清楚系ビッチと本当に良い女性を見分けて愛を理解する

2023-05-06 記載
トピック:スピリチュアル: 回想録

この状態の変化と感覚と理解は主に2023年GWの1週間およびその前後に起こったものものですが、この間に心境は大きく変化して愛をよりよく理解できるようになったように思うのです。若い頃に割と定期的に観光に行っていた出雲へ再度久々に行くことで昔の心境を追体験し、当時の状況をよりよく理解する手助けになりました。

昔、とある田舎育ちの男が上京してきました。そして、中年にもなったある時、ふと、昔の懐かしくも辛い出来事を思い出して、まるで現実に今起きているかの如く再体験し、思春期の十数年の葛藤と愛と憎しみなどの入り混じった感情の海に次々と襲われたのでした。そして、当時を思い出すだけでなく、現在の認識とともに当時を再解釈して新たな理解へと至ることになるのです。それは、受けた印象を再解釈するという(相手と自分という分かれた状態における二分性のある)普通のことだけでなく、テレパスの特徴を活かして相手の視点と重なるようにして(二分性なく)相手が当時思っていたことや状況を文字通り相手の視点を通じて(いわゆるワンネス状態を通じて)理解し、その新たな理解という前提のもとで過去の状況を再解釈して全く違った理解に至ることができるようになったのです。

いい年して何やってるんだかと言う気も致しますけど、(この変化により)感情体が反応して、周囲の全ての人々に対して満遍なく喜びと親しみを感じます。言葉の表現としては前々から(一応は)こんな感じにはなってはいたのですけど、最近の変化としてはこれに加えて感情が感じすぎて、まるで思春期になっているのです。若い頃、特に高校時代までは周囲の人に嫌がらせを受けたり虐めや執拗な誹謗中傷および罵りや嘲笑を受けていましたのでその後も長らく心が壊れてしまっていましたが、今は人間関係を選べますので基本的に安全な状態であります。人間関係の良い思春期であればもっと楽しかったかと思うのです。ただ、おそらく同じような楽しさは年を取ってからでも可能なのではないかと思うのです。今更な感もありますが。そして、ようやく周囲の知人たちの葛藤をそれなりに理解しました。特に高校の当時は思春期というよりも心が壊れていて心が崩壊する寸前でかろうじて持ち堪えていただけのように思います。そして、それが思春期だということなのかもしれないですけど、高校時代は心が壊れた思春期、今も思春期のような敏感なところは同じですが、今は心がかろうじて持ち堪えている思春期、という違いがあります。

そんな回想と再解釈が心の中に自然と出てきたのです。


それは、今に思春期になったという側面もありますが、それと加えて、かつての古いエネルギーが奥の方に未解消のままずっと押し込まれていて、それが出てきているのを処理した、と言う側面もあったように思います。記憶とエネルギーが甦ると共に物悲しい思春期の状態になります。この古いエネルギーを解決する必要を感じます。

最近古い記憶から出てきたロミオとジュリエットの劣化版みたいな創作物語は、それ自体は半ば創作ではありますけど、どうやら、幾つかのシナリオが結びついてごっちゃのイメージになってエネルギーとして存在していて、ベースとなっている素材それぞれは正しいのですけど、おそらく、周囲の知人、特に女性で時々、「とても悲しそうな、うつむいた表情」とか「ちょっと半分怒り気味だけれども、自分を押さえていて、それでいて、悲しげ」な人が時々いて、当時の私はその人たちのことを理解できなくて「なんでそんなに悲しそうなのだろう?」「なんでそんなに幾つもの感情が入れ混じっているのだろう」と、その女性たちの感情が理解できなかったのです。

まあ、流石に、具体的なやり取りがあって悲しげであれば一応は理解できていたわけですけど、そこまで実感がなくて、そうかもしれない、と思っていたくらいだったわけです。一方で、悲しげではあるけれども自分のことで悲しんでいるとは全く思っていなかった人たちが実はもしかしたら私のことで恋心が破れて悲しかった、と言う場面も、今更ながら思い出すと、そのような事もあったように思います。(他者からみると、そんなの自意識過剰かと思われるかもしれませんが。)

今、この古いエネルギーを処理しつつ、自分がそれらを一つ一つ(多分に創作ではありますけど)一応のストーリーを疑似体験することで、どうやら、これら女性たちが抱いていた感情はこう言うものだったのだと、今更ながら理解することができたように思います。

恋心を抱いているものの振り返ってくれない時に、人は、ああいう「物悲しい表情」をするのです。ドラマとかですとわかりやすいですけど、現実世界では、わかりやすい場合もあれば、微妙でわかりにくい場合も多々あるわけです。ちょっと仲良くなってそのまま恋愛に発展したいと向こうは願ってはいつつも私の方はというと気にせず友達扱いですから、その(異性の)友人の気持ちとしては「あれ。このまま恋愛してれるのではないの? もう好きになってしまったじゃない。 この気持ち、どうしてくれるの。 責任を取ってよ。 この気持ち、一体、どうすればいいの」と思って、「物悲しい気持ちと、少しの怒りと、その怒りを抑える自制心。普段は怒るような自分ではないのに悲しくて切ない怒りを抑えられない。不甲斐ない自分に対しても情けなくて悲しくなるし、恋が届かないことで余計に悲しくなるのです」と言う混在した感情があのような顔の表情と表現になっていたのではないかと思うのです。これは、怒りとは別の言葉を使った方がいいと思うのですがとりあえず怒りの一種なわけです。怒りと言うより憤りと言う方が良いかもしれません。特に体の関係があったわけでもなく、プラトニックな恋心が砕かれた可哀想な乙女が私の周囲にいたわけです。これは自意識過剰でしょうかね?

あまり勘違いさせないよう気をつけているつもりではありますけど、相手の恋心とかコントロールできませんし、仕方がないと言えばそうなのですけど。 私の方は割と惚れっぽい性格をしていますので目線や表情が反応してしまうことがあって、女性はそのサインに敏感に気付いて恋心に反応するものの、私の方はと言うといつものことで女性に反応してしまって自分でもその自分の無意識での反応の多さに気がつく度に「しまった」と思っているくらいですから、全員と恋愛するわけにもいかないのです。 ですから、なるべく、勘違いさせ始めてしまっているような女性とは距離を取るようにして要るのですけど、それはそれで、その子を悲しませてしまったりするわけです。 ほんと申し訳ないです。

今更ながらですけど、あの子とかあの子は実は私を好きではなくてただ単に優しく接してくれていただけだったとか、一方で、私があまり気にしていなかったあの子とかは(私を見る表情や感情から判断すると)私のことが好きだったのではないか、と言うことが今更ながらに理解できるようになって、何を今更理解してどうするのかというお話もあるにはあるのですけど、このまま理解せずにずっと過ごすよりは遥かに良かったのではないかと思うのです。

ここ最近見せられていたストーリーそれ自体は実はそこまで意味がなくて、多少あるとすれば「当時は心が壊れていて、感情体が未成熟だったために恋愛モードに入ることが難しかった。だからあの子と恋愛に発展しなかったのは、それは、もう仕方がない。そんなもの。当時は、以前書きましたように幼い頃の偏屈な愛され方によって自分を虐めてくるSっ気のある偏った女性しか愛情を感じれず、普通の、本当の良い子に対する接し方がわからなかった。酷い態度を取ってしまった」という教訓はあるにはあるものの、それは過去に既に終わった教訓としての個人的なお話であって、今更どうしようもないですし、当時の私の感情体はその程度でしたから恋愛モードに入ることができず、よって、私の当時の状態からしたら「そんなもの」ですので、このお話はもう終わりなのです。それよりむしろ、最近出てきた創作のストーリーというものは更なる幾つかの状況を理解するための「教材」のようなものだったように思うのです。少し前に分析しましたように、素材としては個別は正しくても、全体としてはどう見ても整合性が取れていなくて現実と一致していませんから、現実の対処というよりは、思春期や若かった頃に周囲にいた人たちを理解するための素材としての創作物語という意味が大きかったのではないかと思うのです。

そうして物語の内容を理解した後に現実を再度見てみると、どうやら、かつての(異性の)知人たちの中で本当に「いい子」と言うのが絞れてくるようなのです。もっと早くそれに気がついていれば良かったのですけど、本当にいい子は目立たなくて、それでいて、実はかなりいい子なわけです。当時からわかっていれば女性を見る目も違いましたね。たくさんいい子がそこらじゅうにいたように思います。

若い頃は自分では女性を見る目があるとか思っていましたけど、なんのことはない、そうでもなかったようです。若い当時は見た目とか性格とか全てを求めていてなかなか相手を選べませんでしたけど、今更ながら思うのは性格重視にしておけば良かったと思いますね。見た目も性格もどちらも良いのが一番ですけど、顔というのは個性でもありますし、基本は性格重視で良いわけです。

古い思春期のエネルギーが湧き上がってきていて何だろうとしばらく思っていて、そこまで意味ないのではないかともしばらく思っていて、早くこの古いエネルギーを解消したいと思っていたのですけど、実はかなり重要な知見がその感情の中にあって、これもまた、無駄なものではなかったようです。無駄なものなど何もない、という格言はその通りなのかもしれません。

最近湧き上がってきていた不安定な思春期の感情というものは自分がもう一度体験するために現れてきたものではおそらくなくて、それよりは、当時のエネルギーを理解するために湧き上がってきていて、今、その学びを終えたところで当時のエネルギーはいつの間にか収束して落ち着いてきています。とは言いましても、感情体が最近は発達してきているように思いますので、(いい年して)恋愛はしやすい状態になっているとは思います。

