自分が到達できるスピリチュアルの到達点は自分の属するグループソウル次第

2022-08-18 記載
トピック:スピリチュアル: 輪廻転生

この認識はかなり重要で、世間でスピリチュアルの手法やらノウハウやら知識が公開されていますけど、それは本人が属するグループソウルの成長の段階で頭打ちするのです。

よく、スピリチュアルで「世界」だとか「全体」だとか「宇宙」とか言われているのは、本人たちもきっと薄々と気づいているのかもしれないですけど、そこで言っている諸々の「全体」という概念は、ほとんどの場合、グループソウルのことを「全体」だと言っているのです。

・主観「(瞑想などで)宇宙と一体になった」
・主観「(瞑想などで)世界と一体になった」
・主観「(瞑想などで)全体と一体になった」

このどれもが、実際は「グループソウルと一体になった」と言っている場合がほとんどのように思います。

実際のところ、他人に属するグループソウルとは意図的にそうしない限りはそうそう重なり合わないのです。

他人のオーラと融合させる手法というものも存在していて、それはそれであるのですけど、他人とオーラを融合させない方が良いのです。これは宇宙の法則でもあって、そうそう他人とオーラを融合させるべきではないのです。他人とオーラを融合させると自分とは全く関係ないカルマや葛藤及びトラウマを引き受けたりすることになりますから、オーラを融合させないのが基本にあるべきなわけです。

その前提に立った上で、自分及び属するグループソウルの認識がどの程度かというと話は単純で、自分が到達できるスピリチュアルの階梯というのは自分が属するグループソウルの意識の階梯になります。自分というのはグループソウルの分霊でありますから、意識のレベルというものもグループソウルと基本的には同等なわけです。

ですから、グループソウルが到達していない意識レベルに到達するためには頑張って認識を深めたり修行したり勉強したりする必要がありますし、他人と比べた場合は、グループソウルが違えば意識のレベルも異なるのは当然なわけです。

そうなってくると、スピリチュアルでよく言われている手法、クンダリーニだとかハイヤーセルフだとかいうお話は、悲しいことですけど、属するグループソウルによっては割と簡単だったり当たり前のことだったりしますけど、そうでない場合ももちろんあるわけです。

それは人それぞれ、グループソウルの辿ってきた歴史にもよるのですけど、大きく分けると地球由来のグループソウルと宇宙を転々としてきたグループソウルではレベルが大きく違っています。

スピリチュアルはグループソウルのレベルでまず頭打ちになって、グループソウルがまだ到達していない部分をそれぞれの分霊が修行したり色々と勉強してそれ以上を目指すわけです。

昨今では唯物論的な世界になってスピリチュアルのレベルが下がりやすくなっていますけど、その場合でも、スピリチュアルの修行や勉強をするとグループソウルが既に達しているレベルまでは割とすぐに戻すことができます。

■スピリチュアルが単なる想像でしかない事も多い

地球由来のスピリチュアルの場合、「信仰」「崇拝」という形を取ることが多いように思います。ですから、地球由来で育ったグループソウルの場合はこちらの形を取る場合が多いのも当然のように思います。こちらの場合、スピリチュアルとは言っても想像して楽しんだりファッションやら形を真似る、という形式になることが多いように思います。それはそれでそこまで悪いことではないですけど、真似たり崇拝及び信仰という形を取るわけです。多くの場合、どこまで行ってもスピリチュアルで言われていることは「想像」でしかなくて、それで一生を終える場合も多々あります。それでも、そのような探求を何世も行えば少しずつ成長してゆくので無駄にはなりません。そうであったとしても、瞑想をして少しでも雑念が少ない生活を送れて幸せな気分になれるのであれば、それでも割と十分すぎるのではないかとも思うのです。地球由来の魂の場合、「静寂の境地」が一つの到達点であるように思います。そのため、多くの宗教で「静寂の境地」が悟りに相当すると謳われているのでしょう。

一方、スピリチュアルで言われている手法を本当に実践できるのは宇宙由来のグループソウル(及び一部の地球由来のグループソウル)で、こちらの場合は本当にクンダリーニが覚醒したりハイヤーセルフと繋がったりして、スピリチュアルで言われていることを実践できるわけです。こちらの場合、静寂の境地を「基礎」としてクンダリーニを活性化させたりハイヤーセルフと繋がったり幽体離脱したり意識が次元を超えたりして、本当のスピリチュアルを実践できるわけです。

長年、スピリチュアルなことが表に出ずに秘密にされてきたのも、スピリチュアルな知識を地球由来の魂が知ったところで理解できないですし自分達の欲望を叶えるために使うだけですので教えるだけ無駄になる、という背景があるように思います。記録や言い伝えによりますと、過去に何度もスピリチュアルな知識を人々の求めに応じて与えてみたことがあったが、そのどれも失望の結果に終わった、ということで、それ以来、安易にスピリチュアルの知識は伝えないという伝統が出来上がったとのことです。

昨今、時代は変わって「もはや秘密ではない」とスピリチュアルの先人たちが知識を公開し始めました結果として私たちも様々な書物を読むことができますが、必ずしも誰しもが理解できるわけではないわけですし、誰しもが実践できるわけでもないわけです。



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