしも良いわけではなく、お金という強力な制限があるからこそ人は学ぶことができるわけです。