この悲しみと微妙な憤りは嫉妬とか独占欲と思うかもしれませんが違うのです。私も以前は独占欲かと思っておりました。しかし違うのです。他者がいるいないに関わらず、引きちがれる思いが悲しみを生むのです。そして、どうしようもない思いが弾けて、最後、恋が実らずに恋が苦だけ砕けた時に、ちょっとした憤りとちょっとした怒りのようなものが現れて、それを相手についついぶつけてしまうこともあって、相手にぶつけてしまうと、愛する相手を傷つけてしまったと言う自分への幻滅と、相手にきっと誤解されて、酷い人だと思われたという気持ちとが一緒に現れて、恋が破れると同時に、もうこの人の前に出ることはできない、恋はもう実らない、と言う悲しい気持ちで失恋するのです。そのように、恋心からの悲しみと微妙な憤りがあるのだと思います。このあたり、私は理解か足りなくて、周囲の女の子は、どうして私に時々ヒステリーになってくるのだろうと当時は思っていたのですけど、全然恋心がわかっていなかったようです。

その一方で、もう少し違った形での愛もあるように思います。それは、「理解したい、理解されたい」と言う思いで、それによっても恋心と似た思いをもたらすかもしれませんが、恋心より弱い気が致します。これによっても、同じような悲しみと疎外感による憤りをそれなりに感じるかもしれません。あるいは、対立軸における関係で、認められたいと言う思いか、恋心かのように勘違いしてしまい、同様に悲しみと憤りが生じるかもしれません。

これは、おそらく、段階の差なのです。

最初は対立軸にあっても、やがて知りたい、理解したい、理解してほしいと言う気持ちになり、それが愛の基本形で、そこから信頼関係が生まれるわけです。その途中のそれなりの信頼関係から始まる場合もあります。

若い頃は愛がわからない気がしておりましたけど、今思うのは愛とか恋とはいきなり一目惚れのようにするものではなくて育てるものなわけです。一目惚れは、実際にその人に恋をしていると言うよりは、似た顔や関係のある古いエネルギーが刺激されて出てくると一目惚れと呼ばれる気が致します。ですから一目惚れしたと思っていてもその古いエネルギーの力かなくなってしまうと恋が覚めるわけです。

一方、最初はよく分からなくても、誠実な人であれば関係性は育てればよくて、それが恋になると思うわけです。

そして、恋に落ちるとは自他同一なわけで、自分も相手も一緒になってよくわからなくなるからこそ恋なわけです。このあたり、瞑想で同じような境地がありますけど、恋に落ちる方が瞑想を極めるより実は簡単かもしれません。瞑想では愛とか言っていますけど、要は恋なわけです。

今思うのは、多くの私の周りにいた女性たちは私以上に私の状態を当時わかっていて、私が当時は自分に精一杯で恋愛どころではなく、それ故にその時はタイミングではなく、最初からわかっていたからこそ私のことで悲しんでくれてそれほど近づいてこなかったのではないかと思うのです。女性は割と生まれながらのサイキックな人が多くて、そうして全てを見抜いて恋心が叶わないことを知って悲しむ人がいる一方で、それほど感の良くない女性もいて中途半端に好意を持ったりされたこともあったわけですけれども、感の悪い人はそこそこな人でそれでも割と普通のことですから悪いことはないですけど、もっと感の良い人はいくらでもいるわけです。実のところ私を私自身以上にもっとはっきり理解してくれていた人は他にいたと言うことだと思いますし、私が相手にすべきだったのはそのような人でした。

瞑想が深まって周囲の人誰それ構わず親しみを感じるようになったのも、最近は思春期のような気がしていたのも、瞑想も恋も境地としては「自他同一」であって同じようなものだとすれば周囲の人に対して(初見であったとしても)恋心に似た感情を感じてしまうのは当然と言えるかもしれません。

特別な関係になることはなくても、一見で少し話すくらいの間柄であっても、もしも片方でもこの境地であったならば即座にプラトニックな恋に似た状態に落ちることができて、そのプラトニックな恋はその瞬間のことだけでその後はすぐに離れるわけですから、そのプラトニックな恋に似た状態はその瞬間のわずか数分であったとしても人生に活力を与えてくれるわけです。恋に似た感情の瞬間も甘酸っぱいですし、その後、すぐに離れてしまうことも、これまた切なくて恋心をくすぐられるわけです。そのような短いプラトニックな関係は打算もなく利害関係もなく、純粋な恋でいられます。お互いに恋とは認識しないでもよくて、良い人と気持ちを交わし合えただけでもこの世界は充実したものになると思うのです。

今回のことは単に後悔というだけでなく、様々な理解と知見と感情をもたらしてくれました。愛や恋というものに対する違った理解を私にもたらしてくれました。

そうして理解が生じた時、ここ最近度々あれほど私の感情を揺さぶって翻弄しようとしてきたロミオとジュリエット風の感情的な物語は急に意識の後ろへと後退しました。感情を正しく理解することで、それらの感情が完全へと近づきました。それぞれの感情の扱い方、理解の仕方、そのほとんどが理解違いあるいは理解不足だったわけで、これらは単に浄化だとか祓うかとかでも一応は対処は可能ですけど、理解によって完全なる感情と理解に少しだけ近づいた気が致します。

このことで本当に良い子というのはどのような人かが理解できてきたわけですが、その逆についての理解も深まって、これは副次的な理解ではあるのですけど、性格が嫌な人ですとか、あるいは「清楚系ビッチ(の素質)」とかもそれなりに判別できるようになりました。高校に入学した時に1年次の生徒会で一緒だった女の子の同級生がいて、振る舞いがしっかりしていて顔立ちも素敵で、私はその時点でかなり惚れかけていたのですけど、高校入学から数ヶ月のある日、突然、顔が変わって、それまでは誠実そうな顔立ちそのままでしたのに、急に、いつも薄ら笑いを浮かべているようになって、しかも、他のヤンキーっぽい女の人と一緒につるむようになって、更には、その前後では目元が明らかに違っていて、以前は目に「かすみ」があったような感じだったのに、それが消えて、目が開いていて、目線も何か浮いている感じになったのですが、今から思えば、あの頃にあの子は処女を失って、更には、そのまま清楚系ビッチになった瞬間だったのかなと思います。変になった時点でこの子には幻滅して好きではなくなりました。

他にも、中学時代から好きな気がしていた子がいて、その子は流石に中学時代は処女だったと思いますけど、その後、きっと清楚系ビッチになったのではないかなぁ、という気がしております。噂では、東京に出てきてからすぐに寝る女になったそうで・・・。それはそれで悲しいですが、そのような人だということが見抜けなかったということは私の見る目がなかったのです。最近は割とこのような人も判別できるようになって、男としては女性に対する幻想が解けて微妙に悲しくもあるのですけど、まぁ、変な女、特に清楚系ビッチに捕まるよりはいいかなと思います。ほんと、私は今まで女を見る目がなかったですね。今まで、私は女を見る目があるつもりでいましたけど、そうでもなかったようです。清楚系ビッチが見分けられるようになったからと言って、それが必ずしも正しいとも限りませんが、なんとなく判別できるようになったと言うことです。それにより、信用できないかもしれない人が弾かれて、信頼できる可能性の高い女の人が浮き彫りになるように思います。判断できるのは本当にその時点で清楚系ビッチかどうかではなく、清楚系ビッチの素質があるかどうかですので、環境や意思によってそうならない場合も多々あるとは思います。

今から思えば、あの時のあの子とか、私が女の子に相手にされなくて悲しんだとある状況すらも、ものによっては悲しむ価値すらなかったりしたわけです。例えば、私が好意を持った時に急にイラつき視線で見下して来たとある清楚系ビッチは、そもそも私が嘆く価値もない人だったわけです。この過去の古いエネルギーがふとフラッシュバックで再度湧き上がってきた時、一体なんだと思ったのですけど不意に答えが降りてきて、あの時、あの清楚系ビッチが私に対して思ったことが今の私に降りてきました。それは、あの清楚系ビッチがどのように思ったのか、あの子の視点としての理解と風景が降りてきましたので、そのことを認識した結果、はっきりと、私が嘆く必要もない、と言うことを理解したのです。あの子は、ただ単に、自分が可愛いことを自覚しているのでお金持ちのATM旦那を探しているだけでした。それ故に、自分が好きかどうかはあまり重要ではなく、私への返答が(見下しながら)「へえ、(貴方と)付き合ってどうするの?」と言う返答だったのは、「(男と付き合うことによって)手に入れるもの」をあの子は考えていたということで、実質的なATMを手に入れることがあの清楚系ビッチの目的だったわけで、であれば私はあの子からしてみたら雑魚でしかなかったと言うことで、あの子に何を言われようとも私が嘆く価値もなかったわけです。

はたまた、とある尻軽女は男を馬鹿にして(ゲラゲラ笑いながら)「男って大変だねー」と見下していて、私がいるところで面と向かってそんなことを私などに対して言えるあの女は軽率で男を見下していると感じていましたけど、その後、その子がふと妊娠して結婚したと聞いたのですが子供が産まれて何年も経たないうちにその子の浮気がバレて離婚したらしく、あのような子であれば、おそらく、男は馬鹿だから浮気しても平気だと思ったのか、あるいは、男にばれるわけはないと思ったのか、浮気しても離婚になんてならないとたかを括っていたのではないかと推測できます。あの子のそれまでの発言からすれば、そう考えるのが妥当です。随分といい会社の旦那だったのに放り出されて、あの清楚系ビッチはこれからどうするのですかね。当時は「この子なんなんだろう」ってよくわからなかったのですけど今から見れば清楚系ビッチそのまんまで女としても人としても信用できないです。どうやら、私が多少ながら好意を抱いた人のうちそれなりの割合で清楚系ビッチがいたようです。

危ないことが何度もありましたけど清楚系ビッチに引っかからなくて本当に良かったと思います。最初から金目当てですから清楚系ビッチにずっとATMし続けるか、あるいは離婚して財産分与か養育費と言うパターンになるわけです。仕草が可愛かったり愛想が良かったり床上手ならそれはもはら才能ですから清楚系ビッチに男が群がるのでしょう。そう言う清楚系ビッチを自慢する男がそれなりにいて、私からすれば、なんとも見る目がないなと思いますけど、まあ、人生なんてそんなものですから好きにすれば良いのです。清楚系ビッチには最初から近づかないのが良いと個人的には思いますが、これはあくまでも個人的な意見であって、誰かへの推奨ではありません。多くの清楚系ビッチは結婚の条件に「ずっと〇〇してくれるならいいよ」みたいな金銭面での無理難題を押し付けて男は了承しているようですので、そう言う男は自業自得と言えると思います。そんな無茶な約束、よくやるなぁ、と、私なんかは思ってしまいますが。そりゃ、私みたいな警戒している人は見向きもされないどころか邪魔者か雑魚扱いで見下されるのも当然でしょう。そういえば以前、私に会話が普通に聞こえてるのにも関わらず女同士で私のことを話題にして「えー、お金無さそうじゃない?」みたいに言っていたりしたので清楚系ビッチはほんと頭おかしいです。聞こえていても構わずそう言う会話するってことは私は完全に舐められているわけで、聞こえたとしても私のような男は雑魚だから問題ないと思っているのでしょう。そんな綺麗どころの清楚系ビッチよりも普通で信頼できる人の方がパートナーには良いと思えるわけです。

