インナーゲームの呪縛

2023-05-13 記載
トピック:スピリチュアル: 回想録

小学校か中学の頃、学校の先生がインナーゲームという本に魅入られて、インナーゲーム・クラブというような同好会にまで入っていました。その先生は、ことあるごとに「この本、インナーゲームは凄い」と言っていて、それはテニスに限らず勝負事の精神面においてセルフ1とセルフ2がいて、セルフ1は思考でテニスの邪魔をするのでセルフ2に任せてありのままに動けばテニスに勝つ、みたいな内容だったかと思います。

そこには、応援しているように見せかけて実は邪魔をするやり方が「良くない例」として載っていて、例えば「おい、頑張れよ」とか言うと思考が邪魔をしてうまくいかなくなる、本当にうまくいく方法はこれだ・・・ みたいに書いてあったわけですけど、それを読んだ、表づらは良いけれども性格の悪い自転車屋の息子が私とかに向かってこの種の足の引っ張りをしてきたおかげで、私は長らくインナーゲームの呪縛にハマっていたように思います。良い知識も、悪意を持った人によって使われると悪魔の道具になるという好例で、これにより私は大学時代までインナーゲームの呪縛に囚われて時間を無駄にすることになったのでした。

その同級生は表づらはいいだけで、実は、とても最悪な小根の悪い性格をしていたといえます。こういうのを見抜くには頭が良くないとできません。正面から対立してしまうと表づらの良い人の方が有利になってしまい、非難した方が悪者扱いされ、表ヅラの良い詐欺師は言葉巧みに「なんだ。応援しているんだろ」みたいに言って本性をうまく隠して自己防衛して騙してくるわけです。実際、私がその同級生の違和感に対して少し抗議あるいは問い詰めようとしたところ、そう言ってかわされましたので、あの外面の良い同級生は意図的に他人を貶めて足を引っ張っていたということがそのことでわかるわけです。小根が悪くて表づらの良い人、と言うことを、このインナーゲームという本を通じて学ぶことができました。人生とは、このような詐欺師に騙されない知恵を身につけなければ年単位で時間を無駄にするのです。

女同士の足の引っ張り合い、みたいなのはよく聞きますけど、男同士でも、このように、応援しているつもりで実は足を引っ張って貶めようとしている、というような気持ちの悪い女みたいな性格をした人が実際はぼちぼちいると思うのです。あの自転車屋の息子は、外面は良くても相当に腹黒い性格をしていたと言えますが、当時はそれに気が付きませんでした。

このインナーゲームの呪縛は長く続いて、大学入学までずっと束縛されていたわけですけれども、このような悪魔の本を小学校の頃に、しかも意地の悪い小学生に教えるなどあの教師は罪深いです。インナーゲームの呪縛によって少年期を丸ごと棒に振った、とも言えなくはないのです。

インナーゲームを仕掛けて他人の足を引っ張って勝利したとしても本当に強い人には勝てませんから、その同級生はその後に競輪選手になったみたいですけど弱くて勝てない選手にしかなれなかったようで、自分で本気で勝負するよりも他人の足を陰で引っ張ることを頑張っているような人は自己成長が疎かになり、その程度にしかなれなかった、ということなのかなと思います。自業自得ですね。本人はそれで満足なのかもしれないですけどね。勝負にただ勝ちたいだけなのか、それとも、自分を成長させたいのか、という点で人の選択は大きく変わってくるわけです。他人の足を引っ張って満足な詐欺師は自己成長などそこそこで構わないのでしょう。

当時は私も子供でしたから、他人をそこまで貶めようとしている人がいるなど想像もしていなくて、性善説で生活をしていましたので、脇が甘かったと言えます。まさか、あんな子供の頃から他人を貶めて喜んでいるなんて・・・ 生まれながらに性根が腐っているのでしょう。 当時の私はそんな人がいることなど想像もできなかったので罠に簡単にはまっていました。私など、脇の甘いカモだったと言えるでしょう。

正面切って抗議すれば言葉巧みに交わされて、あたかも抗議した私の方の態度が悪いかのような印象を周囲に与えてしまったわけで、そんな自転車屋の息子は詐欺師の才能があったと言えます。

このインナーゲームで言っていることは瞑想でのお話と割と同じで、セルフ1が思考、セルフ2が行動する私、と見立てていて、セルフ2にも意識がある、という前提に立っています。そして、セルフ1が邪魔をするのでセルフ2に任せれば試合はうまくいく、という理屈なわけです。とても明快です。

