スピ用語の「明け渡し」がよくわからなくなる

2022-11-15
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

(続き)

エゴが残っている状態ですとエゴから他のもの、例えば高次元の存在だとかハイヤーセルフ等に「明け渡す」という理屈になるのかもしれませんけど、実際にはそういうことではないのです。明け渡す、ということは2つのもの・存在があって、片方から片方に明け渡す、ということかなと思いますが、高次の存在も自分自身ですので、実際は、明け渡す、というよりもエゴがハイヤーセルフに吸収されるという方が正しいのです。

ヨーガでは純粋精神のことをプルシャと言っていて、純粋精神(プルシャ)に立ちかえることが悟りに近い状態と定義しています。

ヴェーダンタでは本当の自分はアートマン(個としての視点)あるいはブラフマン(全体としての視点、この宇宙の全て)としており、視点の違いだけであってアートマンとブラフマンは実は同一としています。

ハイヤーセルフはプルシャあるいはアートマンと同等とみなすことができて(流派の方には異論もあるかもしれませんが)、そうすると、エゴがハイヤーセルフに吸収されるという過程は、エゴが自分自身を自覚してプルシャあるいはアートマンが本当の自分であることに気がついて明け渡していく過程であると言えばそうなのですけど、実際には、そもそも最初からアートマンやプルシャとエゴは分離をしていなくて、最初から一体であるわけです。それがどういうことかエゴの方が錯覚をして別物であるかのように振る舞っていたものですから物事がうまく行かなかったりするのですけど、そのように分離している状態ですと、確かにプルシャとアートマンとは同一ではあるのですけど、そうは言っても、エゴのところだけオーラが少し偏った状態になっているわけです。

その、エゴが偏っている状態はヴェーダンタでアヴィッディアー(avidyā)(あるいは仏教で無知)と言われていてエゴは錯覚でしかなくて本当の自分はプルシャあるいはアートマンであるのにエゴが自分だと勘違いしている状態なわけです。そのような状態ですと、そもそも錯覚である自分自身が「明け渡し」をするという認識もあるにはありますけど、そもそも最初から分離していないのですから、「明け渡し」という概念すらも錯覚なわけです。

錯覚ではあるのですけど、最初の段階としては確かに「明け渡し」から始まって、そして、最後はハイヤーセルフにエゴが「吸収」されてしまうわけですけど、そうなると、もはや明け渡しも吸収もなくなって、ただハイヤーセルフがあるわけです。ハイヤーセルフの中には既に吸収された、既に一体となったエゴがあるにはあるわけですけど、一体となった以上はもはや(分離の意識に基づいた)「明け渡し」も「吸収」も存在しないわけです。

このような状態になると、スピでいう「明け渡し」とかいうのも、何のことかわからなくなります。
記憶と理屈でどういうことかは一応分かりますけど、そのくらいのお話になります。

(続きます)