このような理解も、最近は割とテレパスになっていることが理解の助けになって、長らく謎だったあの子の発言の本音が時空を超えてテレパスでその子の側になって気持ちを理解しいて心の声をその子の立場に立った視点で聞くことで、相手の子の本当の気持ちを知ることができるわけです。その結果、たとえば先に書きましたように嘆く必要も元々なかったようなくだらない本音が聞けたりして、幻滅あるいは幻滅すらする価値もない清楚系ビッチの女に悩んでいたと言うことがわかったりするわけです。これはすぐ答えが返ってはこないですけと、疑問を投げておけばガイドが調べてそのうちふと答えを教えてもらえます。確認のしようがないですし、相手にしてみればそんな恥ずかしいことを認めるわけもなく、よって、確かめようがないためにそれが間違っている可能性ももちろん多々ありますが、仮説としても整合性が取れていますので、そういうことかな、と思います。私が元々思いもよらなかったことが真実だったりしますし、私の中の想像とも違っていて、もし私の中の想像だとしますと私の中のイメージやら願望を組み合わせたものが出てきたりするわけですが、このテレパスはそのような私自身の願望やイメージとは違って、その子の側からの視点での気持ちと心の声がテレパスによってわかるわけです。テレパスでわかるのは「相手」の視点での感覚なわけですから、それはかなりの確度があるわけです。それはただ単に「見ている」「認知している」と言うだけの状態であり、そこに「想像」はないわけです。そして、時に、自分が理解していたことと大きく違っていて愕然とすることもあります。普段の生活では「受け取り側」として相手の念を感じて解釈しますけど、テレパスの状態では「相手の視点」として、相手がどのように思ったのか、相手の心の内が、その瞬間だけ相手の心と重なるようにして思ったことを理解できますので、それ抜きの場合の「受け取り手の視点」とは大きく違った、相手の側から立った主観として相手の考えを直接的に理解することができるわけです。

こうしてみると、それまでスピリチュアルで言われた常識、「トラウマを受け入れましょう」みたいなのはかなり嘘であることがわかります。テレパス視点でいうと、トラウマとは「相手からのいわれのない誹謗中傷の念」でありますから、そんなものは、逆に、受け入れない方が良いわけです。この種の「トラウマを受け入れましょう」とかいうのは、エネルギーヴァンパイア側の、勝者側からの視点であって、「あなたたちはエネルギーを与える供給側なのだから大人しくしていなさい」という言説を、そうは直接は言いませんけど、周りくどく、それっぽく言っているだけなのだと思います。

一方で、自分が悪いトラウマというのもなくはないですけど、どちらかというと、相手から植え付けられているトラウマの方が多いように思います。まあ、この辺りは人によりますし、そもそも行動があまりよくない人は自分の行動に対して自分自身にトラウマを感じる、なんてのはそのそもないわけです。ですから、トラウマというのは、他者から植え付けられたものが多いように思います。他者からの念の中には正当なものもあって、正当なものは直していく必要があるとはいえ、付き合う相手にもよるとは思いますが、私の若い頃の場合、かなりの割合で理不尽で不合理で身勝手な怒りと呪いを他人から投げかけられて飛ばされていて、それを無防備に受け止めていたように思うのです。

私が清楚系ビッチに関してトラウマを感じていた理由は、そのような清楚系ビッチが表情では笑顔でいつつも心の中あるいは時に直接的な言葉や表情で私に対して拒絶と誹謗中傷の念を送ってきたり態度をしていたからなのであって、それ故に、清楚系ビッチが送ってくる念によって私がトラウマになっていたのであって、私は割と被害者なのですから、それに対して私が自分が悪いとか思う必要すらなかったわけです。そのことが、今回、ようやく(子供の頃以来で)テレパスの状態に戻ってきたことで相手が私に対して思っていたことが(相手視点で、発信側の視点で)はっきりと認知できるようになり、それはリアルタイムではなくて時差がありますけど、一旦、その視点が降りてきて理解してしまえば、ほとんどの場合において私はトラウマを感じる必要すらなかったことがわかるわけです。あのような清楚系ビッチ(複数人、大勢)に対して、私がトラウマを感じる必要もなかったし、その価値もなかったわけです。私は特に若い頃は清楚系ビッチに惹かれることが多くて、人生を無駄にしていたように思います。

私がスルーしていた人の中て何人もの良い子がいたわけですけど、判断力がないとこういうことになります。なんと無駄で思い悩む必要のないことに悩んでいたり、それによって自分が無駄に悩んでいたせいで行動すべき時に行動できなくて、相手の女の子に対して(きちんと行動できなくて)申し訳ないことをしていたのかと思います。

中学や高校あるいは大学時代にこの理解に至っていれば人生もかなり違っていたかと思いますが、まぁ、仕方がないですね。人生なんてそんなものです。

例えば、大学の1年次に合コンで会ったT大生のあの子とか、当時は「この子、よくわからない。あまり好みの顔じゃないな。話が合わない。すれ違いの話多すぎ」とか思っていましたけど、今から思えば、真面目でいい子だったことがわかるわけです。あるいは、高校の同級生の大人しいあの子も、私は普通に友人で特に恋愛の感情はなかったのですけど、いい子だったことがわかるわけです。

大学か社会人になってから合コンであった子が「幾つかの曲聴くと涙出てくる」みたいなことを言っていて当時はスルーしていましたけど、それは要はハートが開いている印で、とてもいい子であったわけですが私は当時はそれに気づかなかったわけです。

一方、中学に好きだったような気がしていた子は私とは深い関係はなかったのですけど東京に出てきてから誰とでもすぐに寝る女になったらしいので清楚系ビッチなわけです。高校時代に好きだった子はちょっと性格に難があったりしたのですけど、これもSの清楚系ビッチです。どうやら私は清楚系ビッチにばかり惹かれる性質があったようで、私に女を見る目が当時からあればもっと違った人生があったと思います。

就職先では上司(男)などの妻が清楚系ビッチだったりして、うまいこと金づる男を捕まえたのだなぁ、と思うこともありました。でもまぁ、本人たちが納得しているなら好きにすれば良いと思います。 わざわざ指摘するほど野暮ではないですし、割とどうでも良いです。それに、最初は金づるのつもりでもそのうち本当に愛し合う場合もありますし、逆もあると思います。

清楚系ビッチとは別に単純にS..X好きな女の子もいて、それはそれで清楚系ビッチとは区別すべきで、高校時代の同級生のとある女の子は、私とその子とは体の関係はなかったですけどぼちぼち普通に仲が良くて、話すことがめちゃくちゃオープンで、「そろそろ就職先考えてるけど、S..X好きだから、なんとかランド、ってとこは気持ちの良いことしてお金たくさんもらえるみたいだから、あれ、就職先によくない? 卒業したらあそこで働こうかなあ」とか嬉しそうに私とか周囲の男友達に対しても公言していて、そう言いつつあの子が誰としているのか私は知りませんでしたし、それ以上の関係ではありませんでしたけど、その後、実際には地元の公共の宿のスタッフに就職することになって、それでも尚「(スタッフとして働いている時に)宿泊者と目があってドキドキして部屋に潜り込むとかあると面白いなあ」みたいに本気か冗談かよくわからないことを言っていたのですけど、この子の場合は単純で、特に飾っているわけでもなく、正直なわけです。裏のある清楚系ビッチと、単純に性的なことが好きで正直な子とはまた別なように思います。

清楚系ビッチは必ずしも浮気するわけではなくてS..Xが好きとは限らなくて、要は清楚系ビッチとは男を操ろうとする綺麗どころの女性なわけで、清楚系ビッチかどうかは性格と気質によるのだと思います。清楚系ビッチは精神構造的に男のいじめっ子と同じような構造をしていて、態度は清楚そうに洗練されている一方で、自分が気に食わないことがあればイライラし始めて急にブチ切れるのです。ブチ切れるのは男も女もそこは変わらずモラハラなわけです。清楚系ビッチにイライラされてブチ切れられて睨みつけられて「あっち行け」の視線と念を飛ばされたことが多々ありましたけど、ほんとに清楚でいい子ならそんな態度は取らないわけです。私はほんと女を見る目がなくて清楚系ビッチに騙されまくっていました。当時は私が罪悪感のようなものに苛まやされていましたけど、実のところ、そんな清楚系ビッチのことで悩む必要も悩む価値もなかったわけです。

私が幼稚園の頃に最初の虐めにあって精神を病んで以来、執拗にネチネチと精神を蝕んでくる虐めっ子になんとか対処して生きてきましたが、そうしているうちに、思考停止になっていて、もはや周囲や人生に幻滅していて、関係性を切ることを意識し続けていて、やがてはメンタルが壊れて、周囲の人に対する理解が及んでいなかったのだと思います。若い頃はいじめっ子は男でしたけど、やがて高校や大学では清楚系ビッチと遭遇して、時間とメンタルを随分と無駄にしました。