そして、これを逆手にとって同級生のしていたことは、応援していると見せかけておいて他人のセルフ1を活性化させて思考で縛ることでその人のセルフ2(行動する私)の邪魔をする、要は応援しているふりをして雑念を増やして邪魔をする、行動を誘導する、他人を失敗に導く、他人の足を引っ張る、ということだったわけです。それは、感性の豊かな若者にとって壊滅的な効果があって、あの同級生は、私が閻魔大王になれるなら地獄行きにします。他人の人生を5年や10年の単位で無駄にさせ、おそらく私だけでなく大勢の人生を潰してきたあの男は地獄行きになってもまだ足りないと思います。物理的あるいはお金などで損害を出させたというのはまだ可愛い方で、他人の精神や思考を操る、精神を縛る、というのはこの世においてかなり罪の深いものです。いわばマインドコントロールをして年単位あるいは一生ずっと他人の足を引っ張っていたわけですから、死後に地獄行きでもまだ足りないくらいです。高価な壺を買わせる新興宗教の教祖と同じくらい罪深いわけです。判断力の弱い子供をマインドコントロールして行動を制限し、人生の大切な時間を奪うわけですから、加害者が子供であったとしてもそれは極悪な行為であると言えます。

私は小学校の頃、この同級生を「いい人」だと思っていましたが、とんでもない食わせ物だったわけです。詐欺師、ペテン師です。私が失敗してもニヤニヤと笑いながら、更に、同じことをして私を罠にはめてきたのですから罪深いです。よくもまあ、他人を何度も何度も罠にかけてニヤニヤしていられるものですね。その詐欺師の性格の悪さと仮面の面の厚さに感心してしまいます・・・・。とは言いましても私は当時は気が付きませんで、大学に入ってからふと「インナーゲーム」という書籍を見つけて、そういえば小学校の頃に先生が言っていたな・・・ というのを思い出して読んでみたら、なんと、そこに書いてあった、「他人を失敗させる方法」の発言が、その同級生の発言そのものだったわけです。そういえばその同級生は教室で先生から本を借りて読んでいました・・・。そういうことだったわけです。大学に入ってからようやく、同級生の嘘と罠に気付きました。(と言いますか、おそらく、当時に幽体離脱して時空を超えて知識を得て学んだことによりそのあたりの解決はリアルタイムで一旦したと言えばそうなのですけど、その後、しばらく、すっかり忘れていて、大学に入ってから再度、その辺りのことを再考し、理解を得た、というのが正しい気が致します。何度も再考して本当の理解に至るわけです。ただ、わかりにくいので、ざっくりと言えば、大学に入って理解した、ということでよろしいかと思います)

瞑想の知識は時に危険だと言われるのはこのことで、よく分かっていない相手に対して恣意的に使うと他人を操れてしまったり罠に落とすことができるため、その知識の共有には注意が必要なのだと思います。昨今ではこのようなマインドの本もそれなりに出ていますけど、このインナーゲームほど即効性があって危険のある本はそこまでないと思います。特に子供に悪用させるべきではなく、この同級生のようなペテン師に翻弄された私のような被害者を増やしてはいけないと思います。

ただ、表面上の外面は良くても、その本性を見抜くことさえできれば何かがおかしいことに気付けるわけで、小学校の私にしても、言説だけを見ると応援しているように見えてもその感覚で何かがおかしいことに気づくことができればあのような罠にはまることはなかったわけで、結局、私の判断力が足りなかった、ということだと思います。あの同級生のような外面の良い詐欺師に引っかかったのは相応に判断力がなかったからなわけです。

インナーゲームという本を読むにしても、自分の精神の成長やテニスの上達のために読む人もいれば、あの自転車屋の息子のように自分の利益になる部分だけうまく利用するような詐欺師もいるということだと思います。この本それ自体は心の成長のためを思って書いたのでしょうけど、それを読む人によって悪用されてしまうこともあるということをインナーゲームのこの一連の出来事によって学んだように思います。

思えば、この種の、外面の良さに騙されない、詐欺師に騙されない、他者のコントロールに屈しない、というのは20代後半までの私のテーマだったように思うのです。


▪️インナーゲームの呪縛から逃れるための発起

結局、話は簡単で、雑念の多い状態になるとその人の人生の物事はうまくいかなくなるし、他人に操られるようになるのです。そして、他人に対して雑念を増やして操ろうとしている人が少なからずいて、そのほとんどが似たようなニヤニヤした胡散臭い笑顔をするのですけど、胡散臭さは人生経験を多少は積まないと気が付かないのです。その原型がインナーゲームにあって、応援している風を装って実は足を引っ張ったり操ろうとしているわけです。マーケティングも実は似たようなもので、いくら「他人のことを思っている」とか言って良い風を装っていても、いろいろと吹き込んで良い風の気分にさせて自由意志を奪って操る方法は罪が深いのです。インナーゲームのお話では、応援している風に見せかけて実は意図的に足を引っ張っていた自転車屋の息子の同級生がいましたけと所詮は小物で可愛いもので、この世には良い風を装って自分の利益を追求している人が山ほどいるのです。

