自らの過去の不徳な行為の記憶を浄化する

2023-10-24 記
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

これは体のオーラとして記憶が記録され、それは緊張として具体的な現象として現れますが、普段は気が付かず体の中に眠っています。それがふと表に現れると、時にトラウマになったり、はたまた、単なる「良くない記憶」として蘇ってくるわけです。

トラウマの場合は何度も何度もそれにとらわれたり、良くない記憶であれば、それは忘れようとしたり、はたまた、再度それを体験して乗り越えようとするかもしれません。それが普通のことかなと思います。

はたまた、スピリチュアルの流派によっては、それを「取り除く」ことで解消しようとします。実のところ、この「取り除く」系とは別に、「ありのまま」を受け入れる系のスピリチュアルの流派も存在しています。

これらは、同じように見えて、かなりの異なるやり方と考え方に基づいています。そして、その結果もそれなりに変わってきます。

▪️問題
・トラウマ
・不徳な自らの記憶

▪️解消方法
・取り除く
・ありのままを受け入れる

「取り除く」系の流派は、文字通り、取り除いて、それで解決とします。「ありのまま」を受け入れる系にしても、文字通り、問題となった現象や記憶を受け入れることで解消します。

実のところ、人によってはこれら2つがごっちゃになっていて区別がついていなかったり混ぜこぜにしていますが、本来、これらの流派はそれぞれ異なる考えの元、そのようにしているように思うのです。

とは言いつつも、かなりの強烈なトラウマの場合は、ある程度までは取り除く方が良いと思います。そして、残りの部分は「ありのまま」を受け入れるわけです。最初から強烈なトラウマを取り入れるのは難易度が高く、時間もかかりますので、大きなトラウマは取り除く方が良いと思うわけです。

この辺り、流派によってはそれぞれ異なったやり方をしますので、強烈なトラウマであっても「ありのまま」を受けれるべきとする流派もありますし、また、逆に、微細な不徳な記憶であっても「取り除く」ことが良いと考える流派もあるかと思います。

実のところ、この世界というのは「法則」で成り立っていますので、不徳な行動をしたのであればその原因となった行為、法則が存在していますので、ただ単にトラウマや不得な記憶を取り除いただけで「法則」を理解していない場合は、行為・法則の原理により、再度、同じ現象が現れてきて、またもや同じ不得な行動をしてしまったり、トラウマの原因を作り出してしまいます。

ですから、原因を「理解」することは重要で、そのために、大きなトラウマの場合は最初から「取り除いて」しまうとその重大さを過小評価してしまうことがありますのでもしかしたら取り除かない方が良いかもしれず、小さな不得な記憶にしても、それすらも取り除いてしまうと「理解」ができない可能性があるわけです。

そのため、基本は「ありのまま」を受け入れて、理解する方が良いかとは思うのですけど、そうは言いましても日常生活を送る上で障害になるのであれば、ある程度は「取り除く」ことも必要な場合もあるかとは思います。日常生活の支障にならない程度で不得な思いは「ありのまま」を受け入れて解消するのが良いように思います。

「取り除く」系のスピリチュアルの流派は「結界」を扱い、「分離」しつつ自らの波動を良い状態に保とうとする傾向があります。

一方、「ありのまま」系のスピリチュアルは(結界ではなく)ワンネスを目指します。

考え方にせよ、やり方にせよ、違いがあるわけです。


どちらも似たようなことを言っている場合もあり、混ぜこぜで、区別がついていない場合もありますが、「取り除く」系と「ありのまま」系とは本来、違う流派のように思われるわけです。

実のところ、波動が高まってくると、不得な記憶が蘇ってきても、それを「ありのまま」に受け入れるだけで解消し、リラックスが深まり、緊張が少しほぐれ、オーラが少し広がるように思うのです。

「ありのまま」とは言っても、説明のために一応はそういう言葉を使っているだけで、実のところ、状況はもっと単純です。

記憶から何か不得な思いが蘇ってきて、一瞬、心の中にそれが現れます。そうすると、「あぁ、そんなこともあったな・・・。私の行動はあまり良くなかった。今から思えば、ちょっと恥ずかしいことをしたな。もっとこうすべきだったかな・・・」と状況を受け入れると、その記憶は解消され、リラックスが深まり、緊張が少しほぐれ、オーラが少し強まって広がるわけです。そのくらいのことで、特にその時に「ありのまま」という言葉が出てくるわけでもなく、この現象を説明するなら「ありのまま」かな、というくらいで、実のところ、状況を思い出してよく見て理解して解消する、というお話なわけです。

それはとても簡単なことで、この状態になると、「取り除く系」の流派がやっているような「良くないオーラを取り除いてピカピカのオーラにする」だとか「結界を張って守る」なんて面倒なことは基本的には不要になります。何事も例外はあるもので、特殊なケースにそのようなことも必要になったりもしますが、そのように「自分を守る」という行為は、ただ単に面倒なだけ、というくらいになるわけです。

「取り除く系(=結界を張る系)」は、自分を守るためにとてつもない努力を必要としますから、かなり大変です。自分の波動が高くなっても、それを守るために相応の努力が必要になるわけです。

一方、「ありのまま」系は気軽で、(結界などは)特にすることはなく、「自然」のままで自動的に(オーラなどの)問題が解消していきます。この方が簡単な人生であるように思います。

瞑想で、記憶が蘇ってきます。そして、それを見ても、ありのままでいるだけで解消します。記憶をきちんと見て、しかるべき理解が表れて、次に同じようにしない、という行動の指針を得て、それによりオーラの状態を理解し、許されます。

その、体にこびりついていたオーラは、時に、自分のオーラではなく、相手からイライラや怒りがやってきて体についてしまったものである場合もあります。この場合でも、その相手の怒りやイライラを理解してあげることで、その、こびりついていたオーラが解消して離れていきます。

同様に、こびりついている相手のオーラを、「取り除く」系の流派の人は文字通り取り除くことで解消しようとします。ですが、その場合、問題の本筋を理解していないため、同様の現象が現れてきて、また同じような行動を取ってしまい、相手を怒らせ、トラウマを抱えてしまう可能性もあるわけです。この場合、具合的な現象としては、スピリチュアルを勉強しているのに何故か不思議と「キレやすくなる」「怒りの沸点が下がる」「周囲の悪い影響を受けやすい」という状況になったりします。

それよりは、理解して、問題の根本的な解消を目指した方が長期的な解決になるように思うのです。

ある程度になると、自然に、まるで歩いているだけのように、はたまた、(とある流派の比喩に基づくと)「水滴が太陽の光を浴びて蒸発するように」「海に降ると同時に溶ける雪」(「虹と水晶」P165より)という表現がぴったりなほど自然に記憶のほつれが解けていくように思います。