当時は、若い頃から色々なことに対して周囲の人たちや大人たちからの刷り込みにより「お前(私)が悪い」と思わされてきましたけど、加害者が自分自身の行動を正当化して被害者に納得させ、被害者自身が原因だと思い込ませることはよくあることで、割と典型的な虐めと虐待、奴隷化のパターンにハマっていたように思います。そうして、長らく、周囲からの評価により私が悪いかのように思わされてきましたけど、どう考えても私ではなくて虐めてきた同級生が悪いのです。幼稚園の頃にしてみれば登校拒否の原因を作った同級生が悪いですし、小学校低学年の頃は近所の虐めっ子に近くの川で頭を水の中に押し付けられて「溺れさせる遊び」をやらされていて、急に頭を川の中に押し込められたり足を引っ張られて溺れさせようとしたりしながらその上級生は「ゲラゲラ」笑っていたのです。とある時には、その上級生は私を虐めるために電気シェーバーを私の足とか手に当ててジョリジョリするものですから、そこだけ毛が濃くなって、同級生にそのことを指摘されてネチネチと馬鹿にされていたりしました。どう考えても私は悪くなくて同級生や近所の子(上級生)が悪いのに、私が悪いんだと、私がおかしいのだと思わされ、私がやられるのが悪いのだと思い込まされていました。周囲の大人や先生も理解がなくて、「この、ぼおーっとしている子」としか思われていなかったように思います。今から思えば、保護施設にでも逃げ込めば良かったかと思いますが、保護施設に入ったら大学にも行けなかったかもしれませんので、一応は大学に通わせてくれましたので、そこは結果オーライと言えるかもしれません。

清楚系ビッチに私が悪いかのように睨まれて私は「雑魚クズ視線」を受けてゲラゲラ目の前で馬鹿にされて、それでも、なんだか私が悪い気がしていましたが、どう考えても清楚系ビッチの性格とやり方が不誠実なわけで、あんな清楚系ビッチのために私か悩む必要も悩む価値もなかったわけです。清楚系ビッチは言われもない怨みの念を時々送ってきたりしますので、清楚系ビッチとは最初から関わり合いを持たないのが良いのです。清楚系ビッチと体の関係を持つなんてとんでもないですし、話をすることすら避けた方が良いです。

そもそも、清楚系ビッチは私を小馬鹿にしつつ恋愛対象になると思っていたようですけど、私からしたら、馬鹿にしてくるような相手は決して恋愛対象にはならないのに、どこをどう考えたら、小馬鹿にすることで恋愛対象になるとでも思っているのでしょうかね・・・。まぁ、子供時代に「好きな子を虐める」なんてのはありがちみたいですので、そういうことをされたのかもしれないですけど、された方からしたらただ単に嫌な子という印象しか残らないので恋愛対象からは外れます。それで相手にされなくて勝手に落ち込んでいた人もいましたけど、なんだかなぁ、という感じではあります。確かに、そういう清楚系ビッチは魅力に溢れていて、ついつい惹かれてしまうという面もあったことは確かです。ですけど、惹かれつつも、「この人はダメ」という見えないバリアのようなものが張られていて、ものすごく興味をそそられつつも、同時に、バリアによって拒絶状態にある、という相反する状態になっていました。清楚系ビッチに惹かれないよう、誰か見えない人が守ってくれていたのですかね。

一方、本当に良い人はいて、必ずしも綺麗でもなくて素朴な人でしたけど、当時は容姿が良くない人が周囲の人によって番付されることも普通にあって、その、周囲の評価を気にしてしまい、感覚に従って行動できなくて、いわゆる番付の低い子と仲良くなりにくくて躊躇してしまう風潮があったと思います。そんなの気にしなければ良かったのにと思います。本当に良い子というのは顔とは関係なくて、性格が重要なわけです。

そういえばふと思い出したのですが、とある綺麗どころの清楚系ビッチのビジネスパートナーの女が執拗に私に会いたがってきて、なんだか急にしつこくて怪しかったので会わなかったら「お前はそれでも男か」とか言ってきて、その言い分はというと、「女が誘っているのに(私がその女を)抱かないお前はほんとに男か」、と言うような感じで罵ってきました。私が抱こうとしないことで苛ついていたようです。そのまま喧嘩になりましたが、その女はヒステリーになって「あなた(私)なんていなくても良い。私がやっているんだ。儲かっているだろうから、もっとお金出しなさい。嫌なら貴方は辞めればいいじゃない。」とか言って来ましたので、そこまで言うのならと言うことで逆にその女をビジネスから追い出して、アカウント停止してシステムへのアクセス権も全部無くしたらヒステリーになっていましたけど、実際のところ、出資にせよポジションにせよ全部私が用意したのに自分さえいれば良いから私なんていらないなんて、虫の良いお話です。Too good to be true であります。詳しい状況は話が長くなりますので簡潔に述べますと、あの勘違い女はこっそり企てるわけでもなく面と向かって私に「出ていけ」と言ってきましたけど、乗っ取りを公言しているようなもので、そう言われたら、こちらとしては追い出すしかありません。資本を持っているオーナーと雇われ社長との違いもわからないようで、サーバ管理も私なのに私がいなくなってどう運営していくのかすらわかっていないほど頭が悪く、自分が運営している(風に見える)からあのビジネスの成果は自分の手柄でこれは自分がやっているビジネスだから貴方(私)は出ていけ、あるいは、お金をもっと自分によこせ、みたいに要求してきたのですけど、サーバ管理も手間がかかるしコストももちろんかかっていて、広告も馬鹿にならないほどかかっていて、あの女が要求してくるほどそもそも儲かっていないわけです。と言いますか、まだ投資ステージですので利益があるように見えても初期投資が嵩んでいるわけで、まだトータルで儲かっていないお金を目の前にあるんだからよこせとか言ってくるほど状況がわかっていなくて、そもそも自分が半分飾りで私にポジションを与えられていると言うこともわかっていないような勘違いしている頭の悪い女はいらないのです。あのように私が言われるということは、私があの女に舐められていたということでしょう・・・。

そして、あの女は自分の状況がよくわかっていないことに加え、私を舐めて托卵を企ててきたのです。

托卵させようとしたり怒鳴りつけてくる清楚系ビッチが悪い醜い人である筈にも関わらず、私が時に清楚系ビッチに怒鳴られたり非難されたりして、まるで私が悪いかのような扱いを受けるのです。清楚系ビッチはドヤ顔で整然と怒鳴りつけてきますので、私は怒鳴られるとその瞬間、「そうかなぁ」とか考えてしまいますけど、どう考えてもあそこであの女を抱くのは違和感ありすぎますし、要求してくるような過大なお金を払うほどそもそも儲かっていないですし、あの女は資本と雇われ者と言う関係も分かっていないのですけど、あまりにも自信満々で正当性を訴えてきますので私は思考停止してしまいそうになり、感情から言うとあの女が正しいかのような印象を受けてしまい、私の方が悪いかのような錯覚を受けてしまうのですけど、どう考えても、そんな過大な利益供与はおかしいですし、托卵させようとしてくるような清楚系ビッチの方が悪い人としか思えないのです。何故に、私が怒鳴られてゲラゲラ笑われるような扱いを受けて非難されないといけないのでしょうか。托卵させられるのを拒否したところで、一体、何を咎められると言うのでしょうか。意味不明です。清楚系ビッチのような勘違い女を受け入れる男も世の中にはいるでしょうし、そのような生き方は私とは無縁のところで勝手にやってくれればよくて、ですから、清楚系ビッチを否定してはいなくて、清楚系ビッチの相手をして幸せな男も世の中にはいるでしょうから、好きにしてくれれば良いのです。清楚系ビッチは私に関わらないでください。意味不明すぎて頭がクラクラします。

あまりにも矢継ぎ早に早口で怒鳴られて非難されると、ついつい「そうかなあ。そうした方がいいのかなぁ。私が悪いのかなぁ」とか思ってしまうのですけど、それはテレパスの特徴で、相手の思想についつい同調してしまうのです。一旦、距離を取って、冷静に考えれば、全くもって、相手の言い分が間違っていることがわかるわけです。

思えば、清楚系ビッチの強面な押しに屈して結婚して後悔してしまっていた人が職場に何人もいました。「もっと結婚する前に考えれば良かった・・・」みたいに言っていて、とある人は「結婚した時は良かったけど恐妻になった」、だとか、また他の人は、何年も女性と付き合っていたら「結婚しないなら、時間を無駄にしたことになる。時間を返して」みたいに言われて結婚したが後悔している、みたいに、誠実さが欠けている自分勝手な清楚系ビッチと結婚してしまうと男は苦悩の日々を過ごすことになります。私もその1人になる可能性がありましたが、運よく回避することができたわけです。

どうして、こうも、私の周囲に(私をカモに見ている)清楚系ビッチが次々に現れるのか・・・。よくわかりません。 引き寄せの法則なのでしょうか。 それとも、私の脇が甘いのでしょうか。

思えば、あのビジネスパートナーの女は私に対して「ニヤリ」と言う顔を以前から時々していたのですが、清楚系ビッチが私を見た時に見せる「ニヤリ」という顔は、営業が高いものを売りつけようとしたり、上司が部下を奴隷扱いする時に見せる「ニヤリ」という顔つきと、よく似ています。とても気持ち悪いです。私は最近は、この、気持ち悪い「ニヤリ」を見たら全力で逃げるようにしています。

私は清楚系ビッチからしたらいいカモのようなのです。そして、カモが逃げようとすると、営業の人であればイラついて買わせたり契約させようと押し込んでくるのと同様に、清楚系ビッチもイラついて思い通りに私を行動させようとするのです。私が態度を引いて一歩でも逃げようとするとイラついたり怒鳴りつけてブチギレてくるようなところもカモ扱いしてくる営業職と清楚系ビッチは似ています。そのようなことがある度、私の心は病んで、頭がクラクラしてくるのです。このように、私をカモとして見ているような清楚系ビッチとは最初から関わり合いを持たない方が良いのです。

