高額セミナーを罵って受講させようとするカルト講師

2024-10-11公開 (2024-07-15 記)
トピック:スピリチュアル: カルト

とある人から聞いたお話です。・・・そういうことにしておきましょう。

その人は、ある時、とても伝統があると自称するスピリチュアル団体のセミナーを受けたそうです。それは、数日で数十万というそこそこの値段がしたとのことですが、内容がとても酷くて、普通の仕事を蔑んで、自分たちのスピリチュアルな仕事が最高で、他の人はどうのこうの・・・ と下に見ていて、その優越感を隠そうとしない乱暴な態度に口が開いて塞がらなかったとのことです。ほとんど得るものはなかったとのことです。

その会場では、単にセミナーを受けに来た人に対して、「自分たちは師匠で君たちは弟子」、みたいなことを言い出して、受講生は困惑していたとのことです。弟子が師匠を選ぶのは弟子が言い出すのが普通だと思いますが、その会場では、師匠からセミナー受講者に対して「君たちはこれから私たち講師の弟子です」みたいなことを言うのは違和感しかなかったそうです。講師の態度の乱暴さも、とても失望させるものだったようです。まるでブラック企業に入った人が最初に受けるブラック研修みたいだった、と言っておりました。

その人は、そのことに対して、そこの講師でもありセミナー受講を勧めてきた人にこの件について内々にメールしたところ、「私は知らない。本部に問い合わせて」と言われて、その回答に困惑して、最初は思考がうまく動かなかったそうです。少しして気を取り直して、冷静に考えてみたところ、こういうことだ、と理解したそうです。この講師は、自分が薦めたセミナーに対して責任を取らない、その態度は、一般常識とは異なる、と、その違和感に気がついたようです。一般社会で、誰かに何かを勧めたならば相応の程度の責任というものが伴うのが普通だと思いますが、どうも、その講師にはそのような常識はないようです。このあたりを、その人はとても疑問に思ったようです。最初は、とても当たり前に「それは私は関与していないから」と言われて、自分が薦めたのに知らない、って、一体どういうこと・・・? と、困惑したようです。どうやら、セミナー料金は団体に直接払ったようでその人が手数料をもらったかどうかは不明ですが、手数料の有無に関わらず、薦めたセミナーの内容についてスルーする、というのは、一般常識とかけ離れているようで、その団体の講師の態度に疑問があったそうです。

自分が勧めるけれども、勧めたものの内容の責任は取らない、あっちに問い合わせてください、というのは一般社会では成り立たない、通じないと思います。そこの講師は数十年もその狭い社会にいるとそんな常識も忘れてしまうのかな、とその人は思ったそうです。他人に薦めるにはそれなりの責任が伴うと思います。相手によっては大問題になることもあると思います。そのように言っておりました。このあたりもブラック香がします。

ですから、セミナーの内容について追及する以前で、セミナーを薦めてきた講師と話が全くかみ合わなかったそうです。

その点についても追求し、更には、様々な矛盾点を指摘したところ、その回答をきちんとせずに無関係なことを繰り返した挙げ句、「貴方はもっと見込みがあると思っていた。思い違いだった。貴方は、逃げていますね。次のセミナー(2日で50万円)を受けなければ、貴方は何も分かりません」とか言ってきたというのです。

「逃げる」というお話をするならば、それは、「(その団体の講師であるその人は)セミナーを薦めたのにも関わらず、自分が薦めたセミナーの内容の責任を取らずに団体に責任転嫁して逃げる」ということこそが「逃げる」ということだと思うのですが、何故か、自分はそのように安全な立場に身を引いておきながら、その被害者の彼に対しては「逃げるな」という罵りを繰り返してきたそうです。これはおかしな態度です。薦めておきながら責任がない、というのは一般社会では理屈が通らないと思います。

そもそも、その前である今回のセミナーの内容もイマイチで大して得るものがなかった、とその人は思っていたそうです。ですから、コスパが悪すぎる、それどころか悪質セミナーだと思っていたところに、更に高額セミナーを「逃げるな」と言って煽りつつ受けるよう迫ってきたわけです。どこまで営業の押しが強いのでしょうか。

その前の数十万のセミナーも色々とあれやこれや煽ってきたらしく、迂闊にも受けてしまったがために、次は更に高額のセミナーを受ける見込み客として、更に煽られて、カモと化してしまったようです。その講師の営業スキルの高さと厚かましさ、更には、見下してくる態度に対して、一遍もスピリチュアル的な高さを感じなかったようです。ただの、ヒステリーなおばちゃんだったようです。

挙げ句の果てには、セミナーの内容からずれた話になり、例えば男女のお話で勝手な想像で罵ってくる上にその勘違いを指摘しても訂正もせず謝りもせずにスルーする。挙げ句の果てに、何度も何度も「逃げてばかりいる」と罵り続け、全く謝る態度を見せず、最後には「もう、貴方の相手はしません」とか捨て台詞を吐いて消えていったそうです。

