スピリチュアルで「能力を求めない方が良い」と言う意味

2022-08-26
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

よく、スピリチュアルあるいはヨーガでこのようなことが言われますけど、往々にして、間違って解釈されているように思います。

よくある解釈としては、「能力を求めるとスピリチュアルの成長を阻害する」と言うことです。千里眼だとか他人の心を読む力だとか未来を読む力だとか、そのようなものを求めると足枷になって成長が遅れる、というわけです。それはそれで一定の理屈があって、おそらく、大元になっているのはヨーガ・スートラにある一節かと思います。能力を求めると成長が阻害され、求めない者だけが最高のプルシャ(ヴェーダンタでのブラフマンに相当、いわゆる全体としてのセルフ)に到達すると言われています。

そうして特にヨーガ系の流派では能力を求めないと言うことが教義として定着し、能力的なことを言うことが良くないことかのように思われていたりします。そしてそれに影響を受けたと思われるスピリチュアルも、流派によってはそのような方針にそれなりに従っていたりします。

能力のことを言う人は程度が低い、とみなされる風潮があるわけです。

それに、ヨーガ・スートラの解釈の通説として、「能力を使うのはエネルギーの無駄使い」とされているために、能力は成長の妨げのみならず無駄なものであるとみなされているわけです。

これはこれでそれなりの正当性と論理があってこの様に解釈されているわけですが、私が思うに、本当のお話は少し違っているのです。

能力を求めない方が良い、と言うお話は、既にある程度のスピリチュアルの階梯に登った人がわざわざ低次の現れである能力を使うと波動が落ちるかもしれないので注意する、と言う意味であって、そこまで階梯をまだ登っていない人にはあまり関係のないお話なのです。

ざっくばらんに言えば、まだ能力がない人にとっては関係ないお話なのです。

ですけど、何故かヨーガやスピリチュアルの流派では、まだ能力もさほどない人が「能力のことを言うと成長できない」みたいに言っていて、能力の細かい話をすると「そんなことを話してはいけない」みたいな雰囲気になったりします。

確かに、能力を比べてしまって優越をつけてしまうとそれがエゴになって成長を阻害するというお話はあるかと思います。

とは言うものの、能力それ自体はある程度は自分でしっかりと把握する必要があって、それは自分の手足を動かすようなもので、スピリチュアルの能力というものは高次元(あるいは中間的な次元の)自分の体ですので、自分の体を動かすのに何の躊躇があるというのでしょうか。

(続きます)