例えば、環境のためだとか言って、自分が扱っている商品と競合する環境に良くない風の商品を持っている人をディスってニヤニヤしながら良くない話を延々として他人をイライラさせた上で自分の高い商品を買わせて喜んでいる人がいました。はたまた、環境のことを語りながら本人はベンツに乗っていたり、あるいは、渋谷でオーガニックカフェやりながら葉山の豪邸に住んでいる人がいて、結局はこの人にとって環境はファッションでしかないのだなと思ったり、他には、軽井沢の近くに別荘を持っていたりしてエネルギーを山ほど使っていて何が環境を思っているのかよくわからない人がいました。そういう人は口は達者で、例えば車のことを言うと「お前だってトラックが物を運んでくれているから都会で生活できる」とか言ってきますけと、トラックと物流なんて全員に共通なのだから、自家用車がいらないなら車を持たないのが環境に良いのが明白なのに、都市部に住んでいるのに車を使っている時点で環境とか言っている人の欺瞞を感じます。そのようなお話は言葉と行動が一致していないところから見抜くことができるわけですけど、それ以前に、言葉数多くて他人をディスって貶めてくる人はそもそも信用できないというのがインナーゲームの原型から読み取れます。

環境だけでなく、何かを買わせる場合も同様で、ディスって買わせるのはスティーブ・ジョブズがiPhoneやMacを売るやり方と同じで、かと言って、ビルゲイツにしても似たようなものですけどゲイツの方がその点はマシでした。シェアでアップルが勝るということは、今の世界はそのように、根幹はというとインナーゲームの呪縛と同じ理屈で動いていることがわかります。

結局、露出を多くして他人をその気にさせれは物は売れるし儲かるが、それは他人を操るという一面があって、大多数の人々は操られて機械人間になってゆくわけです。一握りの人に世界は操られているというよりは、露出の高い人がそれっぽいことを言うと人々は操られて、そのような操られている大多数が世論や流行を作るわけです。

雑念が多ければ多いほど消費は増えるし他人に操られて貧乏になったり主体性なくして呆然と暮らすようになるわけです。その、人を操る原型が、インナーゲームの悪い例のように、他人を応援している風に見せながら他人の足を引っ張る、というところにあるわけです。スピリチュアルな人は、その雑念と呪縛から逃れる必要があります。そうしなければスピリチュアルな成長は望めません。

私はあらかじめインナーゲームという書物によって他人を操る原型を知った上である程度それに沿って操られることで「操られるとは、どういうことか」を若い頃に学びましたけど、多くの人は原型を知らずして、ただ翻弄されて世の中を彷徨うだけの場合も多いように思います。それによって、操る側と操られる側ができて、それによってこの世の中が回っているように思います。人生に悩んだ挙句、操る側か、操られる側か、どちらか一方になる人が大半で、そのどちらからも抜け出そう、と思っている人はごく少数のように思うのです。スピリチュアルを目指すのであれば、どちらからも抜け出すことを目指す必要がありますが、まず、抜け出すには、その構造がどのようになっているのかをしっかりと見極めて理解することも時に必要だと思うのです。実際には理解しなくてもただ抜け出すことができるのですけど、既に構造にはまってしまっている場合はきちんと理解した方が抜け出しやすいように思うのです。

これら、他人を操ることで自分の利益を享受しようとする人たちには共通の笑顔があって、それはスティーブ・ジョブスの笑顔が有名どころとしては誰もが知っている良い見本になります。実のところ、彼は100%詐欺師というわけではなくて70〜80%がそうであって、残り20〜30%は周囲の助け、例えばスティーブ・ウォズニアックのような聖人の技術者に囲まれていたがゆえに助けられていた面もあったのですが、彼の本性は詐欺師で、とは言いましても、ある程度の使命もあって、それも含めて神様はうまく人間を使っていますので詐欺師的な人間であっても何一つ無駄ではないのですけど、このインナーゲームの呪縛という一面を見ると同じ質、同じ原型を有しているのです。

あのような笑顔をする人は、例えば美容で高い美容品を売りつけるために顔についてあれこれと指摘しながらニヤニヤとスティーブ・ジョブスのような笑顔をしてあたかも好意かのような態度で高いものを売りつけてくる人がいたり、はたまた、高い健康食品、あるいは、値段の高い環境に良い品をジョブスと同じような笑顔で売りつけてきます。