エゴを自己肯定する、というのはスピリチュアルの初心者によくあることですが、その人はまさに、そのような人だった、と、その被害者の方は思ったそうです。エゴを守って自己肯定するためにあれやこれやと理屈をこねくり回して、相手を否定して自分を守るための屁理屈を繰り返し、相手が納得しないのならば最後は捨て台詞を言って逃げて行ったそうです。

その講師は「逃げるな、次の(2日50万の)セミナーを受けるように、そうしなければ貴方は全く成長せずに、真実を知ることなく終わる。見損なった」とか、何を言うかと思えば結局は高額セミナーに結びつけてくるところが、発言の底が浅いわけです。その前のセミナーでも似たようなことを言っておいて、得るものは大してなかったわけです。

その人が、自分はもうセミナーは受けない、疑問だ、と返事をしたら「もう、この世の中はこのまま行ったら戦争や貧困、ほとんどの人が死にます」とか脅しをかけてきたそうです。それで結局どうすればいいかというと、その、2日で50万のセミナーを受ければ地球は救われる、と言われたとのことです。そんなことで地球が救われるなら苦労しないと思ったそうですが・・・。解決策を提示するにしても、安易すぎます。セミナーはそれでは終わらず、その後も金額が大幅にアップするものを受け続けなければならないとのこと。これはカルトですね。恐ろしいです。

ちなみに、その団体の思想的に、現在の社会システムにおいては資本主義社会に関わっている全ての人は奴○だと見なしていて、その団体の仕事を専門にしている人が上級だそうです。一般の仕事を「下界の仕事」と比喩で呼んでいたりもするそうです。そういう選民思想は救われないと個人的には思いますが、そこの人は割と本気のようです。

この話を聞いて、未だにそのようなカルトのスピリチュアル団体がいるものだなぁ・・・ と、残念に思いました。次のオ○ムとして、そのうち、何かしでかすかもしれませんね。

その人は、講師から「貴方のように否定していても、戻ってくる人はいる。それは、その人に儀式で与えられた力に気がついたからでしょうね。」とか言われたそうです。

これは、冷静に分析しなければ見逃してしまう、とても注意しなくてはならない、見逃せない発言です。このような、あっさりとした発言に本性というものは現れるのです。この発言の本質は、「力を求める人がその団体に寄り添う」という現実です。一旦は離れたのに「力」が理由で戻るというのは、何が大事な人が集まっているのかの一面をうかがい知ることができます。

エネルギー(パワー)が目的で戻ってくる、それが理由になる・・・ というのは、力を得るために悪魔に魂を売る黒魔術師のようにも聞こえてしまいます。力を求める者は力に溺れる、とはよく言ったものです。そうして、力を求めて戻ってくる人がいる、ということでしょう。力を求めて魂を悪魔に売るわけですね。いろいろと団体に問題を感じていても、それでも、力がほしいから他のことは許容して戻ってくるのかもしれませんね。戻ってくる理由を確認したことで、あそこの人たちが続けるモチベーションの1つが明らかになったようです。これは、「 力に溺れることなかれ 」、という、反面教師にもなります。勉強になります。

ヨーガでは、力を放棄して、高みを目指すのが本当のヨーギ(ヨーガをする人)だ、とよく言われます。ですから、ヨーガでは能力的なものを追い求めない、能力があっても見せないのです。そのような謙虚な態度がヨーギとして尊敬されます。聖典によると、ヨーギがある程度の段階に至ると、神々から能力やその他の誘惑を受ける、とあります。そして、それらをはねのけて能力や地位を放棄する者こそが最終的な境地であるサマーディ(三昧)あるいはモクシャ(自由)に辿り着く、と言われています。

カルト団体が力を求めるのは、確かに多少は修行の心得があるのでしょうが、途中で力に魅入られることで、そこで止まってしまっているように思うのです。このようなことは、適切な聖典やらグルがいないと、容易に力に魅入られて道を踏み外すことにもなってしまいます。何が正しい道かを教えてくれるグルや経典と出会えることは幸せですが、出会えたとしても、それが正しいと見抜けるだけの見地が本人に何よりも必要です。

あのカルト団体では術などの能力が高ければそれがその人の階級をそのまま示しているようです。それは、力が正義という、(時に乱暴な)思想が根底にあるからだと思います。

理解されにくいことかもしれませんが、力(パワー)よりも大切なのは、祈りです。ただ、こういうと、術の能力の高さで自尊心を高めているカルト教団のメンバーには鼻であしらわれるかもしれません。ここでいう、祈り、というのは、要は高次元に繋がるということです。高次元に繋がれば、低次元の力を術などで行使するよりも遙かに広大な力を得ます。それは努力もいらない、自動的なものです。力を求めて行動するより、力を放棄した方がより大きな力を得る、というのは皮肉なものです。結局は、放棄(ヴァイラーギャ)が成長を導くのです。力を求めていても物理的次元あるいはそれに近い階層でのお話にしかなりません。力を得ると言えば得ますが、実際は、既に放棄(ヴァイラーギャ)しているためにその力を使うということはほとんどありません。持っていても使わない剣や銃と同じようなものです。