実のところ、あのビジネスパートナーの女と上記のようなやり取りがあった時点では流石に托卵を狙っているとは気付いていなくて単に過大な要求をしてきて威圧的でとても違和感があるから避けて遠ざけただけですが、その顛末がわかったのは半年後でした。とあるつてから連絡が入って、「あの子、親戚の同年代の男の子供を身ごもったらしいよ。私、妊娠を聞いた時に最初は貴方の子供かと思ったけど、親戚の子を身籠るなんて、あの子はもう幸せになれない」とか聞いてようやく違和感の理由がわかったのです。妊娠の大体のタイミングもその子は知っていて、托卵させるにはあのタイミングは割とドンピシャであることもわかりました。妊娠の月数をきっちり見たら合わないことがわかる筈ではありますが、割と誤差で誤魔化せるとでも思ったのでしょう。それにより、はっきりと、あの女は托卵させたくて私と寝たかったと言うことだろう、と、かなりの確率で違和感の理由が判明したわけです。托卵は私の単なる想像でもなく、実際に本当にそれを狙っていた、と言うことが、この、とあるつてから詳しく状況を聞いたことで判明しました。

であれば、あの清楚系ビッチのビジネスパートナーの女にとって私は都合の良いカモだったのでしょう。ほんと、頭がクラクラします。肉食の清楚系ビッチはかなり強引なようです。そもそもあのビジネスパートナーとは一度も寝たことがないですし、最初からそういう関係ではないのですが、周囲からは関係性を噂されていました。それまでもあの子が何か企んでいそうな怪しいことはありましたけど、あの時は特に、何か強引でおかしかったのです。怪しかったので距離を取った結果、後で状況を知ったらかなり頭のおかしい強引なSの清楚系ビッチだったようで、ほんと私は見る女を目がないなぁ・・・ と思います。そのつてから詳しく聞いたことによると、親戚と夜な夜な楽しんでいた・・・ とのことで・・・。頭がおかしいのではないでしょうか。単純に他の男がいるだけならまだしも、親戚と夜な夜な遊んでいた、なんて、どのような頭の構造をしているのか意味不明で、一般的な道徳が欠如していて全く理解できません。三親等より離れていれば結婚できるとは言いますけど、親戚とそういう関係にはあまりならないのではないでしょうか。 頭がクラクラして、吐き気がします。 私は一体、あの子の何を見ていたのでしょうか。

この女は、関係が良好な時はずっと「感謝している」とか言っていたのに、いざ関係が破綻すると時折メールが来て「貴方と関わってから全てがうまくいかなくなった。あなたのせいだから責任取って」とか矛盾した意味不明なことを後になってつらつらと言ってくるようになりましたので返事もせずに当時は無視しました。あの女の人生がうまく行かなくなったのは私のせいではなくて望まれない親戚との子を孕んだからだと思いますが・・・。なぜに私が托卵を拒否したらこれほどまでに恨まれるのかよくわかりません。もはや、錯乱していて意味が通っていないのです。こういうことがありましたから、私は頭の悪い女とはあまり付き合いたくないのです。

この女が托卵を企んだように、私が少し良くしてあげていると図々しく付け込んでくる清楚系ビッチが多すぎます。かと言って、親切にしないというのも性に合いませんので、尽くし過ぎることなく、脇を締めた態度を取る必要性を感じます。それと、誰かに奉仕をするときは見返りを求めずに行えばそれに対して相手が何も返してくれなかったとしても私の心は傷付かずに済みますので、そのように、誰かに何かを与えるときはあらかじめ条件設定するか約束をし、条件や約束がないのであれば特に見返りを求めないようにしています。それもまた、学びの1つです。勝手に期待しても相手は違うことを考えているのです。私から見ると図々しく付け込んできているように見えても清楚系ビッチからしたら「それが当然」と思っていたりしますから、そのように、認識の違いすぎる女、例えば托卵して育てさせようとか企むような女とは関わり合いを持たない方が良いのです。まず清楚系ビッチは避けて、関わる人に対しても脇を締めることの必要性を感じます。

良い女性というのは与えることと受け取ることとのバランスを取るように思えますけど、清楚系ビッチは一方的に受け取って自分の利益を最大化しようとするところが違います。受け取ったらそれに見合う分のお返しをしようとするのが良い女性あるいは割と標準的な、普通の人だと思うのですけど、清楚系ビッチは旦那や周囲から自分が受け取るものを最大化しようとして、バランスを一方的に崩して受け取るだけ受け取ることを考えて、時に、自分の思い通りに利益が得られないと不機嫌になったりするのです。これは程度問題でもありますけど、度を超しているのが清楚系ビッチの特徴であって、清楚系ビッチは「だって、あなたが良いと言ったじゃない。同意したのでしょ?」というところで自己を正当化するという特徴があって、そもそもの基本としてバランスを考えるのが良い子なのであって、バランスを無視して同意したかどうかで考えるのが清楚系ビッチ、という違いがあります。良い子であれば、確かに同意をしたといえばそうであったとしても、それに見合うものを与えられているかどうか、というところが基本の価値基準にあるわけですけど、清楚系ビッチにはそのバランスの感覚が欠如していたり足りなかったりするわけです。そこが、清楚系ビッチと良い子との違いになるわけです。要は、清楚系ビッチは図々しいわけです。そして、自分が望むように利益を得られなければブチギレたり無視したり見下したり「お前は男じゃない」扱いしたり非難したり未練もなくすぐに離れていきます。どのような具体的な行動に出るかは人それぞれであったとしても、利益のバランスという面では一方的でバランスを欠いているのです。


そのような、数々の、意味不明な色々なことがあったとしても基本は「人生は全て完璧」ですから、これら全てが学びになっているのです。悪い見本のようなお話ばかりでしたけど、脇を締めて、なるべく君子危うきに近寄らず、と言うことでなんとか生き延びています。

どうやら、今まで、私はずっと、清楚系ビッチのような綺麗な人に対して憧れる感覚を「恋」だと認識していたように思います。ですが、今更の話になってしまうのですけど、それは恋といえばそれはそうなのですけど、割と本能的な性的な視覚的な愛だったように思うのです。

そのようなことがある一方で、私が今まで恋だと認識していなかった相手、むしろ「よくわからないな」と思っていた感覚、あまり相手にしてもらえない時に悲しくなる感覚、相手を理解したい、相手に理解してもらいたい、それらが実は恋と呼ぶに相応しいものだったものなのかもしれない、と、今更ながら自分のかつての状態を認識し始めました。となれば、今までの私の認識および行動が根本的に間違っていたことになります。

恋は盲目、なんて言いますけど、盲目な恋にしても2つあって、肉体や性欲に近い愛は、割と初歩的な愛のように思うのです。肉体に近い盲目の愛と、「よくわからない」と言う感覚に基づく本当の恋があるわけです。肉体や見た目に近いところで盲目だったり憧れるような恋も一応は恋であって、それにドンピシャ当てはまっていたのが清楚系ビッチで、相手の笑顔を今から思い返して分析してみると、あの清楚系ビッチの笑顔は私のことを好きになってくれていたのではなくて、「この人、私のことが好きみたい。やったー」という感じの表情だったように思うのです。それは理解し合うという種類というよりは、「好きなら私に尽くしてくれますよね」という種類のものです。

この種の清楚系ビッチを好きになってしまうと、願望が満たされているうちは基本は大人しい子だったりしますけど、時に、どこかで「どうして、これをしてくれないの」みたいなところで清楚系ビッチがイライラし始めたり、急にキレたりして私の心が蝕まれたり、あるいは、時に、清楚系ビッチの本命は他にいたりしますから、浮気されたりします。私が好きになっていた(と思っていた)相手は、割とこのいずれかのパターンに当てはまっていたように思います。

今から思えば、そのことをよくわかっていた周囲の人たちがいて、ある時、「もっとよく考えた方が良いですよ」みたいに忠告してくれていたのかなと思いますけど、私は「そんなことない。大丈夫。私は誰それが好きです」とか思っていたのですけど、実は私は恋とかをそこまで深く理解していなかったようなのです。清楚系ビッチに対して憧れて好きになる感覚を恋だと思い込んでいたわけです。ほんと、一体、今まで何を理解して何をしていたのだろう、という感じです。

今更ながら思うのは、それは恋と言えばそうだけれども、一方的な憧れをしているだけであって、不完全な愛、歪んだ愛なわけです。そこに確かな「(相互)理解」は(あまり)ないわけです。

そうではなくて、恋愛の基本は相手を理解することであって、お互いに理解して、そこから関係性が発展していくわけです。それはそうで、当たり前と言えば当たり前なのですけど、このことが、いまいちわかっていなかったと言えます。このことを理解した上で、今更ながらに思うのは、今まで私が恋をしていたと思っていた清楚系ビッチとは実はそこまで恋をしていたわけではなくて、一方、今まで私が「好き」と認識していなかった相手が、実は(私が)恋していた、ということです。とは言いましても、昔のことですので100%の確信ではなく、おそらくそうであろう、という理解ではあります。一旦、このような結論が出かかっても、「自分で、自分が恋をしていたことに気付かないなんて、そんなことが本当にあるのだろうか」と今だに疑問に思ってしまうのですけれども、実際、そうだと思うのです。

私の記憶を辿ってみると、今まで「好き」と認識していなかった相手、例えばT大生のあの子とかを実は(私は)(おそらくは)好きだったのではないかと思うのです。当時は「なんだろう。よくわからない」と思っていたわけですけれども、何十年も経って、今更ながら「あ。あれは、(私が)好きだったんだ」とふと気がついて、ほんと当時は自分で自分のことがわかっていなくて態度にせよ言動にせよ、うまく表現および行動できていなかったように思うのです。当時、あのT大生の子にあんまり相手にされなくて凄く悲しく感じたのですけど、そのことを当時は「ああ、なんだか住む世界が違うから相手にされないんだ」とか思って、それで悲しいのかなと思っていたのですけど、実はそっちではなくて、好きになりかかっていたのにも関わらずあまり相手にされなかったので悲しかったのではないかと思うのです。私があの子の顔を見て、それから、あの子がこちらに振り向いて目と目が合った瞬間に自分でも理解できない悲しい感情と涙が急に出てきて、その時、何が起こったのか頭で理解できずに取り乱しそうになるのを必死で意識で押さえつつも半ばパニックになりかけて涙と表情が爆発しかけて顔を必死で手で隠したりしましたけど、それを当時は上記のように解釈していたわけですが、今から思えば、当時の自分の解釈は間違っていて、自分で自分のことをよくわかっていなかったのです。頭では「別に、好きではない」と思っていた、あるいは、そう自分に言い聞かせようとしていて、体の方が反応してしまっていたので頭と体の反応がちぐはぐになっていてパニックになりかけていたわけです。本当に信頼すべきは体の反応だったわけで、であれば、私はあの子が好きだったのではないかと思うのです。好きでないのであれば顔を見ただけで涙が出たり泣きそうになったりはしないですからね。自分の感情に対する理解が間違っていましたし、その基本の理解が間違っていたが故に、自分が行動すべきことに対する認識も全く間違ってしまっていたわけです。

