盲目の無知の状態からの脱却の過程

2023-10-28 記載
トピックスピリチュアル

(11/26更新)

▪️感情の安定(=アストラル界に相当) 15〜20年
1.何がしかに集中している時に稀に起こるゾーンの歓喜(年に1回あるかないか)数年〜
2.ゾーンの歓喜の頻度の増加(数ヶ月に1度)数年〜
3.ゾーンの歓喜の日常化(数日に1度)数年〜
4.ゾーンの歓喜の安定(起伏が少なくなり安定)数年〜
5.ゾーンの歓喜の日常生活(何がしかに集中していなくても平常状態としてそれなりの歓喜の状態になる)数年〜

ここまでが、瞑想で言われている「シャマタ(集中)」の段階。ヨーガスートラでいう「ダーラナ(集中)」の段階にも相当します。

趣味や学習、はたまた瞑想などにおける集中を繰り返したことにふと起こる極度の歓喜がゾーンであり、盲目の無知の状態からの脱却の鍵になります。それは感情的な高ぶりであり、とてつもない幸福感を伴います。仕事などの効率も上がります。囚われの苦しい状態からの一時的な脱却が心理的に発生しますが、やがて、ゾーンが終わることによりその歓喜は去っていきます。最初は数年に1度あるかないかですが、それはやがて頻度が増え、次第に安定し、その歓喜が日常生活にまで広がっていきます。

紛らわしいですが「ヴィパッサナー瞑想」と言う名の下に行われている「観察」も実は最初は同じことで、この「シャマタ(集中)」「ダーラナ(集中)」と同じ段階を踏みます。

私の経験で言いますと、最初のゾーンの歓喜は中学や高校時代にプログラミングでゲーム(MSXという当時あった家庭用コンピュータで機械語(アセンブラ)によるシューティングゲーム)を作っている時に時折訪れました。集中して色々なことを考えて作っていると、時折、とてつもない歓喜と共に理解が訪れてうまく素早くプログラミングが出来たように思うのです。大体30年くらい前のことです。その後、大学に入って卒業して就職してIT系の仕事をするにつれてプログラミングをしている時のゾーンの歓喜の頻度が上がり、ゾーンに至ると理解度も作業速度も一気にアップしてブーストされましたので、単にスピリチュアルというだけでなく、仕事にも役立ちました。これが大体、大雑把に言って15年間くらい(中高時代から30代前半まで、34歳くらいまで?)に相当したように思います。まだまだ深いところではメンタルに問題や課題が残りつつも、この段階で、とりあえずの感情の段階はひと段落ついたと言えます。おそらく生きている以上は100%解消というのはありませんし、最近になってもまだ微細なところで日々感情の解消というのは今でも行なっているわけですが、大きなところでの感情の段階の解消というのはこの時点で達成できた、と言っても良いかと思います。この段階ではまだまだトラウマ的なものはかなり残っていますが、それでも、集中によるゾーンの歓喜と、日常生活におけるある程度のゾーンの歓喜の継続というのは達せられたわけです。生活面では、これら感情の段階に対処していた時代はIT受注開発系の(モラハラやパワハラがあるような)会社で勤めていて、分相応なところで働いていたように思います。メンタル的にこれらの感情的な段階から卒業するとほぼ同タイミングで、もう少し落ち着いた会社に転職しました。これもまた、段階としては分相応だったように思うのです。

当時、パソコンだとかITでは業界的に速さだとかモノ消費が盛んに喧伝されていましたけど、目に見えるところは本質ではなくて、集中して何かをして成し遂げることによる歓喜が大切で、それが仕事にせよ趣味にせよスピリチュアルにせよ全ての基礎になると思うのです。

スピリチュアルであれこれ言われていますけど、この基礎ができているかどうかでかなり違いが出てくるように思うのです。

ですから、「良い現実を引き寄せる」系のキラキラスピリチュアルに私は懐疑的で、努力せずにそんなことは起こらない、あってもたまたまだと思うわけです。

とは言いましても、特に女性の場合、生まれた時から既に途中この段階の途中あるいは卒業している場合もあるかと思います。その場合、見た目上はそれまでに何も努力していないように見えても基礎が実はあるわけで、そういう人は集中力もありますし勉強やスポーツも良くできたりします。