いろいろな団体にそれなりに神の意志はあるにしても、すぐに人間はスピリチュアル・ビジネスにしてしまいます。そして、高額セミナーを作ってしまうのです。ニューエイジの時代から、この種の商売上手の人がスピリチュアルをうまく使う構図は変わっていないように見えます。その団体はニューエイジをことさらに否定しているそうですが、構図が同じだからこそ似たもの同士で批判し合う、というのはよくあるお話です。

30年以上前のニューエイジの時代から、スピリチュアルの団体あるいは個人同士の仲が悪い、というのはよくあるお話です。宇宙系のコミュニティも派閥に分かれていて、お互いに相手のことを悪口を言い合っていたりします。ですが、似たもの同士だと思うのです。そのような悪口(本人たちは悪口だとは言いませんが。それとなく上手い理由で覆い隠す)をしている以上、活動の幅は広がらないでしょう。

私が個人的に30年前から知っていたとある宇宙系の団体も、しばらく様子を見ないと思ってふと調べてみたら、数年前に団体の代表がお亡くなりになって団体としての活動を停止されたとのことです。高校時代から機関誌を取り寄せて読んでいたりしたこともありましたが、最初は霊性進化を求めていた筈が、あるときから大災害を煽り初めて、2000年前後にそれは来る、と言っていたのに何も起こらなくてもう少し先送りになり、2012年にそれは起こる、と言っていたのにそれも過ぎ、もう来るぞ来るぞとつい最近まで煽り続けて、結局は代表がお亡くなりになってそのまま活動が終わってしまったようです。

そこに限らず、大災害を煽って人々の行動を駆り立て、結局、何も起こせていない、何も起きない、自己満足な教団は多いように思います。本人たちだけが神事やら何やらを成して「やるべきことはやった」と言っていましたが、自己満足に陥っているように見受けられました。実情としては疑問ですが本人たちは日本の神々との関わりができたということでさぞかし満足風で、神事をなしている、みたいなことを何度も言っていたわけです。私が何か言っても「貴方にはわからないでしょ」みたいなことを言って取り合おうとはしません。ああいうのは、気のせいであることがほとんどな気がします。本当の神事はそうそう起こせないですし、「言葉」で明示的に指示してくるような神様は、そこまで高い神様でもありません。どこぞの中途半端な神霊体それ自身の力を増やすための儀式をさせられている、ということが多いように思います。あそこのように、日本の神々と自称する存在と接触することで自尊心を揺さぶられて墜ちてゆく人は割と多いように思います。

さて、話を伺ったその人から話を聞くと、本当のことかどうかはわかりませんが、過去にその(最初に述べた)団体は何度も世界を救った、みたいなことを言っていて、その人もその話を聞かされたことがあるようです。これもまた、私が30年前から知っている団体と似たり寄ったりですね。この種のお話は大抵は眉唾で、そんな気がする、だとか、祈りが通じた、とか、その程度のお話だったりするわけです。そもそも、その(最初に述べた)団体には成果を過大評価する傾向があって、セミナーを何日か受けるだけで何倍にも成長する、みたいなことを言っていたりしますけど、そういう数値化はあやふやで、もともと頭の良くない人がそれっぽさに惹かれるのでは、と、その人は言っておりました。

大災害は、可能性としてはなくはないです。ですが、それを煽りに使ってはいけません。煽ったら単なるカルトです。そして、宇宙の人が助けてくれる、という状況も、なくはないですが、それを、特定の団体の成果のように独り占めしてしまうのは勘違いも甚だしいわけです。

