神田神社(神田明神)@千代田区外神田(時系列の前記事)
転生の基本形と変則形(同テーマの前記事)

「私とは誰か?」と言う問いの答えを元にした転生の理解

2023-03-20
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

それに加えて変則的な場合も多々あって、グループソウルから分霊として分かれた後、更に2つに分かれて片方が受肉し、もう片方はスピリットのままガイドとして導く、という場合もあります。ですので、繰り返しになりますが、スピリチュアルが成長する過程で必ずハイヤーセルフ(=ガイド)と一体になるわけではなく、分かれていた方が都合が良い場合はずっと分かれているわけで、最初から決めている場合もあればそうでない時もあり、文字通り、時と場合によるわけです。ガイドが出現する時期も人によって異なるわけで、最初から分かれていてずっとガイドになって一生を過ごす場合もあれば、最初からいた上で途中で合一する場合もあり、一方、最初はガイドはいなかったものの、必要に応じて新たにグループソウルから分霊が作られた上で地上にいる個人と合一(ハイヤーセルフと合一)という場合もまたあるわけです。

こうしてみますと、前世とか、過去生というものはグループソウル全体としての経験の融合であって、個人のものではないということがわかります。そもそも、「私」という個人が今のこの肉体だけに縛られているという考え方ですとこのあたりは理解しにくくて、生まれる前はもちろん、生まれた後も有機的に魂の分離と結合を繰り返すわけです。とは言いましても分離と結合がしやすいのは死後の魂の状態ですから生まれた後は割と同じ魂を有する場合がほとんどなわけですけど、必要に応じてハイヤーセルフとの融合(グループソウルからの分霊との融合)が行われたりするわけです。こうなると、もはや、「わたし」という存在がこの世ですら同一とは言い難くなったりするわけです。もはや「わたし」など存在しない、と考えた方がスッキリすることも多く、実際、実態はそうで、この肉体に縛られた私という概念(ヴェーダンタでいうところのジーヴァ)は、理屈だけでなく、本当の本当にそれは幻想の私という概念に過ぎないものであることがわかります。

ヴェーダンタの問いかけ、あるいは、ラマナ・マハリシの問いかけにあるように「私とは誰か? 私とは何か?」という問いの答えが、ここにきて重要性を帯びてきます。

普通の人は自我としての私、いわゆるジーヴァを私と思っているわけですが、文字通り、寸分の疑いもなく、自分はジーヴァではない、と感じられて、自分は(ヴェーダンタで言う)アートマンである、あるいは、ハイヤーセルフである、ということを本当の意味で感じられると、もはやそこには「個」としてのジーヴァとしての自我の感覚はほんの少ししかなく、ほぼ8割から9割がアートマンあるいはハイヤーセルフの意識となるように思うのです。

理屈から言えばジーヴァとしての私の感覚はゼロの筈ですが実際のところこの地上を生きているわけですから否応にもジーヴァとしての自分を保持するしかなく、常に他者との違いを意識して気をつけて生活をするわけですからジーヴァとしての感覚は保持する方が良くて、この段階になると、気をつけていないとどんどんとジーヴァとしての自我の感覚がなくなっていきますから日常生活を送る上ですれ違いが多くなってきてしまい、割と意識して、気をつけて2割はジーヴァの感覚を残しておいた方がいいかなと思うわけです。

ですが、そのような日常生活の制約を除けば、心の中では自分はアートマン、自分はハイヤーセルフ、と言う自覚が増してきていて、そうなると、転生のこともアートマン主体、ハイヤーセルフ主体で考えられるようになりますので、グループソウルの分霊としての私がここにいる、という理解が正しいものであることがすんなりと受けいられるようになります。



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