サイキックと悟りとは一応は切り離して考えるべき

2022-10-27
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

魔法とかサイキックあるいは霊能力という分野がありますけど、これらは気の次元(アストラル界、エーテル、ヨーガでいうプラーナ)を主に扱うもので、それと悟りとは一応は切り離して考えるべきです。

サイキックで何かを予知したり見抜いたり心を読んだりみたいなことは実のところ低いチャクラであるスワディスタナとかでも可能なわけですけど、スワディスタナは無意識のチャクラとも呼ばれていて、自分ではコントロールできず、不意に見えたり聞こえたりしますけど、自分から意識的に情報を取ってきたり発信することはなかなか難しいわけです。意識を失ってトランス状態になったりするのが低いチャクラの特徴で、いくらサイキックだと言ってもスワディスタナくらいが動いていることがかなり状況としては多いのです。

マニプラが動くともう少しサイキックらしいことが意識的にできたりしますけど、一応は、そうしたお話と悟りとは切り離して考えるべきなわけです。

時に、人はこれらのことに必要以上に重きを置いたりしますけど、適切にそれらは捉えるべきなわけです。

語弊があるかもしれませんけど、こういうたとえ話が分かりやすいかもしれません。

例えば整体の技術に優れた人がいたとして、体の不調を取り除いたり体幹を伸ばしたり開脚がよくできるように施術できたとします。そのように整体に優れた人がいたとして、だからと言ってその人が悟っているとは誰も思わないでしょう。施術士が悟っている場合ももちろんあるにはあると思いますけど、整体の技術が優れていて物凄いからといってそれだけで悟っていることにはならないわけです。

それと同じように、サイキックで見えたり聞こえたりしても、整体の技術と同じで、単に技術が優れている、あるいは、単に目が見えたり聞こえたりするだけなのです。

実際のところ、サイキックが見えたり聞こえたりしている能力というものは人が死ねば誰しもが現れる能力なわけで、特別に優れているわけではありません。ちょっとしたテクニックと知識があるか、あるいは臨死や酷い精神的ショックなどが原因で不意にそういう能力が現れてくることがありますけど、それと悟りとはそこまで関係がないのです。

整体の技術を突き詰めるのと同様にサイキックの能力を高めようと思えば色々と修行方法があって、そうすることで現世利益の追求もできますけど、そこまでしても悟りとはそこまで関係ないこともあったりします。

ですけど、時に、特に当の本人はサイキック能力が悟りあるいは優れているかのように勘違いしがちなのです。

(続きます)