宇宙の法則。全ての惑星の文明には自由意志があって、宇宙の他の星の人たちは基本的に手出しができないのです。そして、その惑星の人類の方から明確な意思表示があってはじめて宇宙の他の文明からその惑星へ関与ができるわけです。文明の破壊など例外的に関与できるケースはあるにせよ、基本的にはこの法則は守られています。地球を救ったケースは私も多少は把握していて、それはというと、地球側の意思表示、明確な意図があって、それに応じて宇宙の人たちが助けたわけです。ですから、地球側の人たちは意思表示が主な役割であって、実際に実行するのは宇宙の人たちです。それなのに、特定の団体が「(地球人の分際で)自分たちが地球を救った」などと思うのは傲慢すぎると思うのです。地球側の人たちは、ただ単に(明確な)意思表示をしたに過ぎません。それはというと、地球の側の意思表示がなければ宇宙の人は動けない、という宇宙の法則があるからです。これがあの団体のパターンと同じかどうかは当時のことはわかりませんし、本当に宇宙の人に願いが届いた可能性もあるにはありますが、単に祈って勘違い、ただの想像、という可能性も多々あるわけです。誇大妄想で地球を救ったと思っている団体はいくらでもあります。そうは言いましても、宇宙の人が助けるというのは基本はこのパターンになるわけです。ですから、宇宙の人からしたら、どこぞの誰ともわからない地球の人であっても、割と「たまたま」そこにいたから、目立つからコンタクトすることもあるわけです。しかし、地球の未開の人類の方が「俺は選ばれたんだ、自分たちは地球の救世主なのだ」と思うのは、勘違いもいいとこです。そもそも、そういうことが全くなくて勘違い、という可能性の方が大きいです。あるとしても、ただ単にそこにいた、たまたま目についた、というくらいで、たまたまそのお役目になった、というだけに過ぎません。それを何を思い違いして「地球を救った」と思うのは、どこぞの勘違いした変な宗教と似たようなものかとも思います。まあ、あそこの団体がどうかは知りませんが、一般的にはこういうことです。当人たちが、本当に自分たちが救ったというのならば私は眉唾物と思いますけど、当人がそういうのなら誰にも迷惑をかけないところでそう思うなら好きに思っていれば良いのではないでしょうか。基本的には、地球人の力なんて微々たるもので、宇宙の助けがあってのもので、それは、地球の側からの祈りによって宇宙からの援助が可能になるわけです。その時、地球人の役割は豆粒みたいなものです。でも、その祈りがないと宇宙人は助けることができませんので少しは重要ではありますけど、実務としては宇宙の人が行うわけです。

スピリチュアル団体あるいはカルトとは無関係のところで純粋な宇宙人が動いています。ですから、カルトは所詮はカルトでしかありません。宇宙人の側は、何もわかっていない無知な地球人であっても、なんとか頑張って接触してきてくれることもあります。ですが、そういうことがあったとしてもカルトが勘違いをするべきではないですが、実際には、勘違いをするからこそカルトなわけで、そういうカルトにはあまり関わらない方が良いわけです。

カルトであっても、その大本は本質である場合があります。その時は、カルトの団体の姿を見ずに、原点あるいは原典を見ればよい、というお話はあるにはあります。知ることができるのであれば、あまり人には関わらず、本質だけを知っても良いでしょう。しかし、団体のごたごたに巻き込まれるのは愚かなことです。

特に、何故かはわかりませんがこの種のカルト団体にはヒステリーになるお局様が必ずいて、直接話をしようとしても冷静な話ができず、情緒とヒステリーで言いくるめてくるので、もはやお話にならないのです。しかも、話が通じないまま勝手に判断してゲラゲラ笑って他人を見下す態度が酷いのも何故か共通しています。話が通じずに上記のように「逃げた」と罵ってきたり、ヒステリーやその場の雰囲気で言いくるめた挙げ句、呑気に「直接話すとみんな大人しいのよ」とか言ったり、高額セミナーを受けなさい、と強く勧めてくる。それでいてセミナーの効果の責任は取らず、効果が出ればカルト団体の手柄、効果がでなくても「それは貴方が気がついていないだけで効果はあります」と言って正当化したりする。その理屈であれば必ず勝利するパーフェクトゲームを行っているのであり、女性のお局様ヒエラルキーの頂点に立ち、傍目から見たら凄そうに見えてしまうわけです。それを傍目から見ている参加者は、頭がそれほど良くない場合、あるいは判断力のない人であれば「そうかなあ」と思って次々に高額セミナーを財布が空になるまで受けさせられ続けるでしょう。そうして財布が空になり、我に返り、「何やっていたんだろ、私(俺)」と、絶望するわけです。世界の破滅を煽ってセミナーを受けさせるようなカルト団体はそんなものです。結局、「逃げた」とか言って煽ってくるようなインチキ教師の相手をしてはいけないのです。

効果が感じられなくても実際には効果がある場合もあるにはありますが、それは希です。基本的には効果が感じられなければ効果がないということであり、それでも効果があると強弁してそれに納得するのであればそれはプラシーボ効果でしかなかったりするわけです。効果がある、ということは、某かそれなりに強いエネルギーがある、ということでもあります。効果がない、というのは、効果がないというよりも、与えるエネルギーが弱い、ということでもあったりします。被験者のオーラの方が強い場合は、外側から弱いオーラを与えても何も感じられない場合があります。よって、2つの場合があります。

・与えるオーラが弱い場合。(与えられたオーラが弱くても被験者が感じられたのならば、それは被験者の感受性が高いということ)
・与えるオーラより被験者のオーラの方が強い場合。それは与えるオーラが被験者のオーラより弱い、ということ。
・鈍くて感じられない場合(そういう精神状態の場合もあります)

鈍くて感じられない、という解釈は、与える側が自己満足するための言い訳でしかないこともあります。与えるオーラが弱ければ効果がない、というのは自明です。ですが、何故か、「感じれなくても効果がある」と強弁するスピリチュアルの流派があります。そして、「感じられないのは、被験者がスピリチュアルで成長していないから」という誤った判断を下したりします。実際は、被験者のオーラの方が強くて効果がなかった、という場合も相当にありますが、そこには無頓着なようです。あまり被験者の状態を客観的に観察できていない、というのもそのような強弁なスピリチュアル流派の特徴でもあります。