▪️ゾーンでは体の重さを忘れる。

ゾーンになると、(対象との一体感と共に)「体がなくなった感じ」「非常に軽くなった感覚」になって、爽快感に満ちた状態になります。

ゾーンですから一時的なものであったとしても高ぶる感情と共に歓喜に包まれ、集中による対象との一体感と共に深い理解に(一時的に)達し、それにより、「体を忘れる」感覚になって、その時は、文字通り、意識は対象との一体感の感覚だけになっていますので、その状態では「体の重さを認識していない状態(忘れている状態、とも言える)」になっているわけです。ですから、体の重さを、重いとも軽いとも感じず、ただ、軽やかな感覚と共に意識は「対象」と一体になっているのです。その「一体感」の状態においては体重のことなど気にかけることもなく、心の中はただ対象に対する「理解」に包まれているわけです。

これは、客観的に見ると「体重がない」とか「非常に軽い」ということもできますが、実際、このゾーンの状態になってみると体重がどうだとかいうことは全くどうでも良いお話であって、確かに、ヨーガの段階の説明などで「体重が軽くなる」みたいなお話がありますので一応、説明として、このくらいの段階で体重は感じられなくなる、とお話をしているくらいのものであって、実際、体重がどうのこうのこうの、というお話は些末なことなわけです。

時々、ヨーガの修行をしている人で「体重がない感じになった」「体を忘れた感じになった」とか言って、あたかもそれが高い境地に達したかのようにいう人がいますけど、それは、常時その状態にあるのであればカーラナ(原因、コーザル)の世界(あるいはそれ以上)にいるということでそれなりの境地ではありますが、ゾーンのように時々、一時的にそのようになるということであれば感情の世界であるアストラル界における一体感を一時的に感じているというくらいのことであり、それほどのことでもないわけです。一般人であっても、修行をしていなくても、そのくらいのゾーンの歓喜に至ることもあります。

もっと修行が進んだ場合、ヨーガや仏教はたまたスピリチュアルで本当に優れた人は文字通り物理的に空中に浮くことができて、そのくらいになりますと(割と)本物といえますが(私はまだまだそこまで達していないですが)、(感覚の上で)体が軽いだとか体がなくなった感じ、とか言うのは、(一時的なものであるならば尚更)そこまででもないと言えます。

実際のところ、普段の生活において体重の重さを感じてるからこそ時折ゾーンに入ったり瞑想に入ったりして「体がなくなった感じ」になるとあたかもそれが特別なことのように感じられるわけですが、普段からその状態で暮らしている人にとっては(そもそも体重さというものが何なのかどう言うことなのか最初から知りませんから)「何のこっちゃ」なわけです。もともとそのような「体の重さ」を感じたことがない人が「体の重さをなくす」とか言われても理解できるわけもないでしょう。「さて、ヨーガ言われている、体の重さをなくす、だとか、体がない感じ、だとか、それは一体、どう言うことでしょう?」と思うだけのことです。前提が違うのに、何やら、周囲からあれこれ言われて混乱して迷っている場合も稀にあるように思うのです。そもそも、もともと「体の重さ」を感じていないのであれば「体の重さをなくす」だとか「体がなくなった感じ」と言うのがわからないのでありますから、実際のところ、最初から軽い感覚で生きている人が、ヨーガのグルが「体が無くなった感じがします」とか言っているのを見て「凄いグルだ」とか言っているのを見ますけど、私が客観的に見ると、時々、面白いことがあって、グルと弟子とのスピリチュアルの進歩の階梯が逆転しているのです。これは、非常に興味深い現象です。実のところ、人間の認知というのは基本が「投影」ですから、自分の姿をグルの中に見ているのです。

・(体の重さがあることを前提に)まだ重さの中に生きている人
・(体の重さがあることを前提に)時々、ゾーンや瞑想で体がなくなった感じ、体が軽い感じになることができる人
・(もともと、体の重さなんてものを感じていないことを前提に、「体の重さ」だとか「体が軽くなる」と言うことの意味を分からずに)凄そうなグルが「体がなくなった感じ」と言っているのを真に受けて「なにそれ?」と驚いたり拝めている人 (これは非常に興味深い状況です。「投影」として、本当は自分がその境地にいることをグルの中に投影して見ているのです。)

どちらにせよ、ゾーンに(一時的にでも)なってアストラルの感情の世界を抜ける(=感情の世界における一体感を感じる)と体が軽くなって、体がなくなった感じになって、(もともと悩みのない人は最初から体が軽くて)、感情にせよ体にせよ、非常に軽やかな感覚になります(あるいは最初からそのような感覚で生きています)。


