(続き)
そのように、宇宙が創造された目的は「理解」であるわけですから、調和というのもそのための環境作りのお話でしかないわけです。そのため、平和が大切とか調和が必要、などと訴えても根本のところで響かないのです。
実のところ、これは地球だけの問題ではなく一部の宇宙人、例えばプレアデスにおいてもその傾向が多少はあるように思われます。私のグループソウルの中にプレアデスの宇宙船で暮らした魂がかつていて今はグループソウルに帰還済なわけですが、その記憶を辿ると、プレアデスにおいては犯罪者は分離・隔離されていたように思うのです。
その詳しい基準までは覚えていないのですが、調和を乱す者、他者を傷つける者、などはどこかの惑星に幽閉状態になってその後の人生を送ることになっていたように思います。おそらくそこでは男女は接触せず、子供も作ることができない環境になっていたかと思います。犯罪者は子孫を残さないようにして、犯罪者と同質の人たちを増やさないようにする、という工夫がなされていました。
そして、かつては、もしかして今も、多くのプレアデス人の意見としては地球も同様にすべきだと考えており、地球も犯罪者を分離して子孫を残さないようにすれば良い、というような考え方が時折地球のコンタクティに伝えられているように思います。
これは、宇宙人だからといって盲目的に信じてしまうような人たちからすれば、まるで神のように思える宇宙人が言うことだからと鵜呑みにしてしまうかもしれません。ですが、私のような地球人が言っても大して説得力がないかもしれませんけど、このような考え方はプレアデスの間違った面であると言えます。
そもそもこの宇宙の根本原理は「理解」であるのに、犯罪者を分離して子孫を残さないようにしてしまったら、その根本の目的である「理解」が進まないようになってしまいます。それは宇宙の管理者からしたら由々しき事態です。
実のところプレアデス人と言っても肉体を持った宇宙人であり、肉体を持たないまでに進化・成長はしておらず、不完全な、学びの途中の存在であると言えます。と言いますか、この宇宙それ事態が学びのために2つ以上に分かれるということをしているわけですから、完全無欠の存在というのはあり得ないわけです。常に学びというものを続けるために分化しているわけです。それを、自らの判断基準で犯罪者と決めた他者を隔離することで社会を一見すると平穏な状態に保つのは、傍目には平和そうに見えても、そこに「理解」が足りていないために、どこか不平不満が溜まってしまうものなのです。
実はオリオン大戦などもこの程度の微妙で小さな不満が最初はきっかけであったように思います。他の惑星の文明に対して、「どうして貴方たちはそうなのだ。こうすればいいのに」と言った、勝手で押しつけがましいお節介から最初は始まり、その細かい違いを理解せずに「君たちは間違っている」と判断し、やがて、それが分断を作り出しました。その根幹はというと、「理解」というものがこの宇宙の基本的な行動原理およびモチベーションであるという点を(多少はわかっていつつも)疎かにしてしまっていたがために自分たちと考え方が異なる文明を否定することになったのです。それが宇宙における大戦争を引き起こしました。
その根源にあるのが、「他者に迷惑をかけてはいけない」という原理であるように思うのです。かつてオリオン大戦を引き起こし、そして、この地球でも紛争を繰り返している原理が、これであるように思うのです。この原理は様々に派生して少し違った理屈を繰り広げていたりします。とは言うものの、根本はそこまで変わらず、結局は、根本原理として「理解」が宇宙が創造された理由だったという点に思いを馳せることができないために中途半端なところで留まってしまい二元性の論理で正義と悪を作り出し、自らの力の行使を正当化し、争いが続くことになったわけです。
これは、戦いを挑んできた人に対して抵抗するなと言っているわけではありません。正当防衛というのは成り立ちます。その時の力の行使を正当化する理屈として正義とか悪とかを持ち出すことが中途半端な理解であり、争いの連鎖を生み出している、ということです。そして、正当防衛というのは理解のための環境を作り出すためのものである、という視点に立てばどの程度まで正当防衛して良いのか、ということもその状況に応じて明らかになります。
人には知的程度の違いというものがありますし、前提となる知識や理解も異なりますから必ずしもすぐに理解が現れるということはありませんけど、それでも、後ほど理解することができるための行動をあらかじめ取っておくということが必要のように思います。
ですから、正当防衛が調和のためとか平和のため、というのが中途半端な理解であるということも同様にわかります。調和や平和があったとしても理解が起こるとは限りません。調和や平和があった方が理解が現れやすいためにそうするのであって、平和が最終目的ではないわけです。人によっては平和や調和が「他人に迷惑をかけないこと(だからお互いに好き勝手にやればよい)」という状況を作り出すためのものだったりしますから、平和や調和が必ずしも理解を生み出さないことは明白です。
そのように、調和や平和そのものが最終目的としてしまうと「理解」に辿り着かず、違う目的の人にただ利用されるだけ、という結果になってしまうこともあります。もちろん平和や調和が理解を生み出すこともありますが必ずしもそうではないのが現状であり、最終的な目標が平和や調和であるとお互いに思ってはいても最終的な目標は異なる人が集まっていることに途中で気がついて最後は分裂、ということが繰り返されてきたように思うのです。
一方、最初から「理解」が目的であると定めれば調和や平和というのは途中の過程あるいは前提条件はたまた理解の結果としての成果物であるわけですから、平和や調和というのが自然な結果として表れてくるわけです。理解なき強制的な調和や平和は分裂と不和を生み出して新たな争いを生み出す一方で、理解を目標にすればそのような分断や争いは次第になくなるのです。
これは片方だけ行っても駄目で、両者がお互いに理解しようとして初めて平和や調和は達成されるわけです。
それは一見すると大した違いではないと思われるかもしれません。しかし、この点が実は重要で、些細なすれ違いにより宇宙の戦争も引き起こされてきており、地球の戦争や紛争も些細な似たような事で発生してるのです。