強いて言えば、感じられないのは、被験者のオーラが強い、という場合が多いように思うのです。被験者のオーラが強いために、(ヒーリングやイニシエーションと称して)オーラを与えられたとしても、与えられたオーラが(相対的に被験者より)弱いので何も感じられないのです。しかし、傲慢なヒーラーや強弁なスピリチュアル論者は「それは(被験者が)感じられていないだけで効果がある。」と勝手な判断を下すのです。実際は、与えたオーラの強さと、被験者のオーラの強さ、そして被験者の感受性の高さ、それぞれの側面を確認しなければ「効果を感じられた、ということが、実際にはどういうことだったのか」は判断できないわけです。ですが、傲慢なスピリチュアル流派は「効果を感じれなくても効果は絶対にある。それは本人のスピリチュアルの成長が足りない」みたいに切り捨てるわけです。そんな単純なお話ではないのですが。

又、オーラの属性と相性のお話もあります。相性によっては感じにくいオーラの組み合わせもありますし、感じやすい組み合わせもあります。オーラがアップ系かダウン系か、はたまた火の属性、水の属性、土の属性、風の属性、エーテルの属性、それぞれの強さはチャクラの活性具合とも関連してきますし、属性の強さの組み合わせの他に、オーラの状態が(相対的に)ピリピリ(葛藤)か穏やか(調和)かでも変わってきます。割とピリピリ系の波動がきつい場合の方が被験者は感じやすいようにも思いますから、ヒーラーの波動の状態が悪い方が被験者に感じやすい場合もありますし、単純に感じられるかどうかでスピリチュアルの上下を判断できるものでもありません。その日の状態にもよりますし、その直前に接した他のオーラにも影響を受けます。通り道でタバコの煙をかいだだけでオーラが部分的に壊れたりしますし、オーラの状態のみで簡単にその人のことを判断できるような単純なものでもないわけです。

効果がさほど感じられなかった時、素直にそれを言うと、ヒーラーによってはイライラし始めたり、逆ギレして「貴方は成長していない」とか逆に責め立てられることすらあります。一部のヒーラーは自尊心が強く、自分がしていることは絶対に効果があると思い込んでおり、それを否定されるということは(肥大化した)エゴを否定されるということであり、エゴの拒否反応が強く出てヒステリーになったり声が大きくなったり、逆ギレしたりしてしまうのです。

素直に考えれば、被験者が効果を感じられない場合は、被験者のオーラが(ヒーラーと比べて相対的に)強いために、影響を与えることができるだけの(相対的に)強いオーラを与えることができなかった、という場合が多いと思うのです。それを、何をどうして「何も感じられなくても効果がある。何も感じられないのは被験者のスピリチュアルな成長が未熟だから(ドヤッ)」いう結果に至るのかは意味不明ではあるのですけどそう解釈してしまうようなのです。それはおそらく、ヒーラー等のエゴが強すぎて自己肯定感を高めたい、エゴを守りたい、という防衛反応として現実を受け入れられず、認知を歪めてしまい、自分のエゴを守るように都合の良いように解釈しているに過ぎないと思うのです。素直に考えれば「ああ、被験者のオーラが相対的に自分よりも強くて、影響を与えることができるだけのエネルギーを与えることができなかった。自分はまだ未熟だった。精進しなければ。」という謙虚な結論に至ると思うのですが、どうも、一部のカルト流派の人たちはそう普通に考えないようなのです。何を傲慢にも、「自分たちの施術は必ず効果がある、効果が必ずあるが故に、感じられなくても問題ない、感じられないのは被験者の問題」というように解釈してしまうのです。更には、それがエスカレートして、被験者とヒーラーの間の勝ち負けの問題、ヒエラルキーとしてのマウンティング効果も生み出します。「効果を感じられないのは被験者のスピリチュアルが未熟なのであって、よって、ヒーラーである私の方が格上だ」みたいに都合の良いように解釈してしまうのです。そして、それが言動にも表れます。この種のカルト流派の人は、被験者に対して「初心者」という言葉をよく使います。しかし、実際には、他人は自分の鏡であるとよく言うように、スピリチュアル初心者は周囲の人全てが自分より劣っているかのように認知してしまうものです。自分の姿を周囲に見ているだけなのにも関わらず、他の人が自分より劣っている、と、見下してしまうのです。それはスピリチュアル初心者にありがちな落とし穴で、よって、ヒーラーなどと称するカルトメンバーは被験者に対して「初心者」という言葉をよく使うわけですが、実際には上記の通り、被験者の方がオーラが強い、被験者の方がスピリチュアルに優れている場合など多々あるわけです。それでも、カルトのメンバーにはそのことがあまり理解できていないようです。それがカルトたる所以でしょうか。マウンティングに留まらず、カルト内部でのヒエラルキーとしての階層をも作り出します。それはスピリチュアル初心者が初心者を従えるという、愚かな階層でもあります。カルトメンバーは、「悪の組織は恐怖でヒエラルキーを作り出すが、善の組織は命令系統のヒエラルキー」みたいな言い訳をしますけど、それと同時に、「カルトに関わっていると善でカルトから抜けると悪」としているイデオロギーも同時にあって、自称は善と言いつつ、自称は「強制していない、恐怖を与えていない」と言いつつ、カルトに抜けることに対する恐怖と悪の観念を植え付けることで、直接的にではなく周辺から囲い込んでカルトから抜けられないようにしているのです。精神的な呪縛をしているという時点で、自称は善だとしても実態は悪なのではないでしょうか。