▪️脱力の世界

ゾーンが安定して歓喜が安定してきた状態とは、脱力の世界でもあります。それは努力しない努力とも称され、矛盾かのような表現によってよく表されます。前提としているのはあくまでもゾーンでありますから基礎として集中があるのですが、それでも、ゾーンが安定した状態というのは「努力」としての集中は(その深まりの度合いにもよりますが)いらないというのが基本であって、よって、努力のいらない状態、というのは、表現としてはそうなのですけど、実のところ、基礎としては努力による集中が前段階としてあるわけです。

最初は努力によって支えられているゾーンですけど、やがて、ゾーンの頻度が上がってきて安定してくるとゾーンの歓喜が少しづつ日常生活に広がって、それが当たり前になってくるともはや「努力」は一見すると不要に見えたりもするのですけど実は努力による集中が基礎となっているわけです。

ですから、何某かに精通した達人やら名人やらが「脱力することが大事」だとか「努力はしない」などと言っていてもそれを文字通り真に受けずにその意味を理解することが必要で、文字通り「ああ、努力しなくていいんだ」と思っただけならば本当の意味を取り違えてしまっているということで、それが意味するのは、集中のゾーンの歓喜が安定した状態のことを言っているわけです。

この辺りは割と種明かしのようなもので、こうして説明してしまうと探究の答えを言っているようなもので(人によっては)ネタバレになってしまってつまらないとも言えるのですが、昨今は答えばかりを求めて自分で考えない人も多いわけで、答えをきっちりと言うのも必要かなぁ、とも思うわけです。

本来、この辺り、何某かのエキスパートになるには「何事も、自らの目と手と足を使って頭で頭で考える」ことにより真実かどうかを確かめて、それで得た結果を真実として受け入れるという、「自分の目でしっかりと見て、自分の頭できちんと考える」と言う姿勢が必要なのであって、そうであれば、こんなことを解説してもらわなくても自分で見出すわけです。

達人に「脱力」だとか「努力しない」とか言われて「ああ、そうなんだ!」と単純に喜んでしまうと「努力しない阿呆」になるだけなので、自分できちんと考える人であればすぐに「あれ。何か違うな」と気付くわけですけど、世の中には気付けない人もそれなりにいるわけです。

どちらにせよ、(集中を基礎とする)ゾーンが安定してくると歓喜が安定してきて、(努力が当たり前になることにより、努力しない努力の状態になり)普段の日常生活の状態で歓喜が当たり前のものになり、それが「脱力」「努力しない」とも比喩されるようになるわけです。

この状態が、スピリチュアルの、最初の段階の一つの達成であると言えます。

それなりにエキスパートになって、それなりに「達成された」状態であり、世間一般的に、この段階に達すればそれだけで普通の日常生活は十分に活力あるものとして生活することができます。この段階だけでも、達成としては割と十分とも言えます。

そして、これは(集中によるゾーンの)達成でもあり、次の段階の基礎とも言えるわけですが、この(次の段階の)基礎があるかないかで、スピリチュアルの次の段階へ進むことができるのかが決まってくると思うのです。


▪️カーラナの世界(コーザル界、原因)

上記の感情的な起伏の安定により歓喜が日常的になると、そこでようやく「原因」の世界に入る準備が出来ます。この言い方はスピリチュアルでコーザル界(英語的、神智学的な言い方)あるいはカーラナ界(サンスクリット)などと言われている領域で、それは日本語では「原因」に相当して、まだ神様のワンネスには到達していないけれども、物質界の中で感情の領域を超えて原理的なところ、幾何学的なところ、論理、理屈、理解の世界に相当します。

まず第一に上記の感情の段階を経ないとこの段階の「理解」は不十分なものになって、そもそも準備が出来ていない人もスピリチュアルをやっている人には多いわけですけど、それでも一応は「頭」での理解はできてしまうので頭でっかちになってしまう人も多く、そうなると、まだ感情の世界を抜けきれていないのにこの「原因」の世界の段階にいるかのような錯覚を覚えてしまう人もいますから注意が必要です。

スピリチュアルをやっている場合、ほぼ90%以上が最初のアストラルの段階ですから、実は、この「原因(コーザル、カーラナ)」の段階に至る人は稀です。

最初の段階である感情の起伏が落ち着き、安定してくると、それでようやく、次の段階に至る準備が出来たことになります。

1.「もう1つの心」あるいはハイヤーセルフとも比喩される、上位の意識があることに気付く。普通の思考する顕在意識(論理的な思考、マインド)とは別に、感覚的な上位の意識が存在していることを瞑想中などに知覚する。これが「ヴィパッサナー(観察)」の始まり。初期の段階のディヤーナ(瞑想)あるいは基本的なサマーディ(三昧)。
2.「もう1つの心」と対話する、メッセージをもらう、贈り物をもらう。気持ちを交換し合う。
3.「もう1つの心」と混ざり合う。顕在意識(マインド)と、高次の意識との(少しづつの)融合が進む。
4.「静寂の意識」(の入り口)に達する。