私が恋のアプローチをすべきだったのは清楚系ビッチではなくて、誠実な相手、理解し合える相手だったわけです。中学や高校時代あるいは大学を思い返してみれば、何人もの清楚系ビッチを好きになっていたり、一方で、(顕在意識で)好きと認識していなかった相手のことが実は好きだったりしたわけです。顔立ちとか化粧の完璧さとかは本当に好きかどうかはあまり関係ないように思えます。清楚系ビッチは化粧は上手で顔立ちも良いですけど、それと、私が本当に好きになるのかは関係がないように思えるのです。顔立ちは、ある程度、最低限のところで、生理的に無理ということでなければ割と許容範囲は広いように思えます。当時は、周囲の影響もあってか、ついつい顔で選びがちでしたが、その選び方は間違っていました。それよりも、もっと、感覚を信頼すべきだったのです。感覚で「好き」の反応が体に現れても、頭の理性で考え直して「いや、好きではないよね。うん」と、理性を優先させてしまい、結果、清楚系ビッチにばかりアプローチするような人生を送っていました。

清楚系ビッチに対してはドキドキして恋しているかのような感情がありますけどそれは割と肉体的な愛で、本当にもっと(高次の)ハートで好きな場合は、もっと知的で根源的なのです。

私自身が誰かに対して恋の反応をするのは稀でしたが、今から思えば、自意識過剰なだけかもしれません。私は割と鈍感で周囲の女の子を同じように逆の立場で悲しませていたことも時々あったように思います。実際のところ、本当にしっかりとした関係になるには、その、「悲しい」反応が出てしまうと少し遅くて、「悲しい」反応が出る前にお互いにアプローチすることが理想のように思います。人によっては「悲しい」反応が1回でも出た瞬間に離れてしまいますから。

こうして、私がかつてそこまで認識していなかった相手、顕在意識で「好き」と認識していなかった相手が実は(高次のハート、性的な感覚より根源的、知的に)好きだった相手で、今までかつて(顕在意識で)好きと認識していた相手が実はそこまで上等な恋でもなかった、ということに今更ながら気付かされたわけです。自分自身の中で、自分の感覚に対する理解が、間違っていたことに今更ながら気がついたわけです。頭では「私はハートでの愛を知っている」つもりになっていて、実は、そうでもなかったわけです。

例としては、最初に就職した時に別の部署にいた仲の良い女の子はおそらく私のことをハートで本当に好きになってくれていて、でも、私の方はというとその時点ではそこまでハートの愛を知りませんでしたから、私の方はもっと肉体的な盲目的な愛でしかなくて、それ故に、噛み合わなかったのです。その子は私に対して何か不満があるらしく、その不満というのは、おそらく、ハートで愛してくれていないから不満があったのではないかと思うのです。私の方の愛のレベルが低かったわけですね。その、噛み合わない気持ちが、あの子の、時折見せる、とても悲しそうな、理解し合えない悲しさだったように今更ながら思うわけです。

・自分:低い愛(肉体の愛) と 相手: 低い愛(肉体の愛)  → 清楚系ビッチ(の場合がある)。何かおかしくなる可能性が高い。嫉妬、束縛の愛。
・自分:低い愛(肉体の愛) と 相手:ハートの愛(知的な愛) → 噛み合わないか、相手が妥協あるいは(自分を)理解してくれればうまくいくが、相手には理解し合えない悲しさが残る。
・自分:ハートの愛(知的な愛) と 相手:ハートの愛(知的な愛) → 理想
・自分:ハートの愛(知的な愛) と 相手: 低い愛(肉体の愛) → 噛み合わないか、自分が妥協あるいは(相手を)理解すればうまくいくが、自分には理解し合えない悲しさが残る。

表にしてみれば当然のようにも思えますし、昔からこの種の表は時々見た気もしますが、実際、実感はなかったわけです。人は、この種の説明を聞いてしまうと頭で理解して「そうですか。わかりました。ハートで愛します」なんて勝手に解釈してしまって、あたかも自分がわかっている気になってしまうものです。ですが、実際、わかっていなかったわけです。スピリチュアルの分野ではこの種の「頭で理解してわかった気になる」という落とし穴が割と沢山あって、あまり知識を重視せず「まずやってみる」ことも時には重要になってきます。今回、頭ではわかっていたつもりでも、実は、全然わかっていませんでした。

思春期のような心境を取り戻したことで、単にかつての心境に戻るだけでなく、新たな理解をももたらしてくれて、その理解により過去がようやく精算できて、何が正しくて何が正しくないのかを判断できるようにようやくなって、人の見極め、良い人とそうでない人、誠実な人と不誠実な人を見極められるようになって、かつての心境を乗り越えることができ始めたような気が致します。

このような感じのことがここ一週間で走馬灯のように蘇ってきています。いつまでも昔に生きていても仕方がないのはそうなのですけど、ここしばらくは振り返りの時期だったように思うのです。人生においては、そう言う時期もあるように思います。

そうして、これらの理解が起こった時、ハートがより一段、高い次元で開き始めたように思います。ハートの感受性が高まり、と同時に、何故か、何もなくても涙が出てきます。ここのところ、過去に恋愛したことに関するフラッシュバックが久々にやってきていて、最初は厄介だなというくらいにしか思っていなかったのですけど、終わってみれば、かなり重要な理解と状態に達したように思います。

最初、ロミオとジュリエットの劣化版みたいな物語を現実とは少し乖離した形の創作ストーリーでフラッシュバックで見せられていたわけですけど、最初はあまり理解できなくて、単なる創作ストーリーだと思っていて、単に素材を繋ぎ合わせた記憶の断片と思っていたのですけど、実のところ、このあたりを理解するためにあのフラッシュバックが何度も何度も来ていたのであれば、私のガイドはこの理解を私にもたらすために根気よく教育用の教材を提供してくれていたのだと思います。その理解の元、改めてロミオとジュリエット風の創作物語を見直すとまた違った理解に至ります。創作のごちゃ混ぜかと思っていたのですが、実は、意外に現実を反映しているのかもしれません。どちらにせよ、私の見る目は変わりました。

これにより、人生の恋愛に対する指針が一新され、愛すべき人、そうでない人、(私に対する)肉体的な愛の感情を持つ人に対しての接し方、(私に対して)ハートで愛してくれる人に対する接し方、相思相愛の理想系、というものがおぼろげながらに見えてきたように思います。そう考えると、今までの人生において、理想の相手になり得る人は数えるくらいしかいなかったことがわかります。そのことが、ようやく、見えてきたように思うのです。

今まで、私はハート(アナハタ)の愛がどのような感覚なのかあまり知らなかったようです。時折それが現れても、そのことを受け入れる準備が整っていなかったように思うのです。解釈として、ハートの愛がどのようなものなのか間違って解釈していたのでした。

あの時の感情がハートの愛だとは解釈できなかったのです。好ましい良い愛だと言う解釈を顕在意識の思考としてできていなかったのです。今まで何度か何人かの相手にハートの愛をしていたかと思いますが、どれもうまくいかなかったように思います。それにはパターンがあって、その感情がハートの愛だと自分で解釈できずに、「いや、これは違う」と頭が解釈していたので、頭と感覚が分離しており、その愛はうまくいかなかったのです。頭では「この子にはそんなに興味ない」と思っていたとしても、何故か感情の方で反応してしまっていたりして、感情で反応しているのに頭で「違う」とか「興味ない」と思ってしまっていると恋愛も当然ながらうまくいかず、そうして相手と齟齬になると意味不明に涙が出てきたりして、そのことが顕在意識の頭では理解できなかったわけです。その時、顕在意識のマインドの思考がどうにか屁理屈をつけて理解するために「それっぽい理由」をつけて一応は理解していたわけですけども、本当に理解してはいなかったのです。実態と理解とが分離していますから変な感じになってしまっていました。例えば、「あぁ、やっぱりT大とか行く子と私は生きている世界が違うんですね」と、それっぽく解釈して悲しくなっていたわけですけれども、実は、そういうことではなくて、単純にハートで好きだったように今更ながら思うのです。どう考えてもこの子は好みじゃないし好きではない・・・ と頭では解釈しているのですけど、感覚の方はというと、その理解とは異なるのです。自分で自分のことを解釈できていなかったわけです。だから、態度として「うーん、よくわからない」と言う態度になって、「別に、そんなに綺麗でもないと思うし、好みの顔ではないし」と思いつつも「なんだかこの子だけ特別な感じがする(きっと住む世界が違うんだ)。なんだこれ。私はこの子を好きではない筈」と無理やりそれっぽい解釈をしていたわけですけれども、頭で感情を理解できていなかったわけです。

当時も今も、スピリチュアルでは「肉体に近い性欲よりも、ハートの愛の方が好ましい」みたいなことが言われていて、頭でそれっぽく理解して「そうか。ハートの愛が良いのですね。それはそうですね。」と解釈して、頭だけで「はい、わかりました」とわかったつもりになって、あたかも自分がハートの愛を知っているかのように思っていましたけど、実は、そうでもなかったようです。時折、何人かの相手にハートの愛をしたように思うのですけど、それは本当に時々で、しかも、当時はそれが愛だと頭で理解できていなかったのです。ですから、本当は好きになるべき相手に対してそっけない態度を取ったりスルーしていたりしました。話し始めてから途中までは頭での解釈が入っていませんでしたから無意識で「あれ、なんだこれ」と、なんだか合う感じがしていましたのに、途中で不意に我に返って、頭で考え出して、じっくりとその子の顔とかを観察すると、「あれ。なんだろこれ。好みの顔じゃないし、好きじゃないや」とか思ってしまっていて、実は感覚の方が正しいのに、その感覚を頭が邪魔して恋愛がうまくいかなかったわけです。「ん。私、今まで何していたんだろ。あれ。この子。うーん。ん、ん、ん。よく見ると、そうでもない。好みの顔でもなかったりするし。どう言うことだろ」と急に白けた感じになって、白けたというよりは頭が感覚の邪魔をして、大抵の場合はそれが相手にも伝わって不機嫌にされたり相手が違和感感じたりして恋愛がうまくいかなかったりするわけですけど、今から思えば、一時的にそれなりのワンネスであるハートの愛の状態だったわけで、であれば、その無意識こそが優先されるべきで、頭で感覚の邪魔をすべきではなかったわけです。その時の状態が顕在意識で理解・解釈できていなかったのです。だから、愛とか結婚とかは「勢いだ」とか言われるのも、ハートの愛であれば、それはそうなのだと思います。