そもそも、スピリチュアルな成長とは自己の成長である筈なのに、勝ち負けの問題として捉えてしまうような人とは関わってもしょうがないのです。関わる必要のない人から逃げるのは正しいのであって、煽ってくるというのはその人にエゴが残っているということであり、「影響力を高めたい」という現れでもあるのですから、そのような(エゴによる)ヒエラルキーに組み込まれるのは愚かなことです。当人は口では「エゴではない」というでしょうが、言葉と現実が一致しているかを見るのは重要なことで、言葉で正しくても、その人の姿として正しいかどうかを見極めるにはそれなりの人生経験が必要です。

時に、そのようなヒエラルキーから逃れて自らの足で歩くことが一つのレッスンになることもあります。それもまた、自分の人生を自分の足で歩くという試練になるわけです。団体に依存している人は、そのようなレッスンを突きつけられることもありますし、はたまた、依存していることにも気づかずに隷属した一生を終えることもあります。カルト団体のメンバーというのは、他人を操ることに生きがいを感じていつつもそのことを自分や他人に対しても偽る、自分ではそんなことをしていなくて世界平和のためだとかなんとか言って誤魔化しつつ、本心のところは他人を操る快感を得たいというところに本人が気付いていない、割と幼稚な状態にあったりするわけです。

ちなみに、とある団体の代表は「世界の人は、生き残る人と消滅する人に区分される。あの○○さんは消滅組だから」とか面と向かって公言したりしていました。結局、その消滅や破滅や大災害とやらは何も起こらずに30年ほどが経ち、その間、ずっと大災害を煽り続けた挙げ句、ついに数年前にお亡くなりになってしまったようです。消滅とやらが起こる前に自分がお亡くなりになってしまったわけです。カルトの教祖の運命なんて所詮そのようなものです。煽った挙げ句、現実はというとそうなっていないか、あるいは、急に立場を変えて「自分が救った」みたいに言い出すのがオチです。好きに主張を変えるわけですから、カルト教団と関わってもあまり意味がないように思います。

30年ほど前に、とある団体は、何十年も煽り続けてそれでも何も起きない状況で、しらっと「それは皆の成長をさせるための嘘だった」とか言って態度をコロッと変えたりします。そのように態度を変えたかと思えば、またその前と同じように世界の破滅を煽りだしたのを見たときには開いた口が塞がりませんでした。言葉を好き勝手に解釈し、言葉というものに責任を取らないのもカルトの特徴です。であれば、まともにカルトの相手をしてはいけないのです。時間の無駄になります。カルトは、他人を動かすために効果のある言葉を使う、という特徴があります。他人を操ることがカルトの生きがいになっていて、そのことを自分で気付かせないように自分を騙して誤魔化して世界平和のためだとか何だとか理由をつけて、他人を操りたいというエゴを別の言葉や理屈で覆い隠すのです。こうしてカルトのメンバーのエゴが守られます。エゴが絶対に守られるようなパーフェクトゲームの状態になっているわけです。

実のところ、世界の破滅というのも、なくはないです。しかし、その種のお話はいつでもあるものです。30年前どころか、もっと前からあります。ですが、もっと良いタイムラインが存在しているとすれば、もっと良いパラレルワールドからしたら今の世界が既に地獄でありますし、あるいは、もっと悪いタイムラインのパラレルワールドから見たら今の世界は天国かもしれないわけです。ですから、そのような、破滅を煽る扇動というのは本質ではないですし、いかなる時でも平静な心を保つことができるような修行を続けるべきなわけです。その精神修行が本質であるとすれば、大災害を煽ることは本質ではないということです。

今、確かに、中国の支配やその他の極悪な勢力が日本に迫ってきています。そうして中国に日本が支配されたら、モ○○○やチ○○○のように言論統制された上で拷問も日常茶飯事になるかもしれません。そうなってしまうと、意地の悪い某国の人が「ほほう。おまえは、冷静な心があると言ったな。それがどれほどのものか、試してやろうじゃないか」と言って、スピリチュアルな人を狙い撃ちにして下等な快楽と拷問にふけるかもしれないのです。それはチベットでかつてあったことです。そういう状況が日本で再現される危険性があります。