理屈から言っても、現実から言っても、この種の「もう1つの心」があると言うのは幻想であり、元々があまりにも分離した意識だったがために思考するマインド(いわゆる普通の顕在意識)とは別の心(高次の意識)が別に存在するかのように見える段階がありますが、それは割と過渡的なもので、最初は別々のように見えるだけで、次第に、その意識は一つのものとして統合されていきます。

こうすることで、日常生活にまで高次の意識が広がっていくことを感じます。

この段階は、文字的な意味合いにおける「ヴィパッサナー(観察)」に相当します(流派ややり方としてのヴィパッサナー瞑想のことではなく)。それがそのまま、本当の瞑想(ダーラナ)、サマーディ(三昧)(の初期の段階)に相当するわけです。

これらの段階のどこかで、クンダリーニと称されるようなエネルギーのことを感じるかもしれませんし、そうでないかもしれません。大抵の場合、クンダリーニそのものが目覚めたわけではなく幾つかの体の中のエネルギー・ルート(ヨーガでいうナディ)が目覚めて(その詰まりがある程度取れて)エネルギーが通りやすくなった、急に通るようになった、あるいは少しづつ通りやすくなった、という程度のもので、クンダリーニのシャクティ(エネルギー)が少し通り始めた、という程度のお話がほとんどかと思います。どちらにせよ、これらの段階のどこかで、エネルギー量が増えて、生活が活発なものになります。

ここまで来れば、(普通の人にとっては)スピリチュアルの一般的なお話は(とりあえずは)もう十分すぎるほど十分と言っていいと思います。ここまででも、十分に人生を幸せに心安らかに生きることができます。

この先は、高次の意識であるプルシャ(神霊)との融合だとか、クンダリーニだとか色々あるにせよ、基本的には、ここまできて静寂の意識(深さは色々あるにせよ)に達すれば、とりあえずスピリチュアルな成長としてはひとまず十分なのではないかと思うのです。

ですから、スピリチュアルで色々と勉強するのは良いですが、まず第一に、何がしかに集中してゾーンに至ることです。それが何よりの基礎になります。

趣味でも構いませんし仕事、はたまた勉強でも構わないわけです。ゾーンの頻度が増え、ゾーンが安定し、歓喜が安定することにより自らの奥底に眠っていた感情的な遺恨が解消され、浄化されていきます。感情の段階として一つ一つそれらの眠っている感情を感じてゾーンの中で解消していくわけです。

この段階はヨーガでは「カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)」と称されることもあります。これは無償の奉仕と解釈されることが多いですが、元々の意味としては別に無償である必要はなくて、単に、行為に対して結果を求めない、結果は神様に委ねる、結果を予測はするが結果は自分ではコントロールできない、という、割と当たり前のお話でもあって、無償かどうかはほとんど関係がないわけです。そのような、カルマ・ヨーガによっても最初は感情的な歓喜を伴って感情の起伏が落ち着いて平穏な状態に至って初めて次の段階へと進むわけです。

スピリチュアルな流派に入っていたりしますとそれだけで自分の修行が進んだかのように勘違いをしてしまうことが多々ありますけど、スピリチュアルな団体にどれだけ長く所属していたかどうかはあまり関係がなくて、趣味にせよ仕事にせよ瞑想にせよカルマ・ヨーガの奉仕にせよ、何であっても構いませんので対象に極度に集中してゾーンの歓喜に至ることができるまで一生懸命何かに打ち込んだかどうかがスピリチュアルの基礎になって、そこでゾーンの歓喜に達することができたなら、そのゾーンの歓喜を少しづつ広げていって日常にすれば良いのです。それがスピリチュアルの基礎になって、もし瞑想などをすればその先の段階に進むかもしれませんしそうでもないかもしれませんが、少なくともゾーンの歓喜というものは誰しもが望むはずのものでそれによって何ら害を受けませんので、スピリチュアルどうこうを抜きにしてもまずはゾーンの歓喜を目指されるのも宜しいかと思います。ゾーンの歓喜自体は特にスピリチュアルなことを意識せずとも何がしかに集中しさえすれば達せられますので、趣味でも何でも構いませんので、まずはとにかく集中すること、それがスピリチュアルな基礎になるわけです。

