心を混乱させること、それ自体が呪縛である

2023-05-13 記載
トピック:スピリチュアル: 回想録

インナーゲームの呪縛無農薬をうたう詐欺師の実例で見てきましたように、他人を操作するための根幹はというと他人を混乱させることであり、妬みや恨み、眩しいばかりの輝かしさを見せつけて渇望の念を抱かせ、そのことで心の中を一杯にし、混乱させ、消費させたりマーケターが望むような行動を消費者に取らせるところに本懐があるわけです。

もちろん、社交辞令に優れたこの世界の優秀な人たちは気づいていてもこんなことをおくびにも出さないか、あるいは、そもそもこの根幹に気づいていなくてマーケティングをしている人たちも多いのだと思います。

手法としては様々なものが使われますが、そのゴールとしては、他人を混乱させることにあるわけです。そして混乱した人は周囲からの刺激という名の遠回しの指示に容易に従うようになりますから、マーケターの思うような行動を消費者が取るようになります。

社交辞令としては「世間に貢献する」だとか「幸せな人生を作り出す」だとか美辞麗句が並びますけど、本当にそう思ってやっている人も大勢いるわけですが、手法としてのマーケティングの本懐は他人をそれと気づかせないまま混乱させて操作するところにあるわけです。

実のところ、この本懐というのは長らく隠されてきて、わかっていても言わない、指摘されても否定する、というのがお約束になっていますから、わざわざマーケターに指摘するのは野暮というものです。そもそもこの本性に気がついていない場合は真面目に否定してきますし、一方、気づいてしまったらマーケターはもうできなくなるかあるいは他人への操作を強化するかのいずれかですから、どちらにせよ、既存のマーケターにこの種類のお話を指摘しても無駄で、そもそも指摘すること自体が野暮なのです。

・気づいていない人、真面目な人
・気づいたが続ける人、偽善
・気づいたために続けることができなくなった人、真面目な人

という分類になるわけですから、マーケターを続けている人に何を言っても真面目に否定されるか、あるいは、場合によってはブチギレてとうとうと壮大なビジョンを語られたりしますから、そもそも指摘するのは野暮なお話なわけです。

そして、真面目だがこの根幹に気がついていない人が世間のマスコミで取り上げられ、ヒーローとして祭り上げられます。そして、その一方で、その煽りの混乱を利用して自分の利益を享受しようとする多くの偽善者が商売をしているわけです。

ある程度の社会人経験を積むと、他人を操作しようとしたり極端な利益を得ようとしようとしている狡い人は顔を見れば詐欺師の一面が現れていますので明らかにそれとわかるわけです。表情に最初から明確に出ているわけですから、そもそも、最初から関わらない方が良いのです。

世間には、他人を操作して喜ぶ人というのがかなりの一定数いますから、他人を操作しようとしてヘラヘラと偽善者と詐欺師の笑顔をしているような人には近付かない方が良いのです。その種の人たちは、それなりの割合で「面白い」という言葉を、他人を混乱させて操作できる状態にできたことに対する賛美として自画自賛します。例えば、人々を煽ることができるテレビ番組を作り出すことができたプロデューサーは「面白い」という言葉を使って視聴率が高いことを理由に自己肯定感を高めるわけですが、それをされた世間の人々は混乱し、あるいは煽られて、ひたすらに消費に駆り立てられるわけです。

この、「面白い」というキーワードはテレビだけでなく、マーケターや、起業家においても、うまく他人を煽ることができて自分の利益あるいは全体の利益に供与できたことに対する賛美の言葉として使われます。人々が煽られることで確かに利益としては上がりますし、一見すると人々が喜んでいるかのように見えて自己肯定感も高まりますけど、そもそも煽らなければ人々は不幸な心理状況に陥らなかったわけですので、そもそも、ありもしない問題を焚き付けてそれを消すための商品を目の前に提示することで消費させ、そのことで人々が一時的に幸せになったかのような錯覚を感じる一方ですぐに新たな不幸がやってきて、マーケターはその混乱した人々の前に次々と新しい商品を提示させて消費を駆り立てるわけです。人々は熱狂して新商品を賛美したりもしますけど、そもそも、不幸な心理状況というものがなければそのような一時的な茶番劇のような喜劇は必要ないわけです。

本当に必要な商品というものはあって人知れず世に出ていますけどそれは煽ることなく人々に受け入れられますがそこまで売れることはなく、一方、必要な気はするけれども何かキラキラしていて胡散臭い商品がマーケターによって煽られて混乱した人々に大量に売りつけられているわけです。