だからと言って、対策は世界の破滅や混乱した世界を煽るカルト活動をすることではなくて、全く普通の対処である、軍備を拡充して国を守ることが必要なわけです。それには呪術的な対処も含まれますけど、カルト教団が術の真似事をしたところで効果はなくて、どこぞの変な中途半端な神霊体の力の源としてうまく使われてしまうだけの結果になることが多いように思います。カルト団体でそのような儀式に参加している人の話を聞くとレベルが低くて「できている気がする、とは言っても、できていると願いたい、願望という感じ」みたいなことを言っていたりしますので、本当に術はかかっていないように思います。土地に結界を張るとかいうのはそうそうできなくて、カルト教団で数日の高額セミナーを受けたくらいでできるようにはならないです。少なくともネイティブで生まれながらに能力がある人なら多少は可能性がありますけど、それよりも、もともとそのような役目を持って生まれてきた人、一族に任せるのが一番だと思います。よくわからないのにカルト教団に入って何かできたような気にならないことです。そのような曖昧な感触や実感というのは、ただの想像や願望であることがほとんどです。

そもそも、術をかけられる人であれば、術式や仕草というのは本来不要で、意図すればそれで終わりなわけです。その瞬時にそれは成就します。自らだけでなく、背後についている霊団と共にそれは行われ、その人が現実世界との媒介にはなりますけど、本当のところは霊団の方がやってくれます。それを何を勘違いしてカルト教団のメンバーが自分たちが術をかけているだとか思い上がっているのは嘆かわしいことのようです。それでも、勘違いしつつも一応は動いてくれることで霊団が地上に働きかけをすることができるので一応は使ってはいたりしますけど、よりよい媒体となる人がいれば次々に、次を探す、というのが現実のようです。ですから、最初は能力があるように見えてもそれがなくなったりするのはその原因の多くは傲慢さで、人が勘違いして傲慢になると能力を失う、というのは、もともとその人の能力ではなかった、媒介になっているだけだった、ということでありますから当然のことです。ある程度の本人の力というのもあって、それも必要で、それは失われることがないですけど、自分の術を使える人であればそんな勘違いをすることなく自覚があります。

団体を率いているのは神霊体というと誤解がありますけど、天狗のような半人半神のようなおぞましい存在だったりすることもあります。霊体というのはどのような姿も取ることができますので姿というのは誤魔化されてしまうことがありますが、波動を見れば全ては明らかです。いわゆる悪魔のような存在が神を語っていることも多くて、実は神も悪魔も低級の場合はそこまで違いがないのですけど、天使は人のために活動するのに対し、悪魔は自分のために働かせる、という違いがあります。そして、悪魔であるのに天使のように振る舞って、悪魔自身のエネルギーを増すために天使の儀式や神の儀式を装って人間に儀式をさせる、ということもあります。そんな状況を見抜くにはそれなりの経験か、あるいは、生まれながらのネイティブならば見抜けるかもしれません。教祖になるというのは割と人間的なことであり、そこまで崇高な存在でもないわけです。

昔から言い伝えられているように、中途半端に成長した存在が教祖になり、更に成長すると教祖にはならない、というのは正しい言い伝えだと思います。

簡単な見分け方としては、違和感があったら関わらないこと。違和感というとわかりにくいかもしれませんけど、要は「気持ち悪さ」があったら関わるのを辞めておく、ということです。時に、その背後にある教えを知るために一時的に関わることはあるにせよ、積極的に関わる必要はないと思います。

どちらにせよ、霊団との関わりと高額セミナーとは全く関係がなくて、お金を取るのは人間の都合でありますから、本当に必要な人には無償で与えられます。そもそもセミナーも不要で、霊的にそれは受け継がれます。降りてきます。文字通り、何もなくても繋がって知識や力が降りてきますので高額セミナーとか不要なわけです。人間が生活するにはお金が必要ですから多少のお金を取るのは構わないにしても、2日で50万とかは悪質のように思います。それでも受けてしまうのは、何か凄いことがあるかのように宣伝するマーケティングの上手さ、それに、世界の破滅を煽ることで使命感を駆り立てる手法の上手さが誠実で無知な人を引き寄せているわけです。ある意味、ニューエイジの引き寄せの法則や他人を操る術の集大成のようなものが行われているわけです。良いことを煽って高額セミナーを受けさせる、その手法は、ある種、感銘を受けるものがあります(皮肉です)。