人によっては生まれたままの状態で既に最初の感情的な段階をクリアしていたりしますからいきなりその先の段階というお話もなくはなくて、あるいは、子供の頃から感情的な問題を避けまくってきた場合は感情的な問題への対処方法を知らずして先の段階、ということもあるかもしれません。はたまた、まだ感情的な問題をクリアしていないのにも関わらず先の段階へと手をつけてしまっている場合もあるわけです。もともと(生まれながらに)感情的な対処への課題をクリアしている場合(レアケース)を除き、単に避けてきた場合あるいは飛び越して先に進んでしまった場合は、感情的な問題に遭遇すると対処方法がわからなくてヒステリーになったりするという、「キレやすいスピリチュアル」「怒りの沸点が低いスピリチュアル」になったりするわけです。ですから(前世などで)対処済というレアケースを除いては、基本的に、感情的な問題を(何がしかに集中して取り込むことで)ゾーンの歓喜で解決してから先に進むのが基本であるわけです。そのように個人的には思います。

ゾーンの歓喜を仕事で達成した人は仕事に重きを置き、趣味で達成した人は趣味に重きを置き、修行で達成した人は修行に重きを置きます。スポーツもまた然りです。ですから、例えば瞑想をしている人は(ゾーンの歓喜により)瞑想に重きを置いたり、(体を動かすアーサナの)ヨーガで(ゾーンの歓喜を)達成した人はヨーガを重視したりするわけです。実のところ、このゾーンの歓喜ということにおいては仕事や趣味あるいはスポーツなど種類は問わないように思います。

ゾーンの歓喜(の安定)を超えて次に進む場合はスピリチュアルな手法の何某かが必要のように思いますが、一般的にはゾーンの歓喜およびその安定までで割と十分で、そうであれば、興味あることや仕事、はたまた勉強などに熱心に取り組めばそれで良いように思うのです。

であれば、特に不思議なことはなくて、一般的に社会で言われていることがそのままここでも通用して、努力して勉強したり練習したりすればそれが報われるという、当たり前のことだったりするわけです。これは必ずしもお金や物質として得られるわけではありませんが、感覚としてゾーンの歓喜が得られますので、それは誰に頼ることもなく自分自身の中から発生しますから、努力して集中しさえすればやがて得られるものです。

この社会では、お金を稼ぐことが重要視されていて、お金を稼げないことは無価値のように思われている風潮がありますが、このゾーンの歓喜は努力によってのみ達成することができて、それはうまく活用すればお金稼ぎや仕事の結果にも結びつくことができますけど、とは言いましてもゾーンの歓喜自体はお金には直接は関係がなくて、自分が努力しさえすれば達成できることなわけです。ですから子供が(子供ですからもちろんお金抜きに)努力すれば到達できますし、趣味でも(趣味ですからもちろんお金抜きに)達成できますし、勉強でももちろん達成できますし、スポーツでも、仕事でも、何でも努力すればゾーンの換気に至ることができるわけです。

この社会においては誰しもが勉強したり仕事をするわけですから、その勉強なり仕事なりで努力してゾーンに至るのが一番簡単で、日常生活のうち多くの時間をそれらに費やすわけですから社会生活を送る中で、義務として行なっていることをそのまま利用してゾーンの歓喜に至ることができれば一石二鳥なわけです。

スピリチュアルどうこう関係なくゾーンの歓喜はそれ自体で感情的にも葛藤が解決しますし超集中状態になることで成果としても上がり、良いこと尽くめなわけです。

この、ゾーンの歓喜が安定する状態こそが、無知の盲目の状態から脱却した状態とも言える状態なわけです。スピリチュアル的にはまだまだ先はあるとしても、脱却ということであれば、この段階がそれに相当するように思います。スピリチュアルとは関係なしにこのゾーンの歓喜はメリットが多いため、一般的にお勧めできるお話でもあります。

こういうお話をすると、楽してより良い現実を生きたい「引き寄せ系」の人がガッカリするかもしれませんけど、確かに、ゾーンの歓喜が安定して「努力なし」の状態になりさえすれば、そのことはそこまで間違いでもないわけです。ですが、ゾーンの歓喜の安定に至るには極度の努力と集中が必要、というお話であります。まずは集中して、「努力なしの努力」「脱力」の状態になれば、確かに、「引き寄せの法則」というのもそれなりに生きてくるお話ではあります。ですが、そこに達していないのであれば「引き寄せの法則」は役に立たないわけです。

どちらにせよ、まずは努力して集中して「ゾーンの歓喜」に至るのが第一なわけです。