おそらく、多くの人はスティーブ・ジョブスの笑顔が詐欺師だとは思わないでしょう。私も随分と長い間、ちょっと胡散臭いと思う程度で、流石に詐欺師だとは思っていませんでした。ですのでジョブスが死ぬまでアップル製品はあまり使わなかった方で、彼が死んでからもういいやと思って最近は使っていますけど、詐欺師であっても、ある程度、神様がそのような人も含めてうまく操って利用しているので、彼のような人であっても無駄ではなくてそれなりに有用なのですけど、こと、やり方と思想、そして欺瞞的態度という面においては、彼は見本にすべきではないのです。彼を信奉して神様のように拝めている人が大勢いますけど、多かれ少なかれ、詐欺師には信奉者がつきもので、あのくらいうまくやると信者が大勢いて当然だと思います。

スピリチュアルな身としては、やはり基本であるところの、自分の意思を他人に握らせない、自分の自由意志を保つ、他者の操作に屈しない、というところが基本に来る必要があって、そのためには、スティーブ・ジョブスのように他をディスって他人をイライラさせた上でニヤニヤと笑顔で行くべき未来の方向を示唆することで優越感を与えると言う二段階ステップによる洗脳と誘導とは距離を置くべきなのです。それはただ単に洗脳されて自分の自由意志を誰かに委ねているということであり、雑念の多い状態にさせるというのが第一ステップで、それはジョブスは既存のやり方をディスって既存をダメだと決めつけ、その上で、雑念が多くなった誘導しやすい人を彼が望む方向へと導いているわけで、それは洗脳であり、他者の自由意志を奪うやり方なわけです。

現世では世間からジョブスは神様のように崇められたかもしれませんし、スピリチュアルにおいても多少なりとも彼を評価する声もありましたが、確かに、多少の成果と貢献はありましたけど、私が見たところ、確証はありませんけど、ジョブスがアップル社の市場独占を狙ってGoogleなどに対する攻撃を強めてロビー活動やら何やらで動き回っていたところを見た神様が怒って彼を早死にさせたようにも思えるのです。確証はありませんが、神様は、次のように思ったように思います。「ジョブスよ、お前は一体、何を考えているんだ。お前の役目は人々に便利なものを提供することである。アップルの繁栄はお前一人の成果ではない。アップルはお前の個人の持ち物ではない。お前は思い違いをしていて取り返しのつかないことをしようとしている。アップルと自分の利益ばかりを考えているお前は、今後、世の中に悪い影響を与えることになるので、お前はもう必要ない。悪影響が大きくなる前にお前はいなくなった方が良いと判断した。」との神様の怒りを買ってジョブスは神様の意思と決断により急遽、予定より早く寿命を終わりにされたように思えます。彼が死んだ時にそのようにインスピレーションが降りてきたことを思い出しました。彼の成果は評価する面もありますが、彼のやり方は詐欺師的で、真似すべきものではないわけです。

とは言いましても、瞑想やレム睡眠中あるいは日常のふとした時に降りてきたインスピレーション(霊感)でありますので、この種のものは、もちろん、確証はありません。ですが、一応は、辻褄が合うのです。これは世間一般的に理解しにくいことかもしれません。あのような立場の人はそれなりの霊格を持っていますので凡人ではないにせよ、一人の人間が大きな力を持つと悪い方向に向かう場合が多々あって、悪影響が大きくなりそうになるとこのように高次からの介入がなされることがあるように思います。

実のところ、スピリチュアルの本懐は、このような操作・依存の関係から逃れるところにあるわけです。人を操ったり、操られたり、という関係がこの世の中の基本形であるのならば、自分が操る側にも操られる側にも回らずに、その両方から逃れて自由になることこそが目指すべきところなわけです。それに反して、人々の思想を操ってアップルの利益を第一に考えるジョブスを神様は許さなかった、ということでしょう。表でいくら良いことを言っていたとしても、神様はその人が何を本当は考えているのか全てお見通しです。

実のところ、世の中を眺めてみれば、他人を操って操作して自分の利益にしたり自分の望む未来を他人を犠牲にしたり他人を操ってでも手に入れようとしている偽スピリチュアルが横行しています。他人を操ったりするためにスピリチュアルを使うことは黒魔術でもあり、決して幸せにはなれないのですけど、いつの世にもある程度はその種の事柄に手を染める黒魔術師は少なからずいるものです。