こうして大量生産と大量消費の社会が継続していくわけですが、このような社会は人々が愚かになる一方で、未来はないと思います。

多くの人は、このような構造に気が付いた時に自分が利益を享受する側、搾取する側、煽る側に回ろうと躍起になって努力します。そして、他人から利益を得られるようになったことで達成感を得て、成功者たる自覚を得ているわけです。それは割と表面的なお話で、現世に生きている人は、そのような生き方を選ぶことが多いように思います。

スピリチュアルに生きるならば、そのどちらからも離れた状態を目指すのが本懐なわけです。スピリチュアルで自分が利益享受側を目指している人もいますけどそれはスピリチュアルの本懐ではなくて浅い理解でのお話で、本当にスピリチュアルをするならば、そのどちらからも離れたところを目指すべきなわけです。


▪️心を混乱させること、それ自体が呪縛である

呪縛や洗脳というと、何か具体的なことを誘導したり思い込ませたりすることだと思わされているかもしれませんが、実のところ、混乱させることそれ自体が呪縛であり、洗脳の一歩手前なわけです。洗脳するにはその前段階として混乱が必要であり、マーケターにせよインフルエンサーにせよカルト宗教の教祖にせよ、まずは信者あるいは信奉者を混乱に突き落とした上で呪縛の状態にし、それから、思い通りに操るわけです。

もちろん操っている本人はそんなことは言わなくて「世の中の真実」だとか「原罪」だとか「理想の姿」はたまた「より良い生活」だとか色々な言葉を使ってきますけど、実のところ、根幹のテンプレートとしては、まず混乱させて、呪縛の状態にして、そして、思い通りに動かすように意見を吹き込む、という順番になっているわけです。

ですから、混乱という素地があってこそ、人は他人の意見に影響されやすくなるわけで、他人から利益を享受したいと思っている人たちに共通して言えるのが「誰かが動いてくれるまで煽り続けること」なわけです。

そして、時々、稀に本気にしてくれる人がいて、いわゆるカモなわけですけど、そのカモというのは混乱している人なわけです。混乱している人というのは特徴があって、洗脳に長けた人はその特徴を持ったカモを見つけるのが上手ですから、他人を操作して利益を享受したい詐欺師やマーケターは「やったー! カモ発見!」と思って、みんな、似たような笑顔をして喜びます。

この、「やったぜ! カモ見つけた! いえーい!」という感覚は、人生経験を積まないと何のことかわからないかもしれません。一見するとただ単に喜んでいるだけのように見えますし、特に何もなく普通のことだと思われてしまったりもします。

実のところ、本当に幸せな人や裕福な人は、この種の詐欺とは無縁の生活を送っていて、カモを探している詐欺師のことはこれっぽちも理解できませんので、詐欺師にしてみればいいターゲットなわけです。

そして、カモがお金や財産、はたまた労働力を提供してくれると激しく喜び、一方、カモと思っていた人が思い通りに何かを提供してくれなければ段々とイライラしてきてブチギレたり罵ってきたりします。

ですから、そもそも、詐欺師とは関わらない方が良くて、そのためには、詐欺師の特徴を持った特有の笑顔をする人を見つけたら全力で離れるのが良いわけです。

これは、当たり前のように見えて、実のところ、この種の混乱から離れることはこの一般社会ではかなり困難で、一見すると真面目そうに見える人が広告塔に立たされて混乱の拍車をかけていたりしますので、直接的に誰かに何かを言っても無駄で、とにかく、自分が関わり合いを持たないようにするのが一番なのです。口先では美辞麗句で、本人も一応はそう思い込んでいる場合も多々ありますので、こちらが本質に気がついたとしても、矢面に立たされている人に直接言っても無駄なわけです。

例えば、テレビというのは人々を煽って混乱させることが本当の目的の1つであると仮定して、そんな不道徳なことが本当かどうかというのはテレビの関係者は認めるわけがないですから聞いても無駄ですし、制作会社やタレントは使われているだけですから薄々と気が付いていたとしてもタレント自身ではどうしようもないわけです。であれば、仮定した上で、本当かどうかの判断は保留して、どちらにせよテレビが混乱をもたらすのであれば見なければいいわけです。