背後で多少ながら手引きしている宇宙人あるいは宇宙人のふりをしている霊的存在は、実のところ、このあたりに無頓着で、人間の小賢しい小細工や欲望はよくわからないのです。そのくらい、欲望のないところに生きています。と言いますのも、高次の存在というのは人間のこのような低級なずる賢い願望や欲望には無頓着ですので、あまりよくわかっていないようです。傍目から見ている人間としては、このような姿を見て宇宙人や高次の存在が嘆いていないかと心配になってしまうわけですけど、そう思って私が上の存在に尋ねてみたところ、そのような回答がありました。でありますから、カルト教団が宇宙人や高次の存在の真っ直ぐな思いをお金儲けのネタに変えてしまうわけです。高次の存在の純粋な思いと行動が、無知で欲深い人間に搾取されることで広がらない、誤解されて伝わってしまう、という嘆かわしい状況になっているわけです。高次の世界や宇宙には元々お金なんてありませんし、高次の存在はそんな高額セミナーなんて意図していなくて、無料でも何でも興味ある人に幅広く受けてほしいと願っているようです。しかし、カルト教団がその活動を囲い込んで高額セミナーにしてしまうことで、幅が広がらず、内容もねじ曲げられてしまっているようです。カルト教団は広めたいと当然のことながら思っているわけですが、純粋な思いも当然ながら多少はあるのはそうですが、それに加えてお金儲けが半分であり、そうなると高次の純粋な思いは間違って伝えられてしまうわけです。高次の存在はその機微には無頓着で、高次の存在というのは地上の細かいことはよくわからないので、話が変になるわけです。

セミナーを受けても高次の元々の部分だけ受け取る、というフィルターがかけられる人ならば良いですけど、往々にしてカルト教団が勝手に解釈したものを教えたりしていますので、なかなか元の教えというところに行き着かないのです。どれが元の教えだったのか判別することが困難にもなっていたりします。

そのように、元の教えがねじ曲げられ、人間の勝手な解釈が教義として定着してくると、高次の意図しているような団体ではなくなっていきます。支援している地上の団体の活動が上手くいかず、カルト化してくると、時間がかかりつつも、ようやく高次の存在も変だと言うことに気づき、それと加えて、高次の存在というのは基本的には霊的な存在ではあるものの、時折、分霊が分離して転生をすることで「目」「耳」となり、実際どうなっているのかを観察する、ということも行われます。その「目」「耳」の役割を持った人、高次の存在の分霊が実際にそのカルト教団に観察にやってきて、時に客観的、時に主観的に判断を下し、その印象を分霊の大本たるグループソウルとも言える親の霊的存在にテレパシー等でフィードバックするのです。そうすることで、高次から見ているとよくわからない、実態の部分が事細かに観察されて高次の存在にその状況がよく伝わることになります。

その結果、カルト教団はもう駄目だということになれば手を引き、新たな媒体を探すことになります。こうしてカルト教団は支援を失い、単なる形式だけが残ります。そして、新たな団体が高次の存在の支援を受けて活性化することとなります。昔からこの種のカルト化と新たな振興とが繰り返されてきたわけです。最近でも幾つもの団体がカルト化し、世の中の利益と言いつつ教団の利益を追求し、本質を見失うことで神の保護を失ったりしています。そうして、最近は新たな動きも出てきています。

最初は、カルト教団と高次の存在との間での「揺らぎ」により、高次の存在あるいは霊団の加護が不確かなものになります。繋がりが弱まります。そして、時折結ばれて、時には霊団との繋がりがなくなる、という不安定な時を経て、やはては完全に霊団の加護がなくなります。そうして、霊団の加護を失った単なるカルト集団だけが残ります。教義だけはあり、加護は失うのです。人間としての「型」と教義だけが残ります。

そのように、団体にしてしまうとエゴのヒエラルキーが生まれ、カルト化し、高次の存在・霊団の加護を失う結果になる傾向があるように思うのです。それよりも、ある種の個人的な関わりがたまたま広がる、という形式の集まりや、団体であってもそのようなところを基礎にしていない霊的な系統は繋がらないように思います。団体としてのヒエラルキーが主になってしまうと形だけのカルト教団になってしまうわけです。

こうして、多くの失敗を経て、レッスンになるのは、団体にしてしまうと良くないのでは、失敗する傾向があるのでは、ということです。ブッダにしても最初は教団というよりブッダと弟子の個人的な関係だったかと思います。キリストもそうでした。ブッダやキリストは宗教を作りませんでした。団体はグルがいる間は活動の基盤として必要かと思いますが、その後、教団となって存続するのはなかなか困難があると思うのです。教祖が弟子に宗教を作ることを禁止して1代限りにしている宗教も時折ありますが、それは割と本質がわかっているグルかもしれません。

鍵となるのは個人であり、教団ではありません。個人が本質を学び、教団に頼りきることなく、教団で学ぶことはあっても隷属せず、個人の力で歩む姿勢こそが、新たなスピリチュアルの風潮を作るように思います。


(最後に補足ですが、そのような団体の中には、高額の受講料を捻出させるために「自身のスピリチュアルの成長のため」などと説得した上で夜のお店に(おそらくキックバック付で)受講希望者を売り飛ばすようなところもあるようです。恐ろしいです。ただ単にカルト化するに留まらず、受講生を食い物にしている人もスピ業界にはいるようです。気をつけなくてはなりません。)