肉体的な性欲あるいは容姿の愛はもっと下の丹田のあたり(マニプラとかスワディスタナ)の感覚で、マニプラの愛でもそれなりに愛ではあるのですけど、割と「束縛・情の愛」なわけです。私は、この、マニプラの束縛・情の愛をいわゆる清楚系ビッチに対して感じていたわけですけれども、当時はそれがマニプラの愛だと気付かず、実はマニプラの愛をハートの愛だと解釈していて、どの感情がハートの愛だということを頭で理解できていなかったのです。ハートの愛というと言葉では何やら立派ですけど、実のところ、なんであれ都合の良いように解釈してしまって、低い段階の愛でも頭で「これはハートの愛」と思って解釈してしまっていたように思います。どれがハートの愛なのか、わかっていなかったのです。違うものをハートの愛だと解釈してしまっていたのです。

この辺り、おそらくは私の母親の影響が強くて、私の母親は束縛が強くてマニプラの愛なわけですけど、束縛の愛は母からとても沢山頂いたように思えて、それは有り難い愛なのですけど、とは言っても、どこまで行ってもそれはマニプラの束縛の愛なわけで、母親からはハートの愛はそれほどもらえていなかったように思います。そのことにより、愛とはこのようなものだ、という解釈が、私の中で当時に出来上がってしまっていたように思うのです。世間で愛はハートとか言われていて、実はハートの愛ではなかったのにも関わらず、自分が知っているだけの感覚がハートの愛だと思ってしまっていたわけです。感覚として知らないものを理解するときに、時に人は頭でわかったつもりになってしまいます。そういうことが起きていたように思います。

比較として、マニプラの愛よりハートの愛の方が「より知的」になるように思います。ですから、マニプラの束縛の愛あるいは肉体に近い愛に慣れている方からしたら、ハートの愛というのは割と冷めたものに見えてしまったり、あるいは、そもそも、それが愛だと頭で解釈できなかったりするわけです。

当時、冷静になって頭で考えると「あれ。私の好みはこういう子じゃないはず。いつもの(特に清楚系ビッチに対する、束縛系の愛の)ドキドキな感じとは違う」と思って、頭で「ん・・・。何か違う。これは愛ではない」と解釈して自分の感情を抑えたり騙したりしてしまっていたわけですけれども、それは解釈違いだったわけです。そのように頭と感情とが一致していないと感情面で不安定な意味不明な状態になって、たとえば急に悲しさが爆発してしまったりして、急に涙が出てきて泣きそうになる時があっても頭ではそれが何なのか顕在意識では理解できなかったりしたわけです。心と意識が分離された状態で顕在意識のマインドで勝手な解釈をしてしまうと、その間違った解釈が故に正しい行動ができなかったり、感情を知らず知らずのうちに押し殺してしまっていたわけです。その古い感情が随分と長い間私の奥底に眠っていて、最近になって、ようやく「正しい」理解を得たように思います。

マニプラの愛は束縛をしてきて、それはそれで愛なわけですけれども、ハートの愛になるともっと自由で束縛があまりなく、お互いに相手とより深く繋がりつつも尊重し合っているように思うのです。

思えば、最初、1週間くらい前から古い感情が出てきて一時的な思春期のような状態になっていた時、蘇ってきた記憶のフラッシュバックで現れる解釈がこのような「間違った当時の解釈」と食い違っていたため、最初は「要素ごとは昔のものを使っているけれども、解釈が異なる、現実と異なる。単なる教材のような気がする。頭の中で創作してしまった物語なのでしょう。」と思っておりました。でも、実は、それすらも私の解釈違いで、フラッシュバックで見せられたのは割と正しい姿で、私の昔の解釈がかなり間違っていたようなのです。となると、私は、全然わかっていなかったということが今更ながらわかります。当時は自信家で、よく理解できているつもりでいましたけど、なんてことはない、全然わかっていなかったようです。(今でも、まだ色々と、そういうことはあるかもしれません)

こうして改めて思うと、マニプラの愛が悪いものではなく、私が清楚系ビッチに感じていた愛はそれなりのマニプラの束縛の愛だったように思います。それはそれで、そのような愛の形もあるのだと思いますし、それにより深い愛を感じることは確かだと思います。束縛したいとか、束縛されたい、だとかいう感情は、それはそれなりに深く繋がることができてお互いに幸せなのだと思います。疎遠な愛よりも遥かに良いわけです。束縛の愛であったとしても愛をあまり知らない状況より良くて、それはそれできちんとした愛であるわけです。そのような愛が、清楚系ビッチによる束縛の愛かと思うのです。であれば、特に悪いことはなく、そのような人の愛し方もあると言うことで、それはそれでお互いに幸せな状況なのかなと思います。私自身、そのような愛を長らく幸せだと思っていましたから、苦しいことがあったとしても、それはそれで幸せなのだと思います。

また違った関係性のパターンがあって、相手はハートあるいはそれ以上の崇高な存在だとして、自分は今だにマニプラの束縛の愛しか知らない場合、相手を困惑させてしまうように思います。思えば、昔、全く違う場面において、私が気になって近づいた女性の方が困惑して、その女性がどう反応したら良いのかわからない困った状態で(遠回しに)拒絶される時があって、それはおそらく、私の愛がマニプラの束縛の愛だった一方で、その人はハート以上の愛を持っているから感覚が合わずに困惑し、そのくらいの良い人になると怒るとかはっきりと断るということはせずになるべく繋がろうと一旦はしてくれるのですけどうまく感覚や感情が繋がらず、困惑したまま、ちょっと視線をずらすようにして遠回しに拒絶した、ということがあったように思います。それなりに段階が同じですと繋がる部分があるのですけど、この時は、女性の意識レベルが高すぎて私と繋がれる部分をあまり持っていなかったように思うのです。女性からしてみたら「ちょっと、よくわからない。無理」という感じだったかと思います。そういうこともあるかと思います。

私は今まで束縛の愛、マニプラの愛の段階にいて、ハートの愛を度々経験しつつも、そこになかなか踏み出せなかったように思うのです。おそらく私は、この種のマニプラの束縛の愛からハートの愛へと踏み出す、過渡期にいたように思うのです。それ故に、今まで習慣になってしまっていた愛し方についつい固執してしまい、ハートの愛の形を頭で理解できておらず、よって、行動もちぐはぐになり、ハートの愛をうまく体現できていなかったように思うのです。本当に愛すべき人が何人も目の前に現れていたのに、そのことを理解できていなかったわけです。

今回、今までの人生を振り返ることにより、ハートの愛を理解して、今まで出会った人の中で誰を愛するべきではなかったのか、実は誰を愛して大切にすべきだったのか、それを認識できたように思います。今まで清楚系ビッチにばかり惹かれていましたが、愛すべきだったのは誠実な人だったわけです。そう言う出会いも多数ありましたが、認識が至らず、スルーしてしまっていたかと思います。あんないい子たちに、若い頃の私はなんて失礼な態度を取ってしまったのだろうかと思います。何人もの、スルーしてしまった良い子たちに謝りたいと思います。

ハート(アナハタ)の愛の場合、愛が伝わらないと悲しくなるように思います。特に相手がまだハート(アナハタ)の段階にない場合、相手の愛がマニプラ段階ですと、ハート(アナハタ)の愛で繋がることができなくて悲しくなるわけです。あの時のあの良い子たちと仲良くなるべきだったと今更ながら思ったりもするわけですけど、実際、当時の状態ではその愛に応えられるほどの段階に至っていなかったわけです。私の方に準備が整っていなかったわけです。あの良い子たちはハートの愛の段階で、しかし、私の方は時折そこに達するかどうかという過渡期で基本はマニプラの束縛の愛でしたから、あの良い子たちは私の状態を見て、ハートの愛で繋がることができなくて悲しんでいてくれたのだと思います。段階が違うのですから関係性がうまくいかなかったのも当然であると言えます。

このような理解が私の中に現れると共に、今までよりハートが少しだけ開いて胸の敏感な部分が顕になり、時折、その敏感なハートが外界を興味深そうに伺っているのを感じます。ハートが以前より周囲の感性を敏感に感じ取っていることを感じます。更には、頭頂のサハスララの方にまで更にオーラが充満するようになり、まだサハスララは開ききっていないような感じではありますが、それでも、安定度は増したように思います。この状態で、愛に対する理解度が増したように思うのです。その結果、今まで、申し訳ないことを沢山した、という思いが次々に湧き出てくるのです。これは若い頃のお話ですから、体の関係とかはなくて、心だけのお話、プラトニックなお話です。特に深い関係になる以前のお話で、淡い気持ちをないがしろにして女の子を悲しませてしまったことに対する申し訳なさのお話なわけです。私は割と、純粋な乙女の気持ちを無視してスルーしてしまっていたように思うのです。そして、そのような人たちの中に本当にいい子たちが沢山いたのですが、本当に大切にすべきだったのはそのような人たちだったわけです。

そうは言いましても、私なんて恋愛下手でとても鈍いのですから、女の人の方からはっきりと気持ちを言ってくれても良かったとは思いますが、やはり女の人の方からそう言うことは言いにくいですよね。それは仕方がないです。いい子ほど自分の気持ちを表現するのを躊躇してしまっていて、いい子の気持ちほど男の方が気付いてあげる必要がある気も致します。

