「もの」の世界を完全に否定しきらないとサマーディ(三昧)に入れない

2024-01-25公開 (2023-09-09 記載)
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

ものへの執着、はたまた、何がしかのスピリチュアルな能力など、この世界に通用するアストラルな能力を否定しきらないとサマーディの世界には入れないように思います。よく世間では、スピリチュアルの成長というと霊視ができるようになるとか他者のことが見抜けるようになるとか、色々と解釈がありますけど、いずれはそういうこともあるでしょうが、それよりも、もっと大切なのは神様の世界に行くことで、神様の世界というのは「もの」や「能力」に固執していたり求めていたりするとそこまで辿り付かないわけです。完全に否定し切らないと神様の世界に入れないわけです。

世間ではスピリチュアル的な成長とは何かという誤解が多くされていて、ヒーリングができるようになるだとか、波動を感じられるようになるだとか、オーラを見れるようになるだとか、現世利益的なお話でスピリチュアルな成長を図ったりしていますけど、それよりも、神様の世界に行けるかどうかが一番大切なわけです。ここを見誤ると、心の平安がなされていないのにもかかわらず傲慢さだけが増大してスピリチュアルなエゴが拡大してしまうわけです。大抵の場合、スピリチュアルの成長の妨げになるのは傲慢さなわけです。スピリチュアルがちょっと成長しただけで自分が優れている存在だと勘違いしたり、はたまた、スピリチュアルな権威ある団体に加入することで自分が偉くなったかのような錯覚を覚えるわけです。途中でそのような団体の一員になった人ですらそれなのですから、生まれながらに何かの本家に生まれてそのエゴをそのまま保持し続けている場合は特にスピリチュアルな成長をするのは難しくて、そこから一旦は離れてしまわないとスピリチュアルな成長が難しい場合もあるかもございません。

どちらにせよ、一旦、この世の世俗的なところから離れきってしまわないと神様の世界には辿り着くことができなくて、その、辿り着いた世界の最初がサマーディ(三昧)なわけです。

世間でよく言われているような自他同一、ワンネスの世界を体験してその状態で生きるには、まず自分がそれまでの存在を全て否定しきってしまわないと、なれないわけです。

一般的には、このようなサマーディのワンネスに至るには修行を始めてすぐには無理で、何世もの生まれ変わりが必要、と言います。確かに、それはそうだなと思います。

多くあるのは、世間でよく見るそこらの霊能者風情になって、霊視もできるし幽体離脱も一応はできるけれどもまだワンネスのサマーディ(三昧)には至っていなくて悩みもまだ普通にあって、それでも一応は周囲からスピリチュアルの先生として崇められている、という、よくあるスピリチュアルの講師になって、それで何世代も過ごして色々と学ぶ、という場合が多いのかな、と思います。

いくら霊視ができて他人の人生が多少は透視できて他人から敬われたところで、それは悟っているということにはならないわけです。

ただ、このような霊視ができたり透視ができたりすることが世間一般でのスピリチュアルの目標にもなっていて、このような能力がある人がスピリチュアルに優れた人という評価を一般的には受けて、自尊心もそれを後押しして、能力があるからスピリチュアルな成長をしたと思いこんでいる人が大勢いますけど、それは、ちょっと中途半端にスピリチュアルをかじっただけのお話なわけです。

このあたり、やはり、悟りとは何か、というところをきちんと勉強していないと、見た目に翻弄されて霊視だとか透視のようなものをスピリチュアルな成長だと見誤ってしまうのだと思います。

そんな、霊視や透視ができたところで、一体、何だというのでしょうか。今や誰でもスマホがあれば遠くの風景を自在に見ることができますし、霊視や透視は精度が低くて間違っていたりもしますから、そんな精度の低い能力を開発したところで、一体、趣味以上の何のお役に立つと言うのでしょうか。

物理霊媒というものがあって、現実世界に何らかの影響を及ぼすような霊的現象あるいは能力なのですが、そのような能力は確かにあるとして、実際には、精度が低くてあまり役に立たないのです。

そのような中途半端な能力を求めるより、「もの」の世界を否定、手放して、神様の世界、それは「もの」を超えた世界ということですが、物ではない世界、神様の世界に入って自他同一、サマーディのワンネスの世界に入る方がよほど素晴らしいことであると言えます。