同様に、詐欺師が本当に詐欺師かというのはすぐには判断がつきませんし、本人に聞いても認めるわけがありませんから直接聞いたり問いただすなんて野暮なことはせずに、ただ距離を取って関わらなければ良いのです。

詐欺師と見抜くための目を養うには社会経験が必要で、そうでなければいくら財産があってもまるまると詐欺師に取られてしまいます。

混乱させてから、良いと思わせてお金を出させる、というのが詐欺師の常套手段でありますし、詐欺師とまでは言わなくても、そこそこ価値のあると思われるようなものであったとしても実際はこのフレームワークに乗っていたりします。

どちらにせよ、混乱させたりする人には近付かない方が良くて、混乱というとわかりが良いですけど実社会ではわかりにくくなっていて、例えば「面白い」という言葉を使われたり、「ドヤり」という表現だったり、「うわっ」と思わせるようなことだったり、人が一瞬、びっくりして意識がそちらに向いてしまうようなことの根底に、ここでいう「混乱」が共通してあるわけです。

それらは一般的には「混乱」とは言われてはいないですけど本筋では同じことで、「驚き」を持って受け入れられたり、「面白い」と思われて広まるところには、その根幹には「混乱」というものがあって、混乱しているからこそ、人は他人の思い通りに動いて、それ故にバズったり、集合的な消費活動に駆り立てられたりするわけです。

これは本人は意識していなくてもこのフレームワークに乗っていることが多くて、あるいは、自分で混乱させなくても、他の人が混乱させたグループに対してちょっと「良いもの」を紹介して刺激を与えるだけで一方向に向かって行動したり消費してくれるわけです。

世の中の「面白い」活動にはこのような「混乱」という基盤があるわけで、混乱によってマーケティングも可能になりますし、企業でトップがリーダーシップを発揮するというのも、実力の場合ももちろんありますけど、この種の煽りが上手いだけ、という場合も多々あるように思えます。

詐欺師がトップになるというのは企業としての業績を伸ばすには実は手っ取り早くて、お金だけを見ればそれは良い選択肢の1つであるわけですけど、消費者としては本当は迷惑な筈なのですけど迷惑とは思わずに実際は(詐欺師を)歓迎して、詐欺師が神のような扱いをされたりするわけです。

これが悪いことだと言っているわけではなくて、世間はこの種の仕組みで動いていますから、基本は「操作」と「被操作」の関係、いわゆる呪縛の関係にあるのがこの現代社会であり、スピリチュアルに生きる人としてはこれらの仕組みや呪縛から自由であるべきなわけです。スピリチュアルを目指すならば、自分が操作する側にもならず、操作される側にもならず、それらの構造、システム、フレームワークから離れる必要があるわけです。

自分のスピリチュアルな成長が(本人が気づいていなくても)操作と被操作の関係のレベルにあるならば、わざわざ無理をして背伸びをしてそれらのフレームワークから逃れようとするよりも、むしろ、どっぷりと操作と被操作の世界を体験して経験して学ぶことでそこからの卒業というのが早くなると思います。ですから、操作と被操作の関係が必ず悪いと言っているのではなくて、何事も分相応というものですので、その段階にあるならば、それで良いわけです。

とは言いましても、現代は、そのような操作と被操作からは卒業しつつある人が増えているわけで、であれば、少しづつでも、もう関わり合いを持たないように生活していけば良いのです。

呪縛とまでは行かなくても「混乱」とは距離を置くべきで、混乱しているところから距離を取るということは「面白い(と一見思わされるもの)」とか「良いもの(と一見思わされるもの)」から距離を取るべきということであり、それを一般的な言葉でさらっというと「本物」か「偽物」か、というところになるわけで、面白いと思われていても本物と偽物があって、良いものにしても本物と偽物があるわけです。そして、本物は他人を混乱させないですけど、偽物は他人を混乱させる、という違いがあって、偽物は操作・被操作の関係に根ざしていますから、スピリチュアルな人としては操作する側からも、操作される側からも、どちらからも離れるべきなわけですから、よって、本物は良いですけど、混乱させてくるような偽物とは関わり合いを持たない方が良い、という、至って普通のお話でもあるわけです。

そして、混乱と呪縛とは一般的に別物とみなされていて、混乱は混乱ですし、呪縛は呪縛として、関係がないように装われているわけですけど、実のところ、混乱が極まれば呪縛になるのです。心身の混乱が極限に達するともはや束縛から逃れることが困難になり、他人の思い通りに操られてしまうわけです。