これは、色々と理屈もありますけど、平たくいえば「私は今まで(それほど)ハート(アナハタ)の愛を知らなかった」と言うことだと思います。感覚で時折そのような状態になることはあっても、恒常的なハートの愛の状態ではなかったように思うのです。ぐるりぐるりと理解を何度も何度もし直すことにより理解が少しづつ深まってきているように思います。

理解が改まったことにより、今後の振る舞いや考え方も根本的に変わることと思います。今更ながらという感もありますが気付かずに一生を終えるよりましで、せめてこれからでも認識を新たにして生きてゆきたいと思います。

この新たな目で世間を見ると、「本当に良い人」と言うのはそこら中にいて、愛に満ちた生活を送っているということがわかります。そのような人はスピリチュアルな変な理屈などとは無縁だったりして、それでも、愛を知っているわけです。むしろ、スピリチュアルで成長したとか傲慢になっている人の方が愛を知らないことが多くて、愛を知るという基本的で本質的なところまで達しているスピリチュアルな人というのは意外にそこまで多くないような気も致します。スピリチュアルな人は「情報」とか「知識」を重視しがちですけど、それよりも、普通の生活を大切にして、愛ある生活を心がけている人の方がよほどスピリチュアルであるように思います。まあ、両方あるのが理想ではありますが。

スピリチュアルな人は、情報とか知識とかで学ぶことでこのハートの愛の状態を目指しているのだと思います。であれば、ハートの愛を知るまでは学びの途中ということですから、いくら知識を得て立派になった気がしてもそれは気のせいで、ハートの愛を知らないのであればその程度であるわけです。それでも、知識や学びというものは人を愛に向けて成長させてくれますから無駄ではないのですけど、ハートの愛に達していないのにも関わらず既に自分はそれなりの境地に達したと思って傲慢になってしまうスピリチュアルな人がそれなりにいる、ということだと思います。それよりも、そこら中にいる「本当に良い人」の方がよほどハートの愛に満ちた生活をしているわけです。前々から思っていたことではありますけど、スピリチュアルというのは割と「悟っていない人」向けのものだったりするわけです。本当に悟っているならば修行とかスピリチュアルとか関係ないわけです。

私は今まで、瞑想で至った「至福」とか「満ちている」という感覚の境地で割と満足していましたけど、このハートの「愛」を少しでも知ったなら、そのような(個人的な)至福だとか(個人的な)満ちているという感覚は、まだまだ途中のものだったことがわかるわけです。

これらの新たな理解に達して、愛と言う基本的で本質的な事柄の整理ができたことにより人を見る目というものも変わったのと同時に、自分が心がけるべきところも変わったように思うのです。

まずハートの愛と言うものを知り、それにより、周囲の人のことも理解できるようになる、と言うことだと思います。よく言われているように、自分より下の精神レベルの人しか理解できないわけで、自分がハートの愛を知らなければ他人が愛を持っているかどうかわからない、と言うのも当然のように思います。

清楚系ビッチと本当に良い女性を見分けるには、まず自分が愛を知る、と言うこと。そのような、とても単純なお話だと思うのです。これは相応と言うもので、束縛の愛(マニプラの愛)と言う形も存在していますから、それが悪いわけでもなく、それであったとしても十分、それはそれなりの愛だと思うのです。束縛の愛も、苦しい部分があったとしても、それはとても強い愛なわけです。未だそこに至っていない人も大勢いるわけで、マニプラの束縛の愛にしても相応に素晴らしい愛なわけです。

一方、その次の段階、まず自分がハート(アナハタ)の愛を知ることで束縛の愛(マニプラの愛)より一歩先に出て、その時、本当に良い女性を見分けて見つけることができるように思うのです。

又、愛の状態で生きる、ということは、テレパスで生きる、ということとほぼ同じことであるように思います。愛によってテレパスになるわけです。ワンネスですね。それは自他同一の境地でもあります。

こうして、小学生以来しばらくぶりに状態が戻ってきて、テレパスに戻りつつ、当時は感覚だけでしたけど今は感覚と共に理解も伴い、ハートの愛を理解することで本当に良い女性をある程度は見分けることができるようになり、再度、生活が充実したものになってきたように思うのです。

ヨーガや瞑想をして、静寂だとか、至福だとか、色々言ってはきましたけど、なんてことはない、結局、行き着く先は普遍的なハートの愛だったわけです。そしてそれは、瞑想だとかスピリチュアルだとか色々と言わずとも多くの人が自然に実践している普通のことだったわけです。その、普通のことを私は知らなかった、忘れていたわけです。忘れていたが故に、それが何やら大層なものであるかのような気がしておりましたが、なんてことはない、普通の愛こそが知るべきものだったわけです。思い出してみれば、私がかつて小学生の頃に抱いていた気持ちと割と同じものだったわけです。長らく、その感覚を忘れていたのです。

ハートが開き、感情が豊かになり、なんてことはない普通の愛の感覚こそがヨーガやスピリチュアルで言われていることそのものだったことを理解した時、今までいかに自分の認識が足りていなくて普通の愛の感覚に欠けていたかを実感したわけです。そしてそれは、この状態に達する前までは別物かのように思っていたことが、実は同じものだった、ということをはっきりと認識できるまでに成長したわけです。

ヨーガやスピリチュアルをして、静寂の境地など各種の状態に達することで、あたかも自分が成長して優れた人間になれたかのような錯覚に陥っていたわけです。実のところ、そんなヨーガやスピリチュアルをしなくても普通に愛に満ちて生活して日々の辛い生活を過ごしながら愛を実社会で実践している人は大勢いるわけで、本当に素晴らしくて凄いのはこの難しい社会の中で愛を実践している人たちなわけです。それに比べたら、限られた環境の中でヨーガやスピリチュアルでちょっと成長していい気になっていた私など小童に過ぎなかったわけです。スピリチュアルや宗教が気持ち悪いと感じたり偽善的だと感じる要因の一つとして、この普通の愛に到達することなしに愛を語る人がいるから、という側面もあるように思うのです。

どうやら、このハートの愛に関する理解に達するまでは、まだ十分に愛というものを知らなかったように思います。ずっと忘れていたように思うのです。表現として「愛を知る」とは言ったりしますけどこれは比喩表現であって、知的に何かを暗記して勉強したということではなく、これは、愛の状態に至った、ということを一応「知る」と比喩的に表現しているわけです。愛は勉強して「知る」というものではないのですけど愛の状態になりさえすればその状態に対する「理解」は得られますのでその状態の認識に対して「知る」と比喩的に表現するのは間違いではないように思うのです。これがあたかも知的な理解かのように誤解してしまうような「愛を知った」という表現は割と誤解があって不適格ではある気もするのですけど、そうは言いましても愛の状態になりさえすれば比喩表現として「愛を知る」と表現してもわかっている人からしたらそう誤解はないと思いますし、以前よりも愛というものに対する理解が深まったように思うのです。そのように、まずハートの愛の状態になることで、世間で言われている愛の状態に関する理解がその通りだったという理解に至ったわけです。

愛で生きる、ということの第一歩を踏み出せたように思うのです。それも全て、私を愛してくれた(そして悲しんで涙を流してくれた)多くの女性と、私が好きになることができた何人かの女性たちのおかげでもあります。そしてそれは、異性を愛するということだけでなく、万人に向けての普遍的な愛へとも繋がっていると思いますし、また、元々の、あるべき姿に戻った、と言うことでもあると思います。

ハートの愛というものは人の根本であって、誰しもが持っているものだと思います。それが社会生活を過ごすにつれて曇らされ、認識が歪み、いつしかハートの愛というものがわからなくなっても、ハートの愛を求め続けていればやがてそのハートの愛の状態に戻ってこられる、ということだと思うのです。



あとがき


数週間前から現実と食い違うフラッシュバックによる魔境かと思っていたのですけど、フラッシュバック自体は割と現実で本当のことで、私の解釈が違っていた、と言うことだったようにも思うのです。今、解釈も含めてかなり理解が正しいものに修正され、苦しさはありません。この正しい理解へと至った基礎が、不完全な感情を完全な感情へと昇華すると言うところだったかと思います。

スピリチュアルでは時折、意識は1つしかない、みたいなことが言われます。これは、時折、意識には高次と低次があるとスピリチュアルで言われていることと矛盾するように一見すると見えるかもしれませんが、それは、過渡期では分かれているように主観では感じられるけれどもこの段階になると意識は1つなのです。比喩として「完全な感情」とでも言える段階になると意識は1つに感じられるように思います。

スピリチュアルに全く目覚めていない状態では低次の意識である普通の思考するマインドしか感じられない状態ですけど、少し目覚めてくるとその通常の低次の意識の他に高次の意識が別のものとして存在しているような主観の感覚が現れてきます。まだスピリチュアルでそれほど成長していない場合は高次の意識と低次の意識が離れていて線のようなものでかろうじて繋がっているように感じられて、その過渡期の状態の時は2つの意識があると錯覚していてその主観としてはそれほど間違いではなくて、低次の自分であるところの普通の思考するマインドが高次の意識を感じている状態では分離感と共にある程度の一体感があるわけです。低次と高次と分かれてはいるものの、それなりの一体感があって、一体といえばそうですし、分かれていると言えば、それもそうなわけです。そのように、低次と高次の意識が分かれている、という段階があるのですけど、それは理屈から言っても実際から言っても錯覚で、本当は、最初から1つなわけです。高次の側からすると最初からワンネスですけど、低次の自分が分離を錯覚していただけなわけです。そのような過渡期を超えて、高次の意識と低次の意識との分離感がなくなると「完全な感情」と比喩される状態になって、その時、愛とかワンネスとか新たな認識・状態に至るように思うのです。この時、文字通り、意識は(低次も高次もなくて)1つであり、自らの意識においてもワンネスになるのです。そしてそれがそのままハートの愛の状態なわけです。

このことにより、過去のかつての認識が実際と食い違っている、と言うことに多々気がつきました。それらを次からの記事で羅列させて頂きます。



愛とイライラ(次の記事)