黒魔術というとわかりやすいですけど、最近は、そうとは言わずに、インナーゲームの呪縛のように他人を助ける風に見せて実は束縛しているという人が一定数いて、それがまたわかりにくい状況になっていますけど、他人の自由意志を奪って他人を混乱させつつ一方向の意見に画一的に誘導するのであれば見た目上は啓蒙だとか未来を見せている風を装っていたとしても本質は黒魔術と同じなわけで、例えばジョブスが未来を見せている風にしていたとしても、その本質は黒魔術であり、それは本人が世界にどれだけ良い影響を与えたかどうかと相殺されて彼の悪の深さが決まるわけですけど、私が見たところ、彼が死んだ時点では悪影響と良い影響とが拮抗していて、今後、彼が傲慢なエゴを前面に出してGoogleやその他を攻撃して独占を進めると彼の悪の面が強く出てくるため、そうなる前に神様は彼を早めに殺したのだと思います。ですから、彼は特に現時点ではプラマイ0(ゼロ)で人生を終えて、トントンであるように思います。

その上で、改めて彼の行った悪い面を見てみると、彼は詐欺師的な手法で他人の思考を制限して自由意志を奪ったわけで、それは良くない面なわけです。彼が良い商品を世界に出した功績とそれは相殺されて、彼の世界への貢献と邪悪な面はプラマイ0(ゼロ)になるわけです。実のところ、他人の自由意志を奪うというのはかなり罪が重くて、世界への貢献があまりにも巨大だったために彼の場合はかろうじて相殺されたのであり、普通のそこらの人の社会への貢献では相殺などできないほど他人の自由意志を奪う罪は重いと言えます。

スピリチュアルの目指すところは至極シンプルで、要は雑念を減らして無心に至ることにより他者の支配のマインドコントロールから離れて自由になり、と同時に、他者を支配する立場からも離れて自由になることにあるわけです。スピリチュアルを他者の支配の道具として使っているような黒魔術師的な人が大勢いますけど、スピリチュアルの本懐は、依存や操作という関係性から解放された「自由」を目指すところにあるわけです。そして、そのための手段が瞑想で(一応の)中継地が「無心」なわけですが、(発心の)目的地はというと「自由」にあるわけです。

自由を求める心が根本にあるということは、そのように自由を願うところがスピリチュアルのスタート地点でもあり、自由を求めるということそれ自体がスピリチュアルを目指す発起心でもあるわけです。

スピリチュアルを勉強していない場合、他者からの支配を逃れるために自分が支配する側に立つ、あるいは、安い賃金で使われている貧乏な状況から逃れるために自分が誰かを安い賃金で使ってお金持ちになる、というように、支配者側を目指すことがほとんどかと思います。一方、スピリチュアルはというとそのどちらからも離れて自由になることを目指します。そこが大きな違いです。支配から逃れるために自分が支配する側に立つためにスピリチュアルを使うのは黒魔術的で、黒魔術に手を出した人は必ずしっぺ返しが来て痛い目を見ます。

インナーゲームそれ自体は良い知識ですが、その知識を他者を操作する方向に利用した人は黒魔術に手を出したのと同意であり、他人の自由意志を奪って思想や行動を操るのはスピリチュアル的にはかなり程度の低い行為であり、この世界ではそれが特に大した罪には問われない状況ですけど、そのようにして黒魔術に手を出すと霊格、人格の面で大きく現れてきて、長期的には現世的な利益もままならなくなるでしょう。

最初は社会に貢献だとか言って行動も思想も適正だった人が、他者から色々と吹き込まれるうちに黒魔術的なやり方に手を出して霊格・人格を落とす、ということも多くあるように思います。立場が上になればなるほど他者が指摘してくれなくなるので、それは自戒して気をつけるべき点だと思います。

ジョブスほど大きなお話でなくても同じお話はそこらにあって、何か物を買わせる時にジョブスのような笑顔をして一見するとにこやかに高いものを売りつけてくる詐欺師あるいは販売員がそこら中にいるわけです。そして、人生経験が足りないとそのような偽の笑顔に騙されるわけです。その原型がインナーゲームにあって他人を操るためにまず雑念を増やす。ターゲットの雑念を増やすために「一見すると応援している風」なことを詐欺師の笑顔で吹き込む。ターゲットがその意見に多少でも同調して動揺したら思想の操作は半分成功したようなもので、そこで、売り込みたいものをアピールする。例えば、古めかしい黒電話や固定電話をディスって視聴者を動揺させた上でiPhoneを発表して売り込む、というのがまさに型にはまっています。一見すると応援している風なことを言うわけですけど、この場合、電話機はいいものを使おう、みたいなお話になるわけです。「電話機はいいもの」と言われて、それの一体どこに問題があるのか・・・ と一見すると思われるかもしれませんけど、インナーゲームの呪縛のお話からしたら、これは思考するマインドに電話機を意識させることになるので、本質ではないのです。本質は電話をかけることであり、コミュニケーションすることです。しかし、この場合、インナーゲームの呪縛により、本質ではないところ、電話機そのものに対して一見すると応援している風を装って人々の思考を混乱させているわけです。この種の手法は、意識的ではない場合もあるにせよ様々なところで使われていて、悪気がない場合もありますけど、普通はいい気がしないものです。基本、混乱させられてしまったならば高い物を買わされるわけです。その原型がインナーゲーム、そしてジョブスのプレゼン手法にあるわけです。

このパターンにはまると、営業担当があたかも応援してくれているかのように顧客が勘違いをして、しかし実は顧客は混乱させられているわけで、顧客は混乱させられた上で、混乱から逃れるために営業担当の言う素晴らしい提案に乗って大喜びで高い買い物をする、という構図になるわけです。

現世的・資本主義的には何も悪いことはありませんし、これが他人をコントロールしていることを自覚していなければ単に頭が悪いだけですのでそこまで深い罪にはならないですけど、自覚的に他者を操ってしまうとそれは文字通り自分がやっていることを自覚しているわけですから詐欺師で罪深いことになって霊格・人格を落としますので注意が必要かと思います。多かれ少なかれ物を売る商売をしている人はこの種のマインドコントロールと洗脳はつきものですから、あまりスピリチュアルを勉強してしまうと自分がやっていることが詐欺師の手法であることに気がついて営業職ができなくなってしまうかもしれませんね。物を売るときは、本当にそれが顧客の得る価値と釣り合っているかが重要で、多少なりともこのような手法を使っていたとしてもそれ以上に顧客に利益を与えているならばそこまで問題はないように思えますが、それは時と場合によるかと思います。

そして、その手法とニコニコな営業あるいはジョブス風の笑顔は、実のところ清楚系ビッチとも共通しているのです。何を売り込みたいかの違いや立場の違いこそあれ性質としては共通していて、他をディスって自分が望む方向に他者を誘導する、というところはジョブスにせよ清楚系ビッチにも共通しているわけです。ジョブスの場合は周囲にウォズニアックのような本当の聖人かつ最高の技術者がいたからたまたま詐欺師にならなかっただけで、普通の場合は彼1人だけいたら大したこともない商品を高く売りつけて詐欺師扱いされるだけのお話です。

例えば、美容などで色々と皮膚をディスってきて自分の高い商品を買わせたり高いセッションを受けさせようとしたり、この種のお話は山ほどあります。それは、度を超えていないから問題になっていないだけで、手法としては詐欺師のものを使っている人が意外に多いのです。

一方、誠実な営業もいますけど売り上げに関しては詐欺師的な方法には大抵の場合は敵わなくて、でも、それが分相応で十分なわけですが、一線を越えるかどうかはモラルに関わるわけで、人によっては分別なく見境なしに詐欺師の手法を使って売り上げを伸ばしている一方、モラルを守って営業をしている人は売り上げはそこそこだが誠実なわけです。

この世的には売り上げが第一に見えるかもしれませんけど霊格・人格の面でどうなるのかは自明で、詐欺師的な手法で売り上げを伸ばしても霊格・人格を落とすだけなわけです。

この世界ではほとんどの人がある程度はこの種の操作・被操作の関係にあって世論すら誘導されているわけですけど、その原型がインナーゲームにあって、まずは、その原型を理解するところがスタート地点であるわけですけど、それを知った上で、さて、あなたはどうしたいですか、というところが問題になるわけです。

マーケティングの手法は色々と言われていますけど、市場を作る、なんて言うのは割と表面上のお話で、他人を混乱の状態に落とすことこそマーケティングの本質であります。もちろんマーケティングをしている本人はそんなこと言わないですし同意もしなくて、であれば本人はこの本質に気がついてもいない場合も多くて、世界に奉仕するだとか表面良いことを言いますけど、本質は実はここであるわけです。自分でそれに気がついていないのであれば罪はそこまで深くはないですが、もし気づいて自覚的にやっているとしたら極悪人なわけです。その根幹はというと、何かそれっぽいことを主張して他人が聞く耳を持ったらそのことで煽って煽って煽りまくって他人を混乱の状態に落とすことにあるわけです。その結果、目的の商品を購入しないといけないような心理状況になり、目的の商品を買わなければ劣等感を感じるようになり、目的の商品を買うことで一時的な安楽を手に入れるわけです。それはマーケティングをする側の思う壺なわけです。そうして一旦、劣等感と雑念の混乱の状態に落とされた人は目的の商品だけでなく次の新商品、あるいは、全く関係ない商品であろうとも似たような煽りの主張に飛びつくようになり、消費のサイクルから逃れられなくなります。マーケティングとは市場を作ることであることはそれはそうなのですけど、実のところ、煽って他人を混乱の中に叩き落とすことがマーケティングの根幹なわけで、そう言ってしまうと多くから反感を買ってしまってマーケティングが悪いものかのような印象を持たれてしまうために、外面よくするために色々とカバーストーリーを作って「消費者のためです」「より良い生活のためです」とか言ってはいますけど、他者・他社の何かをディスって誰かを混乱に陥れることこそがマーケティングの肝であるわけですから、よくわかっていなくてなんとなく(効率悪く)マーケティングをしているだけなら(頭が悪いだけなので)そこまで罪は重くはないですけど、ここまで根幹をわかった上で(頭よく)マーケティングをしている(=効率よく他人を混乱の渦に叩き落としている)のならばそれは罪が思いわけです。一旦この仕組みを理解したとして、一定の割合でこの知識を悪用しようとする人が出るわけです。

簡単な例で言えば、ドヤ顔で他人を貶めるような、他人に劣等感を抱かせるような発言をする人がこの種の人で、バブル時代には特に大勢いたように思います。その種の人は、他人に劣等感を抱かせることで自身の利益になることを(意識的にせよ無意識的にせよ)理解しているわけです。他人に劣等感を抱かせた挙句、大したことのないもの(それは煽りまくって価値があるかのように思わせたもの)と(その人が持っている)本当に価値のあるものを交換させようとしたり(そのことで、多大な利益を享受することができる)、お金を(あたかも自発的に)消費させようとします。世の中の著名な起業家、かつてのビルゲイツや孫正義、スティーブ・ジョブスなど、他人を煽ることで多大な利益を享受してきた人がいるわけです。そしてその根幹は、表面上に見えているものではないわけです。表面上は良い世界を作るためだとか便利なためだとか、確かに、そういう面もありますけど、精神面における本質はと言うと、他人が混乱するかどうか、この1点なわけです。そして、他人が混乱した結果、その人から多少なりとも自由意志が奪われて誰かの思い通りの行動を取るようになる場合、いわばマインドコントロールされている状態にあるわけです。例えば、iPhoneを買わなければ劣等感を感じるような状態に煽られた結果、高いiPhoneを皆が買い求めることになるわけです。マーケティングとしては大成功なのかもしれませんけど、大衆は自由意志を奪われて多種多様な刺激でコントロールされやすい状態にされているわけです。そして、その根幹はというと、他人を混乱に叩き落とすと言うところにあります。その結果、例えば一時的な心の平安を求めて高い買い物を繰り返すようになったり、はたまた、他人の思い通りに動くようになるわけです。混乱している人は、経済の面では大量消費をするようになりますし、はたまた、カルトにはまったり、変な自己啓発セミナーを盲信するようになったり、近しい人と依存関係になったりします。現象としては色々とありますけど、根幹として、誰かが混乱しているために様々なトラブルに発展するわけで、多様なトラブルの根幹としての「混乱」状態というのは割と同じなわけです。根幹としては「混乱」なわけですけど、人間関係としては操作・被操作の関係、共依存の関係として問題が表面化してくるわけです。特に、被操作の状態で問題が表面化してくる場合が多いように思います。

大抵の人は被操作の状態から逃れるためにあがいた挙句、逆の結果になります。逃げようとした結果、一瞬、逃げられたと思ったのも束の間、自分が更に操作される側に再度回る、操作される状態が以前より強化される、という悪循環に陥ります。社会の仕組みがうまくできていて、逃れようとする行為そのものが他の商品や消費と結びついていて、逃れようと思って購入した商品それ自体が他への依存を生み出しているわけです。新興宗教で自由や幸せを願って財産を根こそぎ奪われるようなもので、搾取のループにはまると財産を丸ごと持っていかれることにもなりますし、混乱した状態で自己肯定感をも失い、失った自己肯定感を得るためにホストや女にハマって散財し破産や借金するなんてのもよくある話です。大勢が束縛の状態にある一方で、一部の人が操作する側、支配する側、コントロールする側に回ろうとしますけど、どちらにせよ、操作・被操作の関係から逃れられてはいないのです。

スピリチュアルを勉強していない場合はそのように「自分が操作する側・支配される側に回りたい。お金を搾取される側ではなく、お金を稼ぐ側に回って自由になりたい」と思うのが割と普通でありますけど、それは、同じ階層の支配者層に回っただけのお話で、スピリチュアルで言っている自由とはまた違うものなのです。また、現世利益的なスピリチュアルや、スピリチュアルを装った風の自己啓発セミナーも「自分が搾取する側に回る」ことを推奨していたりしますので単にスピリチュアルと言っても色々とありますので注意が必要です。

世間で一般的にこの種の依存関係から逃れようとする場合はコンサルなどがよく使う「お題目」としての大義名分が使われて「これが、行うべきことです」「こうすれば、幸せになれます」みたいにそれっぽく言われて行動や消費が奨励されて活動や旅行に熱心になったり部屋にはものが溢れかえることになったりするわけですけど、それは消費や行動あるいは依存の関係が強化された状態になるだけで、スピリチュアルでいう「自由」とは別のものなわけです。スピリチュアルの言う自由は文字通り「無心」を契機(あるいは基礎)にして自らが自由である状態に(文字通りに)なることであって、それは前提条件がない自由でありますから、「〜すれば幸せ」「〜があれば幸せ」言うような前提条件からは逃れられているわけです。無心とは文字通り「ない」ことでありますから、ないものを所有することはできないわけで、何もない心の状態(と比喩される状態)になれば自由になるわけです。

似たお話で混乱するところかもしれませんけど、時々スピリチュアルで「金銭的に自由になるスピリチュアル」みたいなものがあって、確かに最終状態としてはそのようにお金に不自由しなくなる時もありますけど本来の意味としてはそこは本筋ではなくて、(金銭的にどうこうではなくて)操作・被操作の関係から逃れて自由になる、というところがスピリチュアルの初心としての本懐なわけです。ですが、時々、スピリチュアルな人ですらもその初心を忘れてしまっていることもあって、自分がコントロールする側に回ったり自分が金銭的に豊かになればそれでいいと思っているスピリチュアルな人すらいますけど、実のところ、本当のスピリチュアルはそこがゴールではなくて、操作・被操作の関係から逃れるところが(初心としての)ゴールなわけです。スピリチュアルとしての本当のゴールはそれですらないのですけど、ひとまずの初心のゴールとしては、そこなわけです。

操作・被操作の関係、共依存から抜け出すための第一歩としては、まず「離れる」ということ。そして、様々な誘惑・欲求に対しては「そもそも、知る必要がない(ことが多い)」ということを理解することです。(混乱させて)コントロールしようとしてくる人はあれこれ言ってきますし、「知らないからだ」とか「知ることが第一だ」とか一見すると尤もらしいことを言いますけど、実際のところ、かなりの場合において「知る必要がない」「関与する必要がない」のです。「知るべき」と煽ってくる人に対してはまず、「何故、知る必要があるのか」「何故、それが私に関係があるのか」を問いただす必要がある訳です。他人を操作して利益を得ようとする人や詐欺師たちはあれこれ言って煽ってきますけど、実のところ、ここが肝心なわけです。口先が達者で煽りつつドヤ顔であれこれ言って関心を引こうとしてきますが、彼らが執拗に「関係ある」と言ってきてもそういう煽りは実は「関係がない」ことが大半なわけで、この点を理解することが大切なわけです。よく区別がつかない場合は、とりあえず、煽ってくる人は全員避けておけば良いと思います。詐欺師は口達者で、身近なところが関係なくても話をどんどんと大きくして「環境のため」「世界のため」「貧困のため」などという、わかるようなわからないお話で騙してきますので注意が必要です。そういう話が全部嘘だとは言いませんけど、やっている本人たちがそもそも詐欺的手法(操作・被操作)に乗っかっていることを自覚していないことも多いので、あまり話しても無駄な面もあります。ですから、この辺りをあまり突っ込まずに、スルーするくらいがいいのかなと思います。

精神が縛られて体が他人に操作されていたり、自分で体を動かしにくい場合、まずは「行動」を伴うもの、例えば体を動かすヨーガや体操、あるいはスポーツやジムで何かをして汗を流すのが良いと思います。長年、生まれてずっと被操作の状態に甘んじてきた方が急に抜け出すのは難しいかと思いますが、何年あるいは時には十数年かかってでも操作・被操作の共依存の状態から必ず抜け出すことができます。

落ち着いてきたら、瞑想、あるいは静かなヨーガなどをすることも良いと思いますが、混乱の状態における瞑想は難しい場合が多いため、まずは、普通に体を動かすスポーツから始めるのが良いと思います。そしてやがては瞑想をしたり、無心やワンネスになるわけですけど、それはまだ先のお話です。

関連 → インナーゲームの束縛からの脱却と偽覚者との出会い