瞑想でゾーンから無、静寂の境地からハイヤーセルフに至る階梯

2022-07-26
トピック:スピリチュアル: 瞑想録

仕事に集中し、ゾーンに至り、歓喜と共に貢献をすると良いでしょう。
ゾーンを高め、ゾーンに慣れ、日々ゾーンと共に仕事をこなすようにすると良いでしょう。
ゾーンと入れ替わるように出てくる、恒常的な歓喜と共に生活すると良いでしょう。

これは古来から、対象のあるサマーディ(サンプラジュニャータ・サマーディ)として呼ばれているものです。

ゾーンが安定すると、集中力が極まり、やがて、無の境地でくつろぐようになるでしょう。
無の境地で、ありのまま、の対象を認識できるようになるでしょう。

至福の状態が安定し、リラックスが深まると、やがてクンダリーニが覚醒してエネルギーに満ちるかもしれません。

クンダリーニが安定してお腹(マニプラ)、胸(アナハタ)、頭(アジナ)にまで上昇して行き渡るようになると、静寂の境地が現れます。それは観察状態でもあり、古来からヴィパッサナーあるいは対象のないサマーサマーディ(アサンプラジュニャータ・サマーディ)と呼ばれている状態になるでしょう。

やがて静寂の境地が安定するでしょう。

そして不意に、今までずっと一緒にいた筈だったハイヤーセルフあるいはアートマンの顕現を感じるようになり、やがて、そのハイヤーセルフ(あるいはアートマンとも呼ばれる)の意識と融合するでしょう。

一旦、前の段階でアジナまでクンダリーニが至ったわけですが、次のこの変化は胸のアナハタになるわけで、場所としては一旦は戻ったかのような形にはなりますけど、実際には、ハイヤーセルフの意識と繋がることは大いなる飛躍なわけです。

胸のアナハタでハイヤーセルフと融合することにより至福を深く感じるようになり、永遠なる存在がいることが真実であることを直感で実感するようになり、涙が出るほどの感謝の気持ちが湧き出てきて自らを自然に満たし、ありがたい、ありがたい、と言う喜びの言葉も自然に心と口から出てくるようになります。

この地点が一応のスピリチュアルの一つの(最初の)到達地点と言ってもよく、この段階にてハイヤーセルフと合一することこそが、本当のスピリチュアルの始まりでもあるように思います。

最初はハイヤーセルフとの融合はハート(アナハタ・チャクラ)を通じて行われるでしょう。

その後、ハイヤーセルフの意識は再度上昇し、喉のヴィシュッダ、そして眉間のアジナに至ります。


補足:

この最後の状態は一応はサマーディと呼ぶこともできますが、サマーディと呼ぶことすら不適切な状態であり、それは行為でもなく状態でもなく存在そのものでありますので、単にハイヤーセルフとかアートマンの意識と言うくらいがちょうど良く、もしサマーディと呼ぶのであればラマナ・マハルシの言うところのサハジャ・ニルヴィカルパ・サマーディと呼ぶのが相応しいかもしれませんが、それすらも蛇足のように思います。ハイヤーセルフの融合とは段階的に(とは言いましても割と速やかに)行われますので、最初から「サハジャ(自然)」と呼ぶほど強く融合してはいないのですが、かと言って「ケヴァラ(一時的な)」と呼ぶのも相応しくない状態で、この段階になると、ハイヤーセルフと自分の自我の意識とが融合し、意識が拡大します。そうなると、もはやサマーディとかはどうでも良くなるのです。ただ意識だけが広がっていて、それだけなのです。それを何と呼ぶのか、と言うところですけど、単純にハイヤーセルフあるいはアートマンと呼ぶので十分かと思います。ハイヤーセルフの意識に至ることでサマーディを越えたあるいはサマーディとしての完成に至ったと言う感覚があります。流派によってはサマーディと超能力的なお話を結びつけていたりしますけど、そういうお話であれば尚更、サマーディと呼ばない方が誤解がない気が致します。

アジナが次の段階へのゲートウェイの筈ですが、私はまだ喉のヴィシュッダまでですので、私の場合これ以上は今後のお楽しみになります。

サマーディで対象があるかないかは物質の領域かどうかと対応していて、コーザル(カーラナ)までは物質ですのでハイヤーセルフ以前のサマーディは対象のあるサマーディ(サンプラジュニャータ・サマーディ)になるわけですけど、ハイヤーセルフが明確に顕現する前でも一時的に対象のない状態になってハイヤーセルフに部分的に繋がるからこそ静寂の境地になるわけで、眉間に集中して静寂の境地に一時的になっただけではまだハイヤーセルフとしっかりと繋がってはいないのですが一時的に繋がる状態になって、それ故に、静寂の境地では対象のないサマーサマーディ(アサンプラジュニャータ・サマーディ)になります。一方、ハイヤーセルフと繋がった後であれば対象のないサマーディ(アサンプラジュニャータ・サマーディ)が基本となるのですが、その場合、もはやサマーディは「行為」ですらなくなって当たり前の状態になりますので、わざわざサマーディと言うことすら違和感が出るほどサマーディが